東宮さまは、決して妃を選ばない。~平安巻き込まれ恋愛絵巻~【完結済】

 しんとした四乃舎の殿舎の廊下を、織衣は春のひんやりとした風を感じながら歩く。今日は満月に近く、月の柔らかな明かりが庭を照らしていた。

 明暗のはっきりした庭は、木々がまるで浮き出たように見える。幻想的な庭を眺め、惟人も同じように月を眺めているだろうかと織衣は思う。そして、惟人のことばかり考えている自分に気づき、彼女はぶんぶんと頭を振った。
 春の夜の澄んだ空気を思いきり吸い込んで、気持ちを落ち着かせる。遠野の言うとおり、そろそろ仲直りをしてもいいかもしれない。
 まあ、もともと何もない関係だが、彼が間違ったことをしようとした時に「それは違う」と止められるくらいにはなれるだろう。
 その時、殿舎の奥の廊下で衣擦れの音がした。織衣はびくりとして振り返る。
 そろりと闇に包まれた廊下を目を凝らして見てみるも、何も見えない。
 風の音? 気のせい?

「生霊(いきりょう)なんて、よく言ったものだわ」

 あまり霊は信じていない方である。いや、信じたくないと言うべきか。怖いか怖くないかと問われれば、会ったらもちろん怖い。

「……」

 うん、やっぱり今日はこれぐらいで帰ろう。生霊はいなかった、ということで!
 急にそぞろ恐ろしい気持ちになって、織衣はきびすを返した。遠野があんなことを言うからだ。
 刹那、殿舎の奥の暗闇で何かがすうっーと動いた。今度こそ、間違いない!

「でっ、ででで出──!」

 両手で口を押さえ、織衣は叫び声を無理やり飲み込んだ。とっさに身をかがめて姿勢を低くする。

(早く、どこかに隠れないと──っ)

 でないと、ぐわああああっと襲ってくるかもしれない。織衣は四つん這いになって、今は誰もいない四乃舎の部屋に逃げ込んで柱の影に隠れた。
 そしてじっと目を閉じて息を潜める。辺りはしんっと静まり返っているが、衣擦れの音がかすかに、しかしはっきりと聞こえる。あちこちを行ったり来たりしているような、同じ場所をぐるぐる回っているような、遠野から聞いた通りだ。
 そうして息を殺し続けることしばし──。ようやく衣擦れの音が消えた。
 ふうっと織衣は息をつく。難は逃れたようである。
 しかし、何度か深呼吸をして気持ちを落ち着けることしばし、再び衣擦れの音がした。しかも今度は、確実にこちらへ近づいて来る。

 よく分からないけど、戻ってきた?!

 織衣はひいっと震え上がる。これは、早々に立ち去らなければ本当に襲われる。
 彼女は意を決して柱の影から廊下の様子をうかがった。廊下から庭に伸びる階段は、月光に照らされて青白い光を放っている。
 と、そこへ人影が一つ。紅の単(ひとえ)に新緑の袿(うちき)を羽織っただけの姫君──三乃舎(みつのや)の幸(さち)が、まるで風に誘われたように現れた。

「あ、」

 幸の姿を見て、織衣はほっとする。きっと幸も夜風にあたりに来たのだろう。
 織衣は彼女に声をかけようと身を乗り出した。しかし幸は、周囲をそわそわと見回すと、庭に向かって小さな声で呼びかけた。

「貴清さま」

 思わず織衣の動きがぴたりと止まる。幸が見つめる庭の向こう、女柏宮(おんなかしわのみや)の兄、嵯峨貴清が静かに現れた。
 貴清が階段を上がってきて、幸の手を取る。幸は嬉しそうに微笑んだ。

「貴清さま、待たれましたか?」
「いや、今来たところだ」

 言って幸と貴清は、柱に隠れる織衣の脇を通り過ぎ、月明かりを避けるように四乃舎の奥へと入ってきた。そして、適当な場所で身を寄せ合って二人は座る。

「幸、その後はどうだ?」
「ええ、静かに過ごしております。もともと選ばないとおっしゃった東宮さまです。あれからお渡りもなく、なんの不自由もありませぬ」

 幸が貴清の胸に頬を寄せた。

「幸は貴清さま以外のものにはなりませぬ。南の大社にも行きませぬ。ここで自由を手に入れまする」

 一方、貴清の表情は複雑だ。彼はそっと幸を引き離すと、彼女に穏やかな口調で言い聞かせた。

「……幸、東宮はそんなに甘い方ではない。こんなことが露見してみろ、ただでは済まぬ。それよりも、折を見て東宮におまえのお役御免をお願いしてみよう。阿部家へ戻るのだ」
「嫌です。早々にお役御免になれば、私は南の大社へ赴かなければなりませぬ。私は貴清さまの妻になりたいのです」
「おまえが大社の巫女になっても私は待つよ。何十年だろうと、おまえが帰ってくるまで」

 幸が信じられないとばかりに眉根を寄せて頭を振る。まるで聞き分けのない子どものようだ。
 織衣は全てを悟る。
 なぜ、三乃舎への東宮のお渡りに自分が同席したのか。どうして次も同席をお願いされたのか。
 梅の花に寄せた幼い恋心。それを静かに内に秘め、幸は自由を手に入れるために東宮御所に来たのだ。
 なんて綺麗、でもとても危うい想い。
 思わず織衣の身に力が入る。そのはずみで、床がみしりと鳴った。
 しまった──!
 織衣はとっさに柱の影で息を止める。ここで自分の存在を知られる訳にはいかない。二人を追い詰めてしまうことになる。
 幸と貴清はぴたりと話すのをやめた。小さくとも物音がたったことに驚いたのだろう。
 ややして、二人は二つ三つ言葉を交わし別れた。最後は再び会う約束をして──。
 次は満月の夜に、またここで。
 逢瀬は続く。幸が東宮の妃候補である限り。そして、貴清と結ばれない限り。
 織衣はがらんとした四乃舎で、いつまでも呆然と座り込んでいた。