数日後、惟人が五乃舎に現れた。ちょうど夕餉の頃、今日は補佐役の守泰さえ連れておらず一人である。
「ひどいな。これはもうごみではないか」
ここ最近、五乃舎への嫌がらせが度を増してきて、日々の汚れ物まで一緒に捨てられるようになっていた。惟人は庭で女房たちに混じって片付けの作業をする織衣を見つけると、茶化した声を大げさに上げた。
「姫自ら片付けとは──。嘆かわしいな」
「……見ての通り忙しいので、お引き取り願えますでしょうか?」
小袖に前掛けを巻き、およそ妃候補とは思えない格好で作業をしていた織衣は、庭から惟人を不機嫌な顔で見上げた。
織衣の腹がぐうっと鳴れば、惟人がひげ顔をくしゃりと崩してくつくつと笑う。
「その姿も似合っておるぞ。それより、あの仕事のできそうな女房はどうした? 食事ばかり捨てられる主に愛想を尽かしたか?」
「違います。台盤所です」
遠野は台盤所に雑仕女数人を連れて食事を作りに行っている。最初は同情的だった台盤所の人間も、最近では「またですか」とげんなり顔で、今日なんかは「捨てられる五乃舎の姫に問題があるのでは?」ときたもんだ。
もう代わりの食事を作ってくれそうもないので、場所と材料を借りて遠野が作りに行っているという訳だ。
「食事の度にこれでは、たまりませぬ。台盤所に大伴家の人間を入れてもかまわないでしょうか?」
「そんな大仰なことをせずとも」
惟人がにやりと笑う。
「毎日、私がここで食事をすれば済む話だ」
「ごめんこうむります。さらに話がややこしくなりますので」
「では、私の寝所へ食べにくるか?」
「人の話を聞いてなさいますか? お・こ・と・わ・り、します」
顔をひきつらせ織衣は惟人をにらむ。面白がっているとしか思えない。案の定、惟人は勝ち誇った顔で織衣に言った。
「私は全ての殿舎を回ったぞ。これで嫌がらせはなくなるのではなかったのか?」
「回り方に問題があったかと。それに宮さまの初乃舎がまだでございましょう?」
悔し紛れに言い返すと、惟人が肩をすくめた。
「咲子は知った仲だ。今さら会う必要もあるまい。それに回り方に問題ありとおまえは言うが、私は自分のやり方でやると言ったはずだ」
ああ言えば、こう言う。本当に口が減らない。ふと周囲を見れば、女房たちもみな畏まって作業の手を止めている。
ああ、面倒くさいな!
ため息一つ、しぶしぶ織衣は庭から廊下に上がった。
「部屋に案内いたします。さ、こちらへ」
「悪いな、邪魔をしたようで」
分かっているなら来るな、という言葉は周囲の目もあるので言わない。
ひとまず客間へ惟人を案内して、織衣は身なりを整えるために下がった。小袖はこのままでいいとして、急いで長袴をはいて、若草の単に濃淡の違う紅梅の袿を数枚ほど重ね……、小袿は面倒なので省略したいが東宮を前にそれはできない。
とにもかくにも大急ぎで終わらせて惟人の待つ部屋へ戻る。待たせていること自体はどうでもいいが、一人にさせていることが不安だからだ。
案の定、いつの間にか戻ってきた遠野の声が部屋から聞こえてきた。
「まあ、東宮さまは弱々しい姫君がお嫌いなのですね。それでは、我が姫と良い縁を結べるかと思います。なんせ、織姫さまはあの大伴時国さまのご息女であられます。刃を向けられてもたじろぐことなどありませぬ」
織衣の意思など全く無視して、遠野は惟人に自分の姫を本気で売り込んでいる。食事を捨てる女房といい、勝手に姫を売り込む女房といい、本気の女房は怖い。
遠野が、ここが勝負とばかりに前に進み出た。
「織姫さまは、実のところ無精ひげが好みでございます」
「ほう、それは初耳だな。もっと詳しく話せ」
だあっ、黙って聞いていれば何を言っているの! 最大の敵は身内にありだ。
織衣は、あえて荒々しく足音を踏み鳴らして部屋に入った。
「東宮さま、勝手にうちの女房に話しかけないでくださいませ! 遠野、あなたは私の食事の用意を!」
肩を怒らせながら二人の会話に割って入り、遠野を追い出す。遠野は「いいところなのに」と悔しそうに部屋を出ていく。織衣はその後ろ姿を確認してから、今度は惟人に向かって部屋の外を指差した。
「さあ、どうぞお帰りを」
「つれないな。座ってもくれないのか。では、どうして私を部屋に案内したのだ?」
「片付けの作業を邪魔させないためにございます」
「ふうん。で、ひげが好みというのは本当か?」
出し抜けに言われ、織衣は顔を真っ赤にしてむせ返った。惟人が面白そうに笑った。
「初めて会った日に私をまじまじと見ていたのはそのせいだな。しかし、見た目で私を判断しようとは、おまえの言う『縁を結ぶ』という言葉も嘘臭く感じるな」
「見た目だけで東宮さまを判断できたのであれば、私もここまで苦労してはおりませぬ」
「ははは、確かに言う通りだ。まあいい、」
言って惟人は立ち上がる。
「今日は、無精ひげが好みという言葉に免じて帰るとしよう」
「だから──!」
刹那、惟人が織衣に歩み寄り、彼女をぐっと抱き締めた。そして、遠慮なくひげ顔を織衣のほほに擦り寄せる。思わず織衣は叫び声を上げて、惟人の胸を押し返した。
「なっ、なななな何を?? お止めください!」
「近々、遊びの会を開く予定だ」
不穏な声が耳元で響き、力を込めていた織衣の腕がぴたりと止まる。惟人が笑いで喉を鳴らした。
「面白い趣向も考えておるゆえ、楽しみに待っておれ。私はおまえを気に入っておるぞ」
惟人が織衣を抱く手を緩める。その含みのある顔に織衣が怪訝な顔を返せば、惟人はふわりと笑みを浮かべて織衣のほほに口づけを落とした。
織衣の頬でちゅっと小さな音が跳ねる。
「邪魔したな」
ひらひらと片手を振って去っていく惟人を見送りながら、織衣はなんとも言えない不安を覚える。惟人の言葉が頭を巡り、今のやり取りが外から丸見えだったことにさえ意識を配れないでいた。
「ひどいな。これはもうごみではないか」
ここ最近、五乃舎への嫌がらせが度を増してきて、日々の汚れ物まで一緒に捨てられるようになっていた。惟人は庭で女房たちに混じって片付けの作業をする織衣を見つけると、茶化した声を大げさに上げた。
「姫自ら片付けとは──。嘆かわしいな」
「……見ての通り忙しいので、お引き取り願えますでしょうか?」
小袖に前掛けを巻き、およそ妃候補とは思えない格好で作業をしていた織衣は、庭から惟人を不機嫌な顔で見上げた。
織衣の腹がぐうっと鳴れば、惟人がひげ顔をくしゃりと崩してくつくつと笑う。
「その姿も似合っておるぞ。それより、あの仕事のできそうな女房はどうした? 食事ばかり捨てられる主に愛想を尽かしたか?」
「違います。台盤所です」
遠野は台盤所に雑仕女数人を連れて食事を作りに行っている。最初は同情的だった台盤所の人間も、最近では「またですか」とげんなり顔で、今日なんかは「捨てられる五乃舎の姫に問題があるのでは?」ときたもんだ。
もう代わりの食事を作ってくれそうもないので、場所と材料を借りて遠野が作りに行っているという訳だ。
「食事の度にこれでは、たまりませぬ。台盤所に大伴家の人間を入れてもかまわないでしょうか?」
「そんな大仰なことをせずとも」
惟人がにやりと笑う。
「毎日、私がここで食事をすれば済む話だ」
「ごめんこうむります。さらに話がややこしくなりますので」
「では、私の寝所へ食べにくるか?」
「人の話を聞いてなさいますか? お・こ・と・わ・り、します」
顔をひきつらせ織衣は惟人をにらむ。面白がっているとしか思えない。案の定、惟人は勝ち誇った顔で織衣に言った。
「私は全ての殿舎を回ったぞ。これで嫌がらせはなくなるのではなかったのか?」
「回り方に問題があったかと。それに宮さまの初乃舎がまだでございましょう?」
悔し紛れに言い返すと、惟人が肩をすくめた。
「咲子は知った仲だ。今さら会う必要もあるまい。それに回り方に問題ありとおまえは言うが、私は自分のやり方でやると言ったはずだ」
ああ言えば、こう言う。本当に口が減らない。ふと周囲を見れば、女房たちもみな畏まって作業の手を止めている。
ああ、面倒くさいな!
ため息一つ、しぶしぶ織衣は庭から廊下に上がった。
「部屋に案内いたします。さ、こちらへ」
「悪いな、邪魔をしたようで」
分かっているなら来るな、という言葉は周囲の目もあるので言わない。
ひとまず客間へ惟人を案内して、織衣は身なりを整えるために下がった。小袖はこのままでいいとして、急いで長袴をはいて、若草の単に濃淡の違う紅梅の袿を数枚ほど重ね……、小袿は面倒なので省略したいが東宮を前にそれはできない。
とにもかくにも大急ぎで終わらせて惟人の待つ部屋へ戻る。待たせていること自体はどうでもいいが、一人にさせていることが不安だからだ。
案の定、いつの間にか戻ってきた遠野の声が部屋から聞こえてきた。
「まあ、東宮さまは弱々しい姫君がお嫌いなのですね。それでは、我が姫と良い縁を結べるかと思います。なんせ、織姫さまはあの大伴時国さまのご息女であられます。刃を向けられてもたじろぐことなどありませぬ」
織衣の意思など全く無視して、遠野は惟人に自分の姫を本気で売り込んでいる。食事を捨てる女房といい、勝手に姫を売り込む女房といい、本気の女房は怖い。
遠野が、ここが勝負とばかりに前に進み出た。
「織姫さまは、実のところ無精ひげが好みでございます」
「ほう、それは初耳だな。もっと詳しく話せ」
だあっ、黙って聞いていれば何を言っているの! 最大の敵は身内にありだ。
織衣は、あえて荒々しく足音を踏み鳴らして部屋に入った。
「東宮さま、勝手にうちの女房に話しかけないでくださいませ! 遠野、あなたは私の食事の用意を!」
肩を怒らせながら二人の会話に割って入り、遠野を追い出す。遠野は「いいところなのに」と悔しそうに部屋を出ていく。織衣はその後ろ姿を確認してから、今度は惟人に向かって部屋の外を指差した。
「さあ、どうぞお帰りを」
「つれないな。座ってもくれないのか。では、どうして私を部屋に案内したのだ?」
「片付けの作業を邪魔させないためにございます」
「ふうん。で、ひげが好みというのは本当か?」
出し抜けに言われ、織衣は顔を真っ赤にしてむせ返った。惟人が面白そうに笑った。
「初めて会った日に私をまじまじと見ていたのはそのせいだな。しかし、見た目で私を判断しようとは、おまえの言う『縁を結ぶ』という言葉も嘘臭く感じるな」
「見た目だけで東宮さまを判断できたのであれば、私もここまで苦労してはおりませぬ」
「ははは、確かに言う通りだ。まあいい、」
言って惟人は立ち上がる。
「今日は、無精ひげが好みという言葉に免じて帰るとしよう」
「だから──!」
刹那、惟人が織衣に歩み寄り、彼女をぐっと抱き締めた。そして、遠慮なくひげ顔を織衣のほほに擦り寄せる。思わず織衣は叫び声を上げて、惟人の胸を押し返した。
「なっ、なななな何を?? お止めください!」
「近々、遊びの会を開く予定だ」
不穏な声が耳元で響き、力を込めていた織衣の腕がぴたりと止まる。惟人が笑いで喉を鳴らした。
「面白い趣向も考えておるゆえ、楽しみに待っておれ。私はおまえを気に入っておるぞ」
惟人が織衣を抱く手を緩める。その含みのある顔に織衣が怪訝な顔を返せば、惟人はふわりと笑みを浮かべて織衣のほほに口づけを落とした。
織衣の頬でちゅっと小さな音が跳ねる。
「邪魔したな」
ひらひらと片手を振って去っていく惟人を見送りながら、織衣はなんとも言えない不安を覚える。惟人の言葉が頭を巡り、今のやり取りが外から丸見えだったことにさえ意識を配れないでいた。

