一方、急いで四乃舎まで来た織衣は、庭へと降りる階段がある場所でようやく足を止めた。
このままでは駄目だと思って来たものの、なんの方策も考えていない。
(これでは、また覗き見するだけで終わってしまう……)
せめて幸より先に貴清に声をかけることはできないだろうか。彼となら冷静に話ができるような気がした。
その時、殿舎の奥でふいに衣擦れの音がした。織衣はびくっと体を震わせた。
(もう来た──?)
とっさに柱の影に隠れて廊下の先に目を凝らす。すると、白い影がおろおろとさ迷っているのが見えた。
(……あれは、幸姫さまではないわ。でも、ちょっと待って。では、あれは? まさか例の白い物の怪?)
物の怪は幸とは別物だったのかと、織衣は初めて気づく。そもそもだ、出てくるにしても間が悪すぎる。
(二人が来るかもしれないって時に──!)
半ば怒りさえ感じつつ、それでも物の怪だったら怖いので、織衣はしばらく柱の影から様子をうかがった。
白い物の怪は、前回と同じように殿舎の中を行ったり来たり、ぐるぐると回ったりしている。
(なんだか迷っているみたい……)
それに落ち着いて耳を澄ませば、足音もしっかり聞こえる。
つまりは、生きた人間だ。
織衣は意を決して、そろそろと柱の影から抜け出ると、少しずつ物の怪との距離を詰める。近くまで来てみると、思ったより上背があることが分かった。
さらに、ぶつぶつと何かを呟いている。織衣は耳を澄ました。
「……私が悪かった──。いや、東宮たるもの、簡単に謝ったらおかしい。許せ──。ああ、なぜ私が許しを請わねばならん。機嫌を直せ──。そんなことを言ったら、今度こそ何様だと殴られそうだ……」
ちょっと困った感が増し増しだが、この聞き覚えのある艶めいた低い声は。
「何をなさっておられるのです? 東宮さま」
織衣が声をかけると、白の直衣姿の惟人がずさっと後ずさりした。
そして目をぱちくりさせて織衣の姿をまじまじと見る。
「お、織衣か?」
「それ以外に誰に見えます?」
ひくりと顔をひきつらせて言い返せば、惟人はさらにたじろぐ様子を見せた。
おや、ここまで慌てる東宮さまも珍しい。
なんだかよく分からないが、織衣はちょっと勝った気分になる。
同時に、白い物の怪の正体が分かり、彼女はほっとした。
「ここ最近の物の怪騒ぎの原因は、東宮さまでらしたのですね」
「物の怪騒ぎだと?」
「はい。珠姫さまの生霊ではないかと大騒ぎで。一人で勝手にうろつかないでくださいませ。周りの者が迷惑にございます」
「おまえ、人があれこれ悩んでいたというのに、それを迷惑などと申すか」
「はい、おかげで──」
その時、再び廊下の向こうから衣擦れの音が近づいて来た。
はっ! 今度こそ来た!!
織衣はとっさに惟人に飛びかかり頭を押さえつけた。
「何を──」
「しっ。いいからこちらへ」
織衣は惟人に姿勢を低く保つよう身ぶり手振りで指示しつつ、二人で床を這いつくばりながら庭の見える部屋まで進む。
東宮に何をさせているのかと批判されそうだが、事は急を要するので気にしないことにする。
そして織衣たちは、適当な柱の影に二人で身を隠した。
「織衣、何事だ?」
「静かに。何があっても声を出してはなりません。今から私たちは柱です」
「説明がなっていないぞ。めちゃくちゃだな」
「とにかく、柱と一体となってください」
すると次の瞬間、惟人が織衣を胸元に引き寄せた。口から飛び出しそうになる声を織衣が寸でのところで飲み込めば、惟人の囁き声が耳たぶを打った。
「よく分からないが話に乗ってやる。私と一体となれ」
違う! 一体となるのは私とではなく柱!
思いっきり否定したかったが、大声を出せないのだからどうしようもできない。せめてもう少し距離を取ろうと思っても、惟人の力強い腕はびくともしない。
胸に押し当てられた耳から惟人の鼓動が聞こえた。逢瀬の現場を覗き見する緊張も相まって、織衣の胸は早鐘のように鳴っている。
惟人はと言うと、憎らしいほど平然としている。どういう状況なのか分かっていないせいもあるからか、気持ちが凪いでいるのが分かる。どきどきしているのは自分だけだなんて、ちょっと不公平だと織衣は思う。
衣擦れの音がゆっくりと近づいて来る。そしてそれは、庭へと続く階段の前で止まった。
ややして、幸の静かな声が響いた。
「貴清さま」
「ああ、ここだ」
幸の声に応えるのは、貴清の声である。織衣を抱く惟人の手が一瞬だけぴくりと動いた。
二人は前回と同じく、月明かりを避けて四乃舎の殿舎に入って来た。そして、適当な場所で身を寄せ合って座った。
「今日も月が綺麗にございます。幼き頃、二人で屋敷を抜け出し、月夜の梅を見に行ったことを覚えていらっしゃいますか」
「ああ、覚えているとも」
織衣と惟人が聞いているとは知らず、二人は思い出話を続ける。しかし、自然と話題は幸のこれからをどうするかになり、御妻合わせを下がらせたい貴清と大社の巫女になりたくない幸で意見は合わず、なんの解決策も見い出せないまま二人は物別れに終わった。
幸と貴清の気配が消え、再び静寂が四乃舎に戻る。
(結局、今日も何もできなかった)
惟人の腕の中、織衣は思わずため息をもらした。だが、一つだけ進展があった。東宮である惟人がこのことを知ったのだ。
「あの、東宮さま……」
織衣は、おそるおそる惟人に声をかけた。
惟人は動かない。じっと織衣を抱いたままである。
大なり小なり衝撃は受けただろうなと思いつつ、織衣は惟人の顔を見上げる。
幸の行いは、誤魔化しようのない不貞行為である。思慮なく守泰と会っていた珠緒の場合とは明らかに違う。
(でも、そうだとしても)
これが、貴清への愛を信じ、自由を求めた幸の選択だったのだ。彼女の必死の決断を、誰が止めることができただろう。
織衣は惟人の胸にしがみつき訴えた。
「東宮さま、どうか幸姫さまに対し寛大なご判断をお願いいたします。幸姫さまと貴清さまが深く悩んでいらっしゃるのも、二人のやり取りから分かったはずです」
惟人はすぐには答えてくれない。もどかしい時間が過ぎる。
しばらくして、
「駄目だ」
惟人が唸るように言った。
このままでは駄目だと思って来たものの、なんの方策も考えていない。
(これでは、また覗き見するだけで終わってしまう……)
せめて幸より先に貴清に声をかけることはできないだろうか。彼となら冷静に話ができるような気がした。
その時、殿舎の奥でふいに衣擦れの音がした。織衣はびくっと体を震わせた。
(もう来た──?)
とっさに柱の影に隠れて廊下の先に目を凝らす。すると、白い影がおろおろとさ迷っているのが見えた。
(……あれは、幸姫さまではないわ。でも、ちょっと待って。では、あれは? まさか例の白い物の怪?)
物の怪は幸とは別物だったのかと、織衣は初めて気づく。そもそもだ、出てくるにしても間が悪すぎる。
(二人が来るかもしれないって時に──!)
半ば怒りさえ感じつつ、それでも物の怪だったら怖いので、織衣はしばらく柱の影から様子をうかがった。
白い物の怪は、前回と同じように殿舎の中を行ったり来たり、ぐるぐると回ったりしている。
(なんだか迷っているみたい……)
それに落ち着いて耳を澄ませば、足音もしっかり聞こえる。
つまりは、生きた人間だ。
織衣は意を決して、そろそろと柱の影から抜け出ると、少しずつ物の怪との距離を詰める。近くまで来てみると、思ったより上背があることが分かった。
さらに、ぶつぶつと何かを呟いている。織衣は耳を澄ました。
「……私が悪かった──。いや、東宮たるもの、簡単に謝ったらおかしい。許せ──。ああ、なぜ私が許しを請わねばならん。機嫌を直せ──。そんなことを言ったら、今度こそ何様だと殴られそうだ……」
ちょっと困った感が増し増しだが、この聞き覚えのある艶めいた低い声は。
「何をなさっておられるのです? 東宮さま」
織衣が声をかけると、白の直衣姿の惟人がずさっと後ずさりした。
そして目をぱちくりさせて織衣の姿をまじまじと見る。
「お、織衣か?」
「それ以外に誰に見えます?」
ひくりと顔をひきつらせて言い返せば、惟人はさらにたじろぐ様子を見せた。
おや、ここまで慌てる東宮さまも珍しい。
なんだかよく分からないが、織衣はちょっと勝った気分になる。
同時に、白い物の怪の正体が分かり、彼女はほっとした。
「ここ最近の物の怪騒ぎの原因は、東宮さまでらしたのですね」
「物の怪騒ぎだと?」
「はい。珠姫さまの生霊ではないかと大騒ぎで。一人で勝手にうろつかないでくださいませ。周りの者が迷惑にございます」
「おまえ、人があれこれ悩んでいたというのに、それを迷惑などと申すか」
「はい、おかげで──」
その時、再び廊下の向こうから衣擦れの音が近づいて来た。
はっ! 今度こそ来た!!
織衣はとっさに惟人に飛びかかり頭を押さえつけた。
「何を──」
「しっ。いいからこちらへ」
織衣は惟人に姿勢を低く保つよう身ぶり手振りで指示しつつ、二人で床を這いつくばりながら庭の見える部屋まで進む。
東宮に何をさせているのかと批判されそうだが、事は急を要するので気にしないことにする。
そして織衣たちは、適当な柱の影に二人で身を隠した。
「織衣、何事だ?」
「静かに。何があっても声を出してはなりません。今から私たちは柱です」
「説明がなっていないぞ。めちゃくちゃだな」
「とにかく、柱と一体となってください」
すると次の瞬間、惟人が織衣を胸元に引き寄せた。口から飛び出しそうになる声を織衣が寸でのところで飲み込めば、惟人の囁き声が耳たぶを打った。
「よく分からないが話に乗ってやる。私と一体となれ」
違う! 一体となるのは私とではなく柱!
思いっきり否定したかったが、大声を出せないのだからどうしようもできない。せめてもう少し距離を取ろうと思っても、惟人の力強い腕はびくともしない。
胸に押し当てられた耳から惟人の鼓動が聞こえた。逢瀬の現場を覗き見する緊張も相まって、織衣の胸は早鐘のように鳴っている。
惟人はと言うと、憎らしいほど平然としている。どういう状況なのか分かっていないせいもあるからか、気持ちが凪いでいるのが分かる。どきどきしているのは自分だけだなんて、ちょっと不公平だと織衣は思う。
衣擦れの音がゆっくりと近づいて来る。そしてそれは、庭へと続く階段の前で止まった。
ややして、幸の静かな声が響いた。
「貴清さま」
「ああ、ここだ」
幸の声に応えるのは、貴清の声である。織衣を抱く惟人の手が一瞬だけぴくりと動いた。
二人は前回と同じく、月明かりを避けて四乃舎の殿舎に入って来た。そして、適当な場所で身を寄せ合って座った。
「今日も月が綺麗にございます。幼き頃、二人で屋敷を抜け出し、月夜の梅を見に行ったことを覚えていらっしゃいますか」
「ああ、覚えているとも」
織衣と惟人が聞いているとは知らず、二人は思い出話を続ける。しかし、自然と話題は幸のこれからをどうするかになり、御妻合わせを下がらせたい貴清と大社の巫女になりたくない幸で意見は合わず、なんの解決策も見い出せないまま二人は物別れに終わった。
幸と貴清の気配が消え、再び静寂が四乃舎に戻る。
(結局、今日も何もできなかった)
惟人の腕の中、織衣は思わずため息をもらした。だが、一つだけ進展があった。東宮である惟人がこのことを知ったのだ。
「あの、東宮さま……」
織衣は、おそるおそる惟人に声をかけた。
惟人は動かない。じっと織衣を抱いたままである。
大なり小なり衝撃は受けただろうなと思いつつ、織衣は惟人の顔を見上げる。
幸の行いは、誤魔化しようのない不貞行為である。思慮なく守泰と会っていた珠緒の場合とは明らかに違う。
(でも、そうだとしても)
これが、貴清への愛を信じ、自由を求めた幸の選択だったのだ。彼女の必死の決断を、誰が止めることができただろう。
織衣は惟人の胸にしがみつき訴えた。
「東宮さま、どうか幸姫さまに対し寛大なご判断をお願いいたします。幸姫さまと貴清さまが深く悩んでいらっしゃるのも、二人のやり取りから分かったはずです」
惟人はすぐには答えてくれない。もどかしい時間が過ぎる。
しばらくして、
「駄目だ」
惟人が唸るように言った。

