花合わせから数日後、珠緒が四乃舎を去った。五乃舎へ嫌がらせをしていた女房は全て暇を出され、内裏の外へと放逐された。
珠緒は、東宮御所を去る際に、幸を通じて織衣に謝罪を伝えてきた。幸からの言伝てによると、「会わせる顔もなく、このまま去ることになるが、心から申し訳なく思っている」とのことだった。
いつかまた会える日がくれば──。今は、がらんと静かになった四乃舎が少しだけ寂しく感じる織衣である。
あの後、織衣は千菊とともに咲子からお叱りを受けた。さすがにあの場面で、珠緒を庇ったのはまずかった。東宮の判断に異を唱えたのと同じことになるからだ。
千菊を巻き添えにしてしまい、織衣は申し訳なく思う。お役御免が前提の自分と違って、千菊は本命の姫だ。しかし、千菊は気にしている様子はなく、それどころか、「また何か困ったことがあれば相談を」と声をかけてくれた。珠緒の一件は、千菊も考えるところがあったらしい。織衣は頼もしく感じた。
今日もつつがなく夕餉を終えて、織衣は遠野とお喋りをする。
珠緒も去り、いろいろ落ち着いてくると、織衣の怒りに賛同していた遠野も惟人との仲直りを勧めてくるようになった。
「夫婦に一度や二度の失敗はつきものです。大切なのは、その後にどうやり直すかでございますよ」
「いや、やり直すも何も、そもそも関係が何もないじゃない」
「何をおっしゃっているのです!」
ぴしゃりと織衣を叱咤しつつ、遠野は片手でほほを押さえ、うっとりと目を閉じた。
「あの日、東宮さまが織姫さまの頬になさった口づけ、今でもまぶたに焼き付いておりまする。織姫さまの機嫌をうかがって、ためらいながら、でもご自身の存在を示されようと──。あの東宮さまがですよっ! この遠野、憤死するかと思いました!」
「……あらためて、細かく状況説明しないで」
聞いているこちらの方が恥ずかしさのあまり憤死しそうだ。
あの日の別れ際、惟人は再び織衣の頬に口づけをした。
千菊から「大切にされていらっしゃる」とからかわれた口づけは、織衣にとって惟人を今まで以上に意識するのに十分なものだった。
本当なら、花合わせに負けた者の負担として、惟人の夜の相手をしなければならなかったはずである。しかし結局、あの日は寝所に呼びに来る者もおらず、惟人も姿を現さなかった。
惟人が描いた筋書き通り珠緒をみんなで責め立てていたら、夜のお相手もあったのか。考えても仕方のないことに思いを巡らせる。
どちらにせよ、惟人との縁がぷつりと切れた。断ち切ったのは、他でもない自分だ。
そんな織衣に遠野は顔を近づけ言い聞かせた。
「とにかく。珠姫さまの件は、あちらに非があったのも確かです。やり方に問題があったにせよ、事態を重く見た東宮さまが采配なさった結果にございます」
「そんなこと分かっているわ」
織衣がなげやり気味にぽつりと呟く。
珠姫は、ある種の見せしめに断罪されただけだ。東宮御所でああいうことをしたらどうなるか。姫君はもとより、そこに付随する女房たちに分かりやすい形で惟人は示した。
でもだからって、何をしてもいいわけではない。
すると遠野が、遠慮がちに織衣に言った。
「……東宮さまの母君、萩壺の更衣さまのお話を聞いたことは?」
ふいに問われ、織衣は首を横に振る。確か、惟人の幼い頃に亡くなっていると聞いた。か弱く、病に伏しがちな方だったらしい。しかし、知っているのはそれぐらいだ。
遠野が言葉を続けた。
「当時の大納言のご息女です。当然ながら女御になることなどできず、ご身分は更衣止まり。それが今上帝の寵愛を受けたばかりに、激しい嫌がらせに遭ったそうでございますよ」
「主上はお怒りにならなかったの?」
「嫌がらせは、中宮さまの女房からでした。中宮さまは今の太政大臣の妹君にあらせられましたので、表立って注意することはできず、萩壺の更衣さまは体調を崩されたと聞きます。萩壺の更衣さまの父君も官職を追われ地方官に任ぜられたことで、後ろ楯もなくなってしまったとか。その後、誰に頼ることもできず、儚くお隠れになったそうでございます」
「そう。そんなことが……」
「ええ。ですから、東宮さまが女房たちの嫌がらせに対して、あのような厳しい対応をなされたのも、母君さまのことがあったからだと思います」
惟人は帝にとって唯一の皇子ではない。実は中宮にも礼人親王と呼ばれる皇子がいる。母方の血筋を考えれば、この礼人親王が東宮になるはずだ。
しかし、選ばれたのは惟人だった。
惟人が東宮となったのは、彼の方がふさわしい器だったからであろうが、きっと惟人自身もいわれのない妬みに晒されてきたに違いない。
(何も知らないのは私も同じね)
彼の人間不信はここに原因があるのかもしれない。「相手のことを知ろうとしない」と惟人を責めておきながら、彼自身を知ろうとしなかったのはこちらも同じである。
「……他の姫君たちは、どのようにお過ごし?」
「静かなものです。東宮さまのお渡りもピタリと止まりましたし、これが本来の状態なのではないでしょうか」
「そうね。誰もお選びなさらないものね」
「ええ──。いや、いいえっ! そこは織姫さまを選んでいただかねば!」
ふんっと鼻息荒く遠野が力説する。
あくまでも遠野は仲直りを望んでいるらしい。織衣はお節介がうるさくなって立ち上がった。
「ちょっと夜風に当たってくる。一人になりたいから、四乃舎の庭でも見てくるわ」
「かしこまりました。あ、でも、ちょっとお待ちください」
織衣を遠野が呼び止めた。
「実は数日前から、四乃舎で物の怪騒ぎがありまして」
「物の怪?」
なんの話だと、織衣は眉をしかめた。
「物の怪って、ここ東宮御所よ」
「はい。ですが、夕餉を片付けにいった女房が、四乃舎の物陰でぐるぐる動く白い影を見たと」
織衣は、「まさか~」と笑い飛ばした。
「猫じゃないの?」
「いいえ! それなりの大きさだったと聞きました。なんだろうと目を凝らして見ていたところ──」
「ところ?」
「ぐわああああっー!!」
「きゃああ!」
遠野がすごい形相で覆い被さってきて、思わず織衣は叫び声を上げた。遠野がすっと真顔になり、「とまあ、こんな風に迫ってきたようです」と付け加える。
織衣は胸を押さえながら涙目で遠野をにらむ。
「驚かせないで! あなたが物の怪になったのかと思ったわ!」
「あくまでも女房たちから聞いた話にございます。珠姫さまの生霊ではないかと、もっぱらの噂です」
「くだらない。ついでにただの噂だってことを確かめてくるわ」
遠野の話を一蹴し、織衣は部屋を出た。
珠緒は、東宮御所を去る際に、幸を通じて織衣に謝罪を伝えてきた。幸からの言伝てによると、「会わせる顔もなく、このまま去ることになるが、心から申し訳なく思っている」とのことだった。
いつかまた会える日がくれば──。今は、がらんと静かになった四乃舎が少しだけ寂しく感じる織衣である。
あの後、織衣は千菊とともに咲子からお叱りを受けた。さすがにあの場面で、珠緒を庇ったのはまずかった。東宮の判断に異を唱えたのと同じことになるからだ。
千菊を巻き添えにしてしまい、織衣は申し訳なく思う。お役御免が前提の自分と違って、千菊は本命の姫だ。しかし、千菊は気にしている様子はなく、それどころか、「また何か困ったことがあれば相談を」と声をかけてくれた。珠緒の一件は、千菊も考えるところがあったらしい。織衣は頼もしく感じた。
今日もつつがなく夕餉を終えて、織衣は遠野とお喋りをする。
珠緒も去り、いろいろ落ち着いてくると、織衣の怒りに賛同していた遠野も惟人との仲直りを勧めてくるようになった。
「夫婦に一度や二度の失敗はつきものです。大切なのは、その後にどうやり直すかでございますよ」
「いや、やり直すも何も、そもそも関係が何もないじゃない」
「何をおっしゃっているのです!」
ぴしゃりと織衣を叱咤しつつ、遠野は片手でほほを押さえ、うっとりと目を閉じた。
「あの日、東宮さまが織姫さまの頬になさった口づけ、今でもまぶたに焼き付いておりまする。織姫さまの機嫌をうかがって、ためらいながら、でもご自身の存在を示されようと──。あの東宮さまがですよっ! この遠野、憤死するかと思いました!」
「……あらためて、細かく状況説明しないで」
聞いているこちらの方が恥ずかしさのあまり憤死しそうだ。
あの日の別れ際、惟人は再び織衣の頬に口づけをした。
千菊から「大切にされていらっしゃる」とからかわれた口づけは、織衣にとって惟人を今まで以上に意識するのに十分なものだった。
本当なら、花合わせに負けた者の負担として、惟人の夜の相手をしなければならなかったはずである。しかし結局、あの日は寝所に呼びに来る者もおらず、惟人も姿を現さなかった。
惟人が描いた筋書き通り珠緒をみんなで責め立てていたら、夜のお相手もあったのか。考えても仕方のないことに思いを巡らせる。
どちらにせよ、惟人との縁がぷつりと切れた。断ち切ったのは、他でもない自分だ。
そんな織衣に遠野は顔を近づけ言い聞かせた。
「とにかく。珠姫さまの件は、あちらに非があったのも確かです。やり方に問題があったにせよ、事態を重く見た東宮さまが采配なさった結果にございます」
「そんなこと分かっているわ」
織衣がなげやり気味にぽつりと呟く。
珠姫は、ある種の見せしめに断罪されただけだ。東宮御所でああいうことをしたらどうなるか。姫君はもとより、そこに付随する女房たちに分かりやすい形で惟人は示した。
でもだからって、何をしてもいいわけではない。
すると遠野が、遠慮がちに織衣に言った。
「……東宮さまの母君、萩壺の更衣さまのお話を聞いたことは?」
ふいに問われ、織衣は首を横に振る。確か、惟人の幼い頃に亡くなっていると聞いた。か弱く、病に伏しがちな方だったらしい。しかし、知っているのはそれぐらいだ。
遠野が言葉を続けた。
「当時の大納言のご息女です。当然ながら女御になることなどできず、ご身分は更衣止まり。それが今上帝の寵愛を受けたばかりに、激しい嫌がらせに遭ったそうでございますよ」
「主上はお怒りにならなかったの?」
「嫌がらせは、中宮さまの女房からでした。中宮さまは今の太政大臣の妹君にあらせられましたので、表立って注意することはできず、萩壺の更衣さまは体調を崩されたと聞きます。萩壺の更衣さまの父君も官職を追われ地方官に任ぜられたことで、後ろ楯もなくなってしまったとか。その後、誰に頼ることもできず、儚くお隠れになったそうでございます」
「そう。そんなことが……」
「ええ。ですから、東宮さまが女房たちの嫌がらせに対して、あのような厳しい対応をなされたのも、母君さまのことがあったからだと思います」
惟人は帝にとって唯一の皇子ではない。実は中宮にも礼人親王と呼ばれる皇子がいる。母方の血筋を考えれば、この礼人親王が東宮になるはずだ。
しかし、選ばれたのは惟人だった。
惟人が東宮となったのは、彼の方がふさわしい器だったからであろうが、きっと惟人自身もいわれのない妬みに晒されてきたに違いない。
(何も知らないのは私も同じね)
彼の人間不信はここに原因があるのかもしれない。「相手のことを知ろうとしない」と惟人を責めておきながら、彼自身を知ろうとしなかったのはこちらも同じである。
「……他の姫君たちは、どのようにお過ごし?」
「静かなものです。東宮さまのお渡りもピタリと止まりましたし、これが本来の状態なのではないでしょうか」
「そうね。誰もお選びなさらないものね」
「ええ──。いや、いいえっ! そこは織姫さまを選んでいただかねば!」
ふんっと鼻息荒く遠野が力説する。
あくまでも遠野は仲直りを望んでいるらしい。織衣はお節介がうるさくなって立ち上がった。
「ちょっと夜風に当たってくる。一人になりたいから、四乃舎の庭でも見てくるわ」
「かしこまりました。あ、でも、ちょっとお待ちください」
織衣を遠野が呼び止めた。
「実は数日前から、四乃舎で物の怪騒ぎがありまして」
「物の怪?」
なんの話だと、織衣は眉をしかめた。
「物の怪って、ここ東宮御所よ」
「はい。ですが、夕餉を片付けにいった女房が、四乃舎の物陰でぐるぐる動く白い影を見たと」
織衣は、「まさか~」と笑い飛ばした。
「猫じゃないの?」
「いいえ! それなりの大きさだったと聞きました。なんだろうと目を凝らして見ていたところ──」
「ところ?」
「ぐわああああっー!!」
「きゃああ!」
遠野がすごい形相で覆い被さってきて、思わず織衣は叫び声を上げた。遠野がすっと真顔になり、「とまあ、こんな風に迫ってきたようです」と付け加える。
織衣は胸を押さえながら涙目で遠野をにらむ。
「驚かせないで! あなたが物の怪になったのかと思ったわ!」
「あくまでも女房たちから聞いた話にございます。珠姫さまの生霊ではないかと、もっぱらの噂です」
「くだらない。ついでにただの噂だってことを確かめてくるわ」
遠野の話を一蹴し、織衣は部屋を出た。

