織衣が幸と貴清の逢瀬を目撃した夜から数日が経った。今日も織衣は五乃舎で物思いにふけっている。
心配した遠野が、「東宮さまが恋しくなられましか?」などと的外れなことを言ってきたが、織衣の耳にはほぼ入っていない。
このまま静観するのが正しいのか、それとも忠告するのが正しいのか。
貴清の妹である咲子は知っているのだろうか? 彼女に相談すれば、何か良い方策があるかもしれない。
しかし、貴清は臣籍降下をした身で、宮家とはもう関係がない。もし咲子が何も知らなければ、それはそれで大騒ぎになってしまう。
ただ、どのような場合にせよ、現状のままでは幸の願いは叶えてやれない。だからと言って、貴清との逢瀬を止める術もない。織衣の思考は、最後は決まってそこで行き詰まる。
「はあ……」
織衣は答えの出ない問いを考え続け、大きなため息を漏らした。
「織姫さま、いい加減になさいませ。何をそのように悶々となされておいでです? だから申し上げたではありませぬか。さっさと仲直りされるがよろしいと」
夕餉を終えても相変わらずな様子の織衣に遠野がとうとう痺れを切らした。織衣が「んー」と聞いているのかいないのか分からない返事をすると、彼女は織衣の両肩を持ってぶんぶんと揺さぶった。
「しっかりなさいませ。そのような頼りないことでは、東宮さまは他の姫君とお会いなされますよ」
「会う……会うの? 駄目よ!」
織衣は思わず立ち上がる。もちろん、遠野の「会う」という言葉に反応しただけである。
遠野が驚きつつも言い添える。
「いえ、ですから何度も仲直りをしろと──」
「遠野、満月の夜はいつかしら?」
言って織衣は、夕闇に包まれた空を振り仰いだ。遠野が怪訝な顔をした。
「満月は……今日ですが、それが何か?」
まんまるの大きな月が、浮かんでいるではないか。
そんな、また会ってしまうではないの!
「ちょっと四乃舎で夜風にあたってくるわ。一人になりたいから、誰もついてこないで!」
一方的にそう告げて、織衣は五乃舎を飛び出した。背後で遠野が何か言っているようだったが、織衣の耳には全く届いていなかった。
同じ頃、三乃舎では幸が東の空に浮かんだ月を眺めていた。赤みを帯びた月は、まるで光がこぼれ落ちてきそうな大きさだ。今宵は満月、貴清が会いに来てくれる日である。
幸と貴清は、幼い頃から共に育った。
国の祭祀を一手に引き受ける阿部家は皇族とも縁が深く、貴清とは子供の頃から顔を合わせることが多かった。
童巫女として初めて祭祀に出た時、幸の緊張をほぐしてくれたのは貴清だった。失敗して父親に叱られた時に庇ってくれたのも貴清である。
彼は皇族のくせに傲ったところが一切なく、歴史書を読むことが好きな若者だった。古事に関する書物を求め阿部家に出入りする彼とは、幼馴染みのような感覚で、それが恋に変わったのも幸にとっては自然な成り行きだった。
貴清が皇族から離れ、臣籍となってからも、二人は何かと会い続けた。むしろ、貴清が神祇官の大副となったことで、以前より会いやすくなったと言っていい。
苛烈な出世競争の中、抜きん出て何かに秀でているわけでもない貴清を、「皇族下がり」と揶揄する声もある。しかし、幸は全く気にならなかった。皇族であろうが臣下であろうが、貴清は貴清だ。
日々、歴史書を読み、学者と意見を交わすのが彼の楽しみであり、生き甲斐でもある。そんなところも幸は大好きだった。彼は幸の全てだった。
いつかこの方の妻となりたい──。
幼い頃からの淡い恋心は、いつしか幸の中ではっきりとした夢を描くようになっていた。
そんな彼女に降ってわいたのが「大社の巫女の交代」の話である。
南の大社の巫女は、帝の御世に未婚の女性が一人選出される。現在の巫女が大病を患ったことで、例外的に交代の話が出てきたのだ。
大社の巫女は生涯を神に捧げる聖職である。なったら最後、結婚は諦めるしかない。
それどころか、もう二度と貴清に会えなくなる。
当然ながら阿部家の娘である幸の名前が筆頭に上がった。幸は絶望で目の前が真っ暗になった。
しかし、天のいたずらだろうか。折しも、東宮の御妻合わせの話が同時に舞い込んだ。相手は、女に刃を向けるほど女嫌いな東宮惟人親王。数人の姫君を集め、誰かを選ばせようという帝の苦肉の策だ。
東宮妃というのは父親にも魅力的であったらしい。「幸を次の巫女に」と言っていた父親の心が揺らぎ、彼女はそこにつけ込むことにした。
手段は選んでいられなかった。大社の巫女のお務めがなくなればそれでいい。東宮の寝所へ声がかかっても、仮病を使い誤魔化せばいい。そして、巫女が決まった後に頃合いを見計らって、東宮からお役御免となればいい。
うまくいくかどうかなんて分からなかった。しかし、幸は一か八かの賭けに出た。
この時、清らかな乙女は、神を捨て恋に生きることを決めた。
「少し、夜風に当たってきます」
幸は近くに控える女房に声をかけた。この女房は幼少の頃から幸の世話をしてくれており、なんでも知っている。先日の東宮のお渡りの際に、織衣を同席させたのも彼女だ。
「あまり遅くなりませぬよう。今宵は月が明る過ぎて、何かと障りがありましょう」
「分かったわ。ありがとう」
向かうは、貴清の待つ四乃舎の庭である。
誰にも邪魔はさせない。私は必ず自由を手に入れ、愛する人の元へ行く。
幸は月明かりに導かれるように、四乃舎に向かって静かに歩き始めた。
心配した遠野が、「東宮さまが恋しくなられましか?」などと的外れなことを言ってきたが、織衣の耳にはほぼ入っていない。
このまま静観するのが正しいのか、それとも忠告するのが正しいのか。
貴清の妹である咲子は知っているのだろうか? 彼女に相談すれば、何か良い方策があるかもしれない。
しかし、貴清は臣籍降下をした身で、宮家とはもう関係がない。もし咲子が何も知らなければ、それはそれで大騒ぎになってしまう。
ただ、どのような場合にせよ、現状のままでは幸の願いは叶えてやれない。だからと言って、貴清との逢瀬を止める術もない。織衣の思考は、最後は決まってそこで行き詰まる。
「はあ……」
織衣は答えの出ない問いを考え続け、大きなため息を漏らした。
「織姫さま、いい加減になさいませ。何をそのように悶々となされておいでです? だから申し上げたではありませぬか。さっさと仲直りされるがよろしいと」
夕餉を終えても相変わらずな様子の織衣に遠野がとうとう痺れを切らした。織衣が「んー」と聞いているのかいないのか分からない返事をすると、彼女は織衣の両肩を持ってぶんぶんと揺さぶった。
「しっかりなさいませ。そのような頼りないことでは、東宮さまは他の姫君とお会いなされますよ」
「会う……会うの? 駄目よ!」
織衣は思わず立ち上がる。もちろん、遠野の「会う」という言葉に反応しただけである。
遠野が驚きつつも言い添える。
「いえ、ですから何度も仲直りをしろと──」
「遠野、満月の夜はいつかしら?」
言って織衣は、夕闇に包まれた空を振り仰いだ。遠野が怪訝な顔をした。
「満月は……今日ですが、それが何か?」
まんまるの大きな月が、浮かんでいるではないか。
そんな、また会ってしまうではないの!
「ちょっと四乃舎で夜風にあたってくるわ。一人になりたいから、誰もついてこないで!」
一方的にそう告げて、織衣は五乃舎を飛び出した。背後で遠野が何か言っているようだったが、織衣の耳には全く届いていなかった。
同じ頃、三乃舎では幸が東の空に浮かんだ月を眺めていた。赤みを帯びた月は、まるで光がこぼれ落ちてきそうな大きさだ。今宵は満月、貴清が会いに来てくれる日である。
幸と貴清は、幼い頃から共に育った。
国の祭祀を一手に引き受ける阿部家は皇族とも縁が深く、貴清とは子供の頃から顔を合わせることが多かった。
童巫女として初めて祭祀に出た時、幸の緊張をほぐしてくれたのは貴清だった。失敗して父親に叱られた時に庇ってくれたのも貴清である。
彼は皇族のくせに傲ったところが一切なく、歴史書を読むことが好きな若者だった。古事に関する書物を求め阿部家に出入りする彼とは、幼馴染みのような感覚で、それが恋に変わったのも幸にとっては自然な成り行きだった。
貴清が皇族から離れ、臣籍となってからも、二人は何かと会い続けた。むしろ、貴清が神祇官の大副となったことで、以前より会いやすくなったと言っていい。
苛烈な出世競争の中、抜きん出て何かに秀でているわけでもない貴清を、「皇族下がり」と揶揄する声もある。しかし、幸は全く気にならなかった。皇族であろうが臣下であろうが、貴清は貴清だ。
日々、歴史書を読み、学者と意見を交わすのが彼の楽しみであり、生き甲斐でもある。そんなところも幸は大好きだった。彼は幸の全てだった。
いつかこの方の妻となりたい──。
幼い頃からの淡い恋心は、いつしか幸の中ではっきりとした夢を描くようになっていた。
そんな彼女に降ってわいたのが「大社の巫女の交代」の話である。
南の大社の巫女は、帝の御世に未婚の女性が一人選出される。現在の巫女が大病を患ったことで、例外的に交代の話が出てきたのだ。
大社の巫女は生涯を神に捧げる聖職である。なったら最後、結婚は諦めるしかない。
それどころか、もう二度と貴清に会えなくなる。
当然ながら阿部家の娘である幸の名前が筆頭に上がった。幸は絶望で目の前が真っ暗になった。
しかし、天のいたずらだろうか。折しも、東宮の御妻合わせの話が同時に舞い込んだ。相手は、女に刃を向けるほど女嫌いな東宮惟人親王。数人の姫君を集め、誰かを選ばせようという帝の苦肉の策だ。
東宮妃というのは父親にも魅力的であったらしい。「幸を次の巫女に」と言っていた父親の心が揺らぎ、彼女はそこにつけ込むことにした。
手段は選んでいられなかった。大社の巫女のお務めがなくなればそれでいい。東宮の寝所へ声がかかっても、仮病を使い誤魔化せばいい。そして、巫女が決まった後に頃合いを見計らって、東宮からお役御免となればいい。
うまくいくかどうかなんて分からなかった。しかし、幸は一か八かの賭けに出た。
この時、清らかな乙女は、神を捨て恋に生きることを決めた。
「少し、夜風に当たってきます」
幸は近くに控える女房に声をかけた。この女房は幼少の頃から幸の世話をしてくれており、なんでも知っている。先日の東宮のお渡りの際に、織衣を同席させたのも彼女だ。
「あまり遅くなりませぬよう。今宵は月が明る過ぎて、何かと障りがありましょう」
「分かったわ。ありがとう」
向かうは、貴清の待つ四乃舎の庭である。
誰にも邪魔はさせない。私は必ず自由を手に入れ、愛する人の元へ行く。
幸は月明かりに導かれるように、四乃舎に向かって静かに歩き始めた。

