東宮さまは、決して妃を選ばない。~平安巻き込まれ恋愛絵巻~【完結済】

 織衣は、納得のいかない顔で惟人を見る。さすがに惟人が悩ましげな表情を見せた。

「三つの姫と貴清のことは──先の花合わせの時からなんとなく気になっていた。しかし、これは駄目だ」
「なぜです? 結婚することを許されず、一生を神に捧げなければならない幸姫さまの絶望をお汲み取りくださいませ。好いた人がいればなおのこと」
「南の大社の務めは、阿部家の根幹を成すものだ。それから逃れるために、御妻(みめ)合わせに名乗りを上げたなど──、お役御免どころで済まされぬ。大社の巫女の務めをなんだと心得ておるのだ」
「ではせめて、貴清さまとの結婚をお許しください。さすれば、お二人で南の大社に赴(おもむ)くことができます。そもそも、乙女である必要がどこにありましょうや」
「神に一生を捧げるのだ。名誉なことぞ。汚れなき身で臨むのは当然のことだ」
「そんなこと、」

 惟人の胸をぐいっと押し返し、織衣は惟人と対峙する。彼女は、きっと惟人を見据えた。

「では、私が大社の巫女として参ります。その名誉だというお務めに私をご指名くださいませ」
「何をいきなり言い出すのだ」
「乙女ならば良いのでしょう? 巫女としての素質は……まあそこは、気合いで乗りきります!」
「ならぬ。そんなことはさせられぬ」

 惟人が頭ごなしに否定する。織衣は「なぜ?」と彼に迫った。

「幸姫さまには名誉なことだと汚れなき生き方を強要し、私にはそんなことはさせられぬと? それこそ意味が分かりませぬ。だいたい、男は女に子どもを産ませておきながら、子を成す行為そのものを汚れと言う。私にとって、もっとも美しく気高い女性は私の母にございます。本当に汚れているのは、結婚した女を汚れ物として扱う世の考え方そのものです!」

 織衣は一気に思いのたけを惟人にぶちまけた。惟人が呆れ返った顔をする。

「そなたは、どうしてこうも私を困らせることばかり言う?」
「この程度で困っているのであれば、それは東宮さまの問題かと存じます」
「……」

 ふうっと大きなため息一つ、惟人が織衣に向かって片手を上げた。

「織衣、こちらに来い」
「な、何を……。誤魔化さないでくださいませ」
「いいから。おまえを抱き締めながら考えたい」

 面と向かって言われ、織衣は顔を真っ赤にさせて身を強ばらせる。いきなり「抱き締めながら考えたい」と言われても、「はい、そうですか」と応じられるわけがない。
 惟人は手を上げた状態でじっと待ってくれている。命令をすることだってできるのに、こちらの気持ちを尊重しようとしている。これが本来の彼の姿なのだろう。
 初めて会った時、名前さえ呼ばれず、なんて横暴な東宮だろうと思った。それが今、こうして惟人の本当の姿を目にするようになり、互いの距離も近くなった。

(変わったのは私も同じ)

 織衣はためらいながら惟人の手を取る。出会った頃であれば、あり得ない行動。でも今は、惟人にもう少し触れてみたいと思う。
 次の瞬間、織衣は一気に引き寄せられて、惟人の広い胸に再びぽすんと収まった。

「あ、あの──っ」
「おまえも、ここへ嫌々来たのであろう。織衣?」

 頭上で惟人の声がした。こちらに問いかけているような、独り言のような、そんな口調だった。織衣は言葉に詰まる。

「私は──」
「隠さずとも良い。初日の顔にありありと書いてあった。女に刃を向ける東宮などに興味はないと」

 そう言われると、言い返す言葉もない。確かに当初は、御妻合わせも他人事で、惟人ともこんなに深くかかわり合うつもりはなかった。
 でも今は違う。聞きたいことがたくさんある。織衣は、一呼吸おいて気持ちを整えてから、おそるおそる惟人に尋ねた。

「その──、側仕えの女房に刃をお向けになったというのは本当のことでございますか?」
「そういう騒動があったことは事実だ。しかし、子細は言えぬ」

 はっきりと答え、惟人は自嘲的な笑いをもらした。

「宮中は、正しいことをしていても、弱い者が強い者に虐げられる仕組みになっている。頭にあるのは体面を保つことばかりで、物事の本質を見ようとする者も、信頼に値する者も、ほんの一握りの人間だけだ」

 言って惟人は織衣を見つめた。その目はどこか遠く、織衣を通して違う誰かを見ているようだ。

「おかしいことをおかしいと声に上げ、心ない嫌がらせにも屈しない。母もおまえのようであれば、負けることはなかったかもしれぬ」
「……萩壺の更衣さまのお話は、私も遠野から聞きました。さぞお辛かったことでしょう」 
「母は弱かっただけだ。だから死んだ」
「そんなことありませぬ」

 織衣は惟人に頭を振り返した。
 惟人は今でも過去に囚われている。内裏という場所がそうさせる。でも、それでは前に進めない。

「女はいつでも己の運命と戦っております。きっと萩壺の更衣さまも戦っておられたと思います」
「そうかな」
「そうですとも。だって東宮さまをきちんとお産みなされたではありませぬか。これは、勝ったも同然にございます」

 名のある姫君が己の存在意義をかけ寵を競い合う。その中で、嫌がらせを受け続けながら惟人を生んだ萩壺の更衣の心情を思う。おそらく彼女の最期の意地ではなかったか。

「こうして惟人さまが東宮となり、大勝利にございます。母君さまは、決して弱くはございまぬ」
「……そうか」

 いきなり全てをというわけにはいかないものの、惟人の表情が少し吹っ切れたようにも見え、織衣は笑った。
 すると、惟人が愛おしげに織衣の頬を撫でた。

「今、惟人と呼んだな」
「……あ、いや、東宮さまを励ましたい一心で……」
「もう一度、惟人と」
「へ? あ、あらためてそう言われましても──」
「言えぬか」

 織衣の胸がどくんと鳴った。嬉しいような恥ずかしいような、なんとも言えない感情が織衣の中から湧き起こってくる。自分の気持ちであるはずなのに、うまく言葉にできなくて、ひどくもどかしい。
 胸の高鳴りを抑えつつ、逡巡することしばし。

「惟人さま」

 一気に名前を口にして、織衣は真っ赤な顔でうつむく。もう惟人の顔を見ていられない。
 すると、ふいにあごをすくい上げられ、惟人に顔を覗かれる。彼の黒い瞳に吸い込まれそうになる。
 惟人がゆっくり顔を近づけてきた。さらに胸が締め付けられて、織衣は惟人の衣の袖をぎゅっと握り締める。静かに目を閉じれば、唇に柔らかな惟人の唇とひげのごわごわした感触が重なった。
 互いの吐息が交じり合い、時が止まる──。

「私の側におれ」

 命令口調がどこか惟人らしい。ふわふわとした心地に包まれて、織衣はこくりと頷いた。



 それから織衣は惟人に手を引かれて五乃舎に戻った。幸姫の件はうやむやになってしまったが、これ以上は惟人を問い詰める気になれず、織衣はひとまず引き下がった形となった。丸め込まれてしまったとも言う。
 五乃舎に着くと、遠野が手をつないだ二人の姿を見て、「まあ」と顔を上気させる。

「織姫さま、東宮さまとお会いになるなら最初からそうおっしゃってくだされば──」
「たまたま四乃舎で一緒になっただけ。勘違いしないで」

 あくまでも偶然であることを強調するも、遠野は全く聞いていない。それどころか、惟人に部屋で休んで行けと引き止める始末である。

「駄目よ、遠野。東宮さまは明日も早いわ。お帰りよ」

 遠野に注意する体(てい)で、間接的に惟人に対し退出を促す。さすがにこれ以上は、こちらの気持ちが保たない。少し一人になって落ち着きたい。
 すると惟人が織衣の手を持ち上げて、その指先に口づけを落とす。そして甘やかな眼差しで織衣を見つめた。

「また来る。それまでに方策も考える。少し時間が欲しい」
「はい」

 こちらの話を忘れず、きちんと対応してくれるようだ。
 そして何より、また会いに来てくれる。
 胸がきゅっと締め付けられるのを感じながら、織衣は小さくうなずいた。