東宮さまは、決して妃を選ばない。~平安巻き込まれ恋愛絵巻~【完結済】

 織衣が幸の密会を知ってしまった頃、次乃舎(つぎのや)には意外な人物が千菊に招かれていた。いつも余裕たっぷりの次乃舎の女房たちも、この日ばかりは余裕がなく、そわそわとしている。
 それもこれも、千菊が招いた人物と言うのが──あの四乃舎の姫君を陥れた五位蔵人(くろうど)の頼木守泰だからである。
 そもそも、夜に東宮以外の殿方を部屋に引き入れることは、不貞を疑われても文句は言えない。それは珠緒の事件どうこう以前の常識である。

「頼木さま、東宮さまはいかがお過ごしですか?」

 千菊は守泰に優美に微笑みかける。
 苦言を呈した気骨のある女房たちは生駒(いこま)を含め全て下がらせた。御簾(みす)も完全に下ろしている。
 つまりは守泰と二人きり。
 女房を同席させて守泰と会っていた珠緒より、大胆かつ悪質だ。
 守泰が千菊の問いに人懐こい笑顔を見せた。

「それはもう塞ぎ込んでおいでです。五つの姫にこっぴどく言われたことが思いのほか堪(こた)えたようで。最近の東宮の悩ましい行動(・・・・・・)は、まあ、菊姫もご存知だと思いますが」

 次乃舎なのだから、把握はしているだろうとばかりに守泰が答えた。呼びつけたのはこちらであるからか、守泰は今の状況を全く気にする素振りがない。思った以上の図太さだ。
 千菊は静かに息を吸い込んで呼吸を整えた。

「織姫さまを正妃に立てたいと思います」
「織姫を正妃に、」

 単刀直入に千菊が切り出せば、興味深いとばかりに守泰が瞳に剣呑な光を宿す。千菊は小さくうなずいた。

「かの姫は誰に対しても真っ直ぐな方、そして、おかしいことをおかしいと言える強い信念をお持ちです。新しい時代を担う東宮さまの隣に立つに相応しいと存じます。幸いにも、東宮さまは織姫さまに興味をお示しなさっています」
「……あなたさまは妃候補から退かれると? その真意を伺っても?」
「我が一条家がなんと呼ばれているか、頼木さまもご存知でしょう?」
「主上(おかみ)の虫、ですか?」
「ええ。『大木に寄る益虫であれ』が、一条の信条です」

 千菊が東宮御所に上がるにあたり、尊敬する父元親(もとちか)から言われたことは、「この国の未来を見定めて来い」である。
 明確な物言いをする元親にしては、珍しく抽象的な表現だったが、千菊はそれを「東宮の隣に自分が立つこと」だろうと解釈していた。しかし、東宮御所に上がってすぐ、彼女はその考えを改めることになる。
 反東宮派から寄越された皇女、本来であれば声がかからない家柄の姫君、東宮御所に誰が残るかで宮内の勢力図が大きく変わる。
 とすれば、自分が真っ先に行うことは、国益を損なうような存在を排除すること。そして、自分も含めて最も有益な者を残すこと。それが一条家として果たすべき役割だと千菊は思った。
 そんな千菊にとって、織衣の存在は初日から異質だった。典侍(ないしのすけ)の話をろくすっぽ聞きもせず、東宮には挑発的に言い返し、「見目麗しの無精ひげ」などと呼んで敬う素振りが一つもない。そのくせ、東宮に他の姫君と関係を築くよう促し、要望があれば他の殿舎へのお渡りにしゃしゃり出るお節介さである。
 欲があるのかないのか、行動の予測ができない。
 しかしあの日──、東宮により珠緒が公の場でさらし者になった日、千菊は織衣に国の未来を見た。
 相手が東宮であろうと、おかしいことにはおかしいと物申す強さ。女は従順であることが美徳とされる今の世で、織衣は声を上げろと珠緒に言った。気がつけば、千菊は織衣をかばい、守泰の前に立っていた。

「いったい誰が東宮さまの采配に異を唱えましょうや。織姫さまには、人を動かし時代を変える何かがありまする。一条の使命は、国の未来を育む大木の益を見出すこと。必ずしも私自身が東宮さまの隣に侍ることではございませぬ」

 守泰が「ふうむ」と思案顔になる。彼はさぐるような目を千菊に向けた。

「それで? 今の状況であれば、何をせずとも東宮が織姫をお選びになる可能性が高い」
「私は、織姫さまを正妃に、と言ったのです。ここは古式ゆかしい内裏(だいり)。織姫さまが選ばれたとて、家柄が上の姫君がいる以上、寵妃になれても正妃にはなれませぬ」
「……つまり、残りの姫君を排除すると」
「はい。特に、女柏宮(おんなかしわのみや)さまは──、いつまでも居座られると大きな障害となります」

 千菊は声を落として守泰に訴える。

「宮さまは反東宮派の柏親王さまの御息女でありながら、東宮さまの信頼も厚く、私から見ても素晴らしい御方です。だからこそ、理由もなくお役御免は難しい。しかし、反東宮派の力を削ぐには、宮さまに退いていただくことが必須であると考えております」

 守泰がうつむく。千菊は返答をじっと待つ。
 ややあって、彼は下がり目をきゅっと細め、面白そうに千菊を見た。

「これ、もう脅しだろ? 女房を下がらせて二人きりで密談──、普通なら俺もあんたも詰んでいるぞ」

 がらりと態度を豹変させ、守泰が言った。千菊は、そんな守泰を静かに見つめ返した。
 なるほど、こちらが本性か。
 下級貴族の頼木家には子どもがいない。そこに、どこからか養子として入ったのが守泰である。彼の出自ははっきりしておらず、下町に住む庶民だったという噂も聞いた。
 そんな男が、己の才だけで東宮の補佐役にまで成り上がったのだ。生半可なことではなかったはずだ。

「脅しと取ってもらってかまいませぬ」
「こんな勝手なこと、左大臣に怒られやしないか?」
「東宮御所での一切の判断を父は私に委ねてくださいました」
「なるほどね。だから頑張ってんだ」

 守泰がずいっと千菊に詰め寄って、彼女に向かって手を伸ばす。千菊はわずかに身を強ばらせた。
 千菊とて大切に育てられた姫である。男に触れられることに慣れているはずがなく、緊張が走る。しかし、一条元親の娘として、ここで怯むわけにはいかない。彼女はひそかに奥歯を噛み締めた。

(大丈夫。ここで私に手を出せば、彼は本当に詰む)

 じりっと首筋が汗ばむ。そんな千菊の黒髪を、守泰がふわりと持ち上げた。

「顔に出さないのはさすがだな。度胸もいいし機転もきく、何より──」

 言って守泰は千菊の艶やかな黒髪に口づけを落とした。

「信念を持っている女は嫌いじゃない」
「──」

 この状況で、よくもまあ女を口説くような真似をする。仕掛けたのはこちらであるはずなのに、この男の図太さに飲み込まれてしまいそうだ。
 千菊は、必死に口の端に笑みを作った。

「私の話に乗りますか?」

 女は舐められたら終わり。男であろうと対等に話をしなければ意味がない。
 すると、守泰が黒髪から手を離し、居ずまいを正した。

「いいでしょう、話に乗りましょう。私は美人に弱いんです」
「……女の容貌など、評価の内にも入っていないくせに」

 千菊は一笑する。とにもかくにも、守泰から承諾の声を聞くことができた。

(まずは第一歩ね)

 ほっと胸を撫で下ろし、ちょっとした達成感を噛みしめる。しかし、顔には出さない。
 すると守泰が、口元に拳を当てて笑いをこらえる仕草をした。千菊は怪訝な顔を守泰に向けた。

「なんでしょう?」
「いや、つんと尖っていても可愛いなと思って。健気と言った方が適当かな?」

 臆面もなく「可愛い」と言われた。
 思わず千菊が目をぱちくりさせると、守泰は「そういうところです」と茶化すように笑った。