東宮さまは、決して妃を選ばない。~平安巻き込まれ恋愛絵巻~【完結済】

 惟人が小さく頷きつつ先を促す。

「申してみよ」
「はっ」

 守泰は涼しい顔で言葉を続けた。

「畏れながら申し上げます。先日、日が暮れてから四乃舎(よつのや)の珠姫の元へ伺いました際、珠姫は二人で会ってくださいました」
「ほう。夜に、おまえと二人で」

 惟人がぴりと眉間にしわを寄る。同時に広間がざわついた。妃候補が夜に東宮以外の男を部屋に引き入れたのだ。周囲の反応は、もっともなことだった。

「守泰、その話は本当か?」
「はい。そうだな、おまえたち?」

 守泰が四乃舎の女房たちに確認すると、彼女たちはうなだれたまま「はい」と小さい声で答えた。
 守泰が、証人はこうやって使うのだとばかりに珠緒を見て笑う。
 珠緒の耳に、隣に座る千菊のため息まじりの声が届いた。

「……相手が悪かったの。浅はかなことを」
「わ、私は、私は──わたし……」

 自分で判断をしない姫は、その後に続く言葉を知らない。珠緒は、力なくその場にうなだれた。
 その時、

「気に入らないわね」

 織衣の声が広間に響いた。皆が息を飲み、惟人がつと片眉を上げる。

「何か言ったか、織衣?」
「気に入らぬ、と申したのです」

 織衣はすっと立ち上がる。そして、まず守泰を一瞥してから、次に惟人を真っ直ぐ見据えた。 
 惟人の言っていた「面白い趣向」とはこのことかと、ここにきてようやく理解する。
 公の場で、珠緒をさらし者にするために──。
 織衣は上座に向かって歩いていくと、惟人の前で立ち止まり彼を見下ろした。およそ公卿(くぎょう)の姫君の行動ではない。
 見かねた咲子が「織姫、控えよ」と注意をしたが、彼女は退かない。それどころか、右手の拳に力を込めた。
 惟人が冷めた目で織衣を見上げる。

「いかなおまえでも、公の場で私に手を上げたとなれば、ただでは済まぬ。ことは時国にも及ぶ」
「そうでございましょう。でも、父は褒めてくれると思います」

 守泰がとっさに織衣を引き離そうと動く。しかしその刹那、千菊が立ち上がり、守泰の行く手を阻んだ。

「お二人は大事な話の最中。邪魔をしてはなりませぬ」
「……一条の姫君」

 守泰がついっと目を細めると、千菊は素知らぬ顔でつんっとそっぽを向いた。どうやら惟人に逆らう織衣を擁護するようである。
 一方、惟人が織衣に問いかける。

「何をそこまで怒る。相手は、おまえを貶(おとし)めていた輩ぞ」
「確かに、浅はか極まりない行いにございます。しかし、その行動一つ一つを衆目にさらし、つるし上げる必要がどこにございましょうか? これは私と珠姫さまの問題。勝手な真似をなされても、正直、気分が悪いだけにございます」
「この程度で気分が悪いとはがっかりだな、織衣」
「ええ、私も──、東宮さまにはがっかりいたしました」

 そう口に出した途端、織衣の目から涙がポロリとこぼれ落ちた。惟人がぎょっと目を見張る。およそ、織衣が泣くなどと思ってもいなかったのだろう。
 そう、これは悔し涙だ。
 惟人と縁ができ始めていた。距離を置かなければと思いつつも、彼を受け入れ始めていたのも確かで、何か新しい気持ちが芽生えていた。
 でも、珠緒の自尊心を踏みにじるこのやり方は容認できない。他の者ならともかく、東宮が行えば、ただの弱い者いじめだ。

「あなたさまは、私との縁を踏みにじり、裏切ったのでございます。それが分からないほど、我が国の未来を担う御方は浅慮でございますか?」

 惟人の顔を見つめ、そう告げる。自分のほほに触れた、あの唇と無精ひげが、ひどく遠いものに感じた。
 織衣は、うなだれる珠緒に声をかけた。

「珠姫さま、東宮さまに申し上げることは何もないのですか? あなたさまは本当にそれでよいのですか? 声を、あなたさま自身の声を発しなさいませ!」

 珠緒は何も答えない。答えられない。しかし、今のままでは駄目だ。
 するとその時、千菊が織衣の言葉に言い添えた。

「織姫さまの言う通り。なんでもいいから、あなたの声を上げなされ。女は、舐められたら終(しま)いじゃ」
「……い」

 珠姫が震える顔をきっと上げた。弱々しい瞳が、しかし惟人をしっかり捉えた。

「きっ、嫌いです! 高圧的な物言いも、冷たくあしらわれることも、その──無精ひげも! 誰が好き好んで女に刃を向けたという東宮に召されるものか! このような場所、言われずともこちらから出ていきます!」

 織衣の背後で千菊がくすりと笑い、「上々」と呟いたのが聞こえた。織衣はぐいっと涙をぬぐうと、惟人に対し勝ち気な笑みを向ける。

「だ、そうでございます」
「……分かった」

 惟人が静かに立ち上がった。その顔は、面白がっている風もなければ怒っている風もない。感情の一切が抜け落ちたような顔だ。

「言いたいことはそれだけか?」
「端から、あなたさまに言いたいことなど何もございませぬ。だって、誰もお選びにならないのでしょう?」

 皮肉を込めてそう答えれば、惟人が一瞬だけ寂しそうな顔をした。しかし織衣は、冷ややかな顔を返すのみである。
 そして惟人は──、そんな彼女の頬にためらいながら口づけを落とすと、そのまま広間を後にした。
 しんと静まり返った広間。微妙な空気が場を包む。しかし、そこへ貴清の穏やかな声が上がった。

「皆、ひとまずこれにて解散しよう。頼木殿は東宮の元へ。咲子も戻れ。幸姫、珠姫を四乃舎へ頼めるか。さあ、他の者も仕事に戻るがよい」

 貴清が、これ以上はここに留まる必要なしと、それぞれに退出を促す。守泰がさっと一礼して東宮を追いかけ、咲子もまた、複雑な面持ちで広間から出ていく。
 そして珠緒は、幸と女房たちに抱えられながら去っていった。織衣はそれを見送りながら、これまた帰ろうとする千菊に声をかけた。

「菊姫さま、先ほどはありがとうございます。助かりました」
「……私は私で好きにしたまで。礼には及びませぬ」

 素っ気なく言って、しかし、千菊は思い出したように言葉を続けた。

「そう言えば、訂正したいことが」
「訂正ですか?」

 突然なんだろうと織衣が首を傾げると、千菊が鷹揚な笑みを浮かべた。

「以前、嫌いなものは身の程知らずで、好きなものは地位と権力と申し上げましたが──あれは嘘です。本当は、まるっと逆にございます」
「へ? 逆? つまり、あべこべってことですか??」
「はい。特に、織姫さまの身の程知らずは、世の常識に収まるものではない様子。なかなか痛快にございます」

 そして千菊は桧扇をぱちりと閉じて、その先で織衣の頬を指す。

「東宮さまも、そんな織姫さまに惹かれたのでございましょう。大切にされていらっしゃる」
「あ、いえ……」

 頬に口づけをされたことを思い出し、織衣は顔を真っ赤にして頬を押さえた。
 千菊がおかしそうに笑いながら踵を返す。
 こうして花合わせは終わりを告げた。