東宮さまは、決して妃を選ばない。~平安巻き込まれ恋愛絵巻~【完結済】

 その後、姫君たちはそれぞれの殿舎に解散する。姫君たちが住む殿舎は、近い場所から、初乃舎(はつのや)、次乃舎(つぎのや)、三乃舎(みつのや)、四乃舎(よつのや)、五乃舎(いつつのや)となり、身分や家柄の順に格式の高い殿舎に入ることになっている。

 そして織衣(おりえ)は、東宮の住まいである春陽殿から最も遠い五乃舎であるわけだが、内裏(だいり)見物を決め込んでいる織衣としては最適な場所とも言える。

「うん、悪くない部屋ね。夏になればクチナシが綺麗な花を咲かせそうだわ」

 庭に植えられたクチナシの木を眺めながら織衣は女房に話しかけた。
 お付きの女房は、自由に連れてきて良いとのことだったので、織衣は信頼のおける者を三人ほど連れて来た。その中の古株の女房が、織衣の教育係でもある遠野という女性である。
 遠野はかつて内裏に出仕していたことがある女性だ。今は近衛府少将と結婚し、その縁もあって大伴家に仕えている。
 遠野が、大伴家から持参した荷物を整理しつつ織衣に言った。

「何をのんきにおっしゃっておりますやら。先ほどは肝を冷やしました」
「あら、売られた喧嘩は買うクチよ。結果的にお咎(とが)めなしだから大丈夫よ」
「……先が思いやられます。二度目のお言葉で顔をお上げなさったのも──、典侍さまのお話しをきちんとお聞きにならないからでございます」
「だって、くどくどと長いんだもの。東宮さま本人だって、無駄だとおっしゃっていたではないの」
「少しは反省してくださいませ」

 ため息一つ、しかし、遠野がすぐに気持ちを切り替え織衣に進言する。

「織姫さま、あらためて気を引き締めて参ります。さっそくですが、他の皆さまにご挨拶に上がりましょう」
「もう? 行きたいとは思っていたけれど、今着いたばかりよ」
「なればこそ」

 遠野がずいっと前に進み出た。

「初乃舎(はつのや)にお入りあそばされた女柏宮(おんなかしわのみや)さまから順に、いち早く挨拶へ上がることが、五乃舎(いつつのや)の姫君として大切な初手にございます」
「でも、東宮さまは無駄な儀礼はしなくていいとおっしゃったわ」
「それはそれ。他の方々がどう思っているかは分かりません。むしろ、どう思っているか、さぐる必要がございましょう」
「さぐるって──、私は誰とも競うつもりはないわ」
「つもりがなくても巻き込まれる可能性は大いにあります。動きの遅い格下は格好の餌食(えじき)です。先手必勝、今すぐ参るのがよろしいかと」

 ふむ。身を守るために、攻めろということか。
 剣の手合せとは趣がかなり違うが、こうした駆け引きもまた悪くない。それに他の姫君の人柄も知りたいところである。

「分かったわ。遠野、お願い」
「はい。では、参りましょう」

 遠野はどこまでも手際がいい。彼女はすぐさま残りの仕事を他の女房に任せると、織衣の先に立って部屋を出た。
 初乃舎(はつのや)は東宮の寝所に最も近い。ここに入る女柏宮(おんなかしわのみや)は、皇族である。名は咲子、父親の柏(かしわの)親王は、今上帝(きんじょうてい)の弟君にあたり、惟人(これひと)の一つ上の従姉(いとこ)となる。
 初乃舎に行くには、各々の部屋の前を通り過ぎることになるので、こちらの動きは筒抜けだ。東宮の寝所へ参上するとすれば、またしかり。
 案の定、各殿舎を通り過ぎる際、織衣の動きに気づいた女房たちが焦る様子を見せている。

「……なるほどね。上の殿舎になるほど下の動きは丸見えで、下は上の動きがまるで掴めない」
「左様にございます。五乃舎は最も不利であると心得くださいませ」

 視線は前に向けたまま、遠野が小声で織衣に言った。そして、次乃舎(つぎのや)に差しかかった時、そこだけ様子が違うことに織衣は気がついた。

「遠野、」
「はい。どうやら織姫さまと同じく攻め(・・)の姫君がいらっしゃるようです」

 二番目の部屋である次乃舎、女房たちは織衣の姿を見ても慌てる様子が全くない。むしろ、含み笑いさえ浮かべている。
 ここの主は、左大臣一条(いちじょう)元親(もとちか)の娘で、今回の妃候補で最も有力視されている姫君だ。無意識のうちに織衣たちの歩調が早くなった。
 次乃舎を過ぎてしばらく進むと、初乃舎が見えてきた。二つの殿舎を渡す廊下の端に取り次ぎ役の女房が一人控えている。遠野は彼女に歩み寄り、女柏宮(おんなかしわのみや)に挨拶に来たことを告げた。
 すると取り次ぎ役の女房は、遠野の背後にいる織衣を一瞥してから困った顔で答えた。

「今ほど左大臣の姫君、菊姫さまがご来舎され、宮さまとご歓談中にございます。織姫さまにおかれましては、別室でお待ちいただきたく……」

 やっぱり。
 織衣は遠野を押し退け、ずいっと前に出た。

「ちょうどいい。まとめてご挨拶申し上げますゆえ、案内を頼みます」
「それはさすがに──」

 取り次ぎ役の女房がおろおろとたじろいだ。なぜなら、先客に割り込むことができるのは格上の者というのが通常で、本来であれば織衣は待たなければならないからだ。
 しかし、ここで待たされては他の姫君たちが来てしまう。そうなれば、五乃舎(いつつのや)の織衣は挨拶の順を彼女たちに譲らねばならなくなる。

(これはあまりにも不利ね)

 このような不公平な扱いを甘んじて受け入れる気はない。幸い、東宮からは「勝手にしていい」と言質(げんち)を取っている。

「私も時間を無駄にはしたくありません。あなたに迷惑はかけないからお願い」

 最後は語気を強めて織衣は取り次ぎ役に詰め寄った。
 織衣に押し負ける形で女房がおろおろと部屋へ案内する。遠野が顔を強ばらせ織衣に耳打ちした。

「織姫さま、さすがに強引すぎます」
「分かっているわ。お叱りは後からいくらでも。でも、こういう堅苦しい場所はいつだって前例がないってだけで通じないもの。だったら多少強引でも前例を作るまでよ」

 少し進んで、先を行く女房が足を止めた。几帳(きちょう)に隠れてこちらから奥は見えないが、女性同士の話し声が聞こえてくるので、どうやら女柏宮がこの先にいるらしい。
 女房が畏まりつつ部屋の奥に告げる。

「五乃舎(いつつのや)の織姫さま、宮さまへご挨拶に参られました」 
「おや、騒がしいと思うたら。織姫、入りや」

 おっとりした声が織衣《おりえ》を呼んだ。
 織衣は、さっと部屋の前に座り、深く頭を下げる。その時、取り次ぎの女房に「ありがとう」の言葉も忘れない。女房は、思いがけず織衣にお礼を言われ、わずかに顔をほころばせて下がっていった。
 織衣は顔を上げ、あらためて場を確認する。

 上座中央に、白地に蝶の紋様が浮き出た小袿(こうちぎ)を羽織った女性が脇息にもたれかかり座っている。凛然とした空気をまとい、それでいて優美で柔らかな物腰には隙がない。女柏宮(おんなかしわのみや)咲子、その人である。
 そして左側には、若紫に菊紋様の小袿を着た目鼻立ちのはっきりとした女性がいる。まさに大輪の菊の花を思わせるのは、次乃舎(つぎのや)に入った一条元親(もとちか)の娘、千菊だ。その背後には、お付きの女房が座っている。
 織衣の姿を見るなり、千菊は冷ややかな表情を浮かべた。