「それでは皆さま、今日よりつつがなくお務めを果たされますようお願いいたします」
ようやく長ったらしい説明が終わり、典侍が姫君たちに解散を告げる。織衣は、やれやれと息をつきつつ、ちらりと他の姫君たちの様子をうかがう。
今回、御妻合わせに集められた四人については、家柄や宮内での立場などの簡単なことは時国から事前に聞いている。織衣の座から近い順に、それぞれ大納言、神祇伯、左大臣、親王の娘となる。皆美しく、絵にかいたような姫君たちだ。
これからしばらく付き合うことになるので、織衣としては簡単に挨拶をしておきたいところである。しかし、面識もなく、最も格下の織衣がいきなり話しかけることはできない。いっそ、話しかけてくれれば助かるのだが、当然ながら姫君たちにその気配はない。
(もしかしたら、もう勝負は始まっている、ということかしら。そんな気なんてないのにね)
大伴家は古くから続く武門の名家だ。織衣はそこの一人娘として、小さい頃から貝合わせより武官相手に剣や組手を楽しんでいたクチで、そのおかげか見目麗しい公達に興味がない。将来の伴侶は無精ひげが似合う父親のような男性がいいと勝手に思っている。
東宮はどう考えても前者であると思われるので、織衣の好みとはほど遠い存在に思えた。
だが、そんな織衣の事情を他の姫君が知っているわけがない。
(仕方がないわ。ここでのご挨拶は諦めて、あらためて各殿舎にお伺いしよう)
その時、廊下に足音が鳴り響いた。
なんだと思って部屋の外を見やると、緋の衣をまとった下がり目の男が突然現れる。典侍が露骨に顔をしかめた。
「蔵人殿、何ごとでございますか?」
「突然失礼を」
蔵人と呼ばれる男が一礼して、典侍のしかめっ面を受け流す。そして彼は短く告げた。
「東宮さまがお見えにございます」
その言葉を聞いて、典侍が顔を強ばらせ織衣をはじめとした姫君たちに目配せする。織衣たちが慌てて居ずまいを正せば、典侍は素早くその背後に控えた。
蔵人の男がするりと下がって道を開ける。次の瞬間、白に二藍の直衣姿が目の中に飛び込んできて、その場にいた者たちは、全員一斉に頭を下げた。
静かな足音は広間の上座中央まで入って来るとぴたりと止まる。上品ではあるが力強く無駄のない足運びは、どこか時国と似ていて、織衣は少し驚く。これは鍛えられている者の足音だ。
(この方が東宮惟人親王……)
ややあって、艶のある男の声が広間に響いた。
「面を上げよ」
そう言われ、織衣をはじめとした姫君たちは顔をほんの少しだけ上げる。いきなり視線は合わせられない。格上の相手にはっきりと顔を上げていいのは、もう一度声がかかった時だ。
張り詰めた空気が漂う。さっきまでぎゃんぎゃんとうるさかった典侍さえ気配が感じられないほど静かである。
「そう堅くならずともよい。楽にせよ」
二度目の声だ。織衣は、ようやく顔をまっすぐ上げて目の前の相手に視線を向けた。その刹那、冷ややかな瞳とかち合った。
筋の通った鼻に、切れ長の魅惑的な目。そして引き締まった口。ここまでは端正な顔立ちの貴公子である。しかし、あご周りに不釣り合いに伸びたひげが生えていて、それが妙に人間臭い。
なんと。見目麗しと無精ひげが同じ顔の中にある。
これはちょっと、衝撃だった。織衣の中で、見目麗しと無精ひげは相容れないものであったからだ。それを同時に体現した存在は、それだけで貴重と言えた。
東宮ともあろう御方の容貌としては「なし」かもしれないが、織衣にとっては「あり」である。皇子《みこ》という遠い存在のはずなのに、親近感さえ湧いてくる。
しかし惟人は、まじまじと見つめる織衣に向かって、皮肉げな笑みを浮かべた。
「私がそんなに珍しいか?」
他の姫君を差し置いて自分が声をかけられてもいいのかと、織衣は思わず周りの様子をうかがう。
すると、誰も顔を上げていないではないか。
「え?」
「何を今さら慌てておる。勇んで自ら顔を上げたは、おまえ自身であろう。他の者もさっさと顔を上げよ」
東宮自ら三度目の声。ようやく全員が顔を上げた。
やられた──。東宮相手は、二度ではなく三度の声らしい。そんな御所約束、聞いていない。
まず典侍と目が合い、聞いていなかったのかと言わんばかりににらまれた。助けを求めて大伴家から連れてきた女房を探すと、彼女は絶望的な面持ちで顔をひきつらせている。
まずい。織衣は笑って誤魔化してから、再び東宮と向き合った。
あらためて東宮が姫君たちの顔を品定めのごとく一人ひとり見ていく。そしてひと通り顔ぶれを確認し終わると、彼はやおら口を開いた。
「私が惟人である。何を吹き込まれ東宮御所に来たかは聞かぬ。が、最初にこれだけは言っておく」
静かな声ではあるが、有無を言わせない強い口調。顔を強ばらせる姫君たちの前で、惟人は冷えびえと目を光らせた。
「まず一つ。私は無駄な儀礼が好きではない。顔を上げるために三度も声をかけるなど時間の無駄だ。上げよと言ったら、一度で上げよ。二つ目、私は誰も選ぶ気がない。ゆえに、あてが外れたのであれば今すぐ帰れ」
言って惟人は、織衣の前にひざまずいた。
「分かったか。二度目で顔を上げた女」
まともに名前を呼ぶ気もないらしい。聞いていたとおりの傍若無人ぶりだ。
思わず織衣は目をすがめる。名前を覚えてもらいたいわけではないが、舐められるのは好きじゃない。
「返事は?」
惟人が、さらに圧をかけてきた。皆が家を背負ってここにいるのは分かっているはずで、その上でこちらの反応を面白がっている。泣き出すとでも思っているのか。
(面白い。受けて立とうじゃないの、この見目麗しの無精ひげが)
織衣は心の中で言い返し、惟人に不遜とも言える笑みを返した。
「承知いたしました。今の東宮さまの話をまとめるに、要は勝手にしていいと。そういう意味でございますね」
他の姫君たちがざわついたのが分かったが、織衣は知ったことではない。今はこの男と勝負中なのだ。
惟人が、ほんの少し驚いた顔をした。それだけで織衣は胸のすくような気持ちになる。射抜くような惟人の鋭い視線に挑発的な笑みを返せば、彼はふいと目をそらして立ち上がった。
「以上だ。それでもなおここに残るというのであれば、せいぜい私の気を引くよう励むがいい」
最後は素っ気なく言い残し、惟人は広間から出て行った。
(よしっ。多分、勝った)
そう思って得意げに後ろを振り返ると、大伴家の女房が両手で顔を覆ってさらに絶望していた。
ようやく長ったらしい説明が終わり、典侍が姫君たちに解散を告げる。織衣は、やれやれと息をつきつつ、ちらりと他の姫君たちの様子をうかがう。
今回、御妻合わせに集められた四人については、家柄や宮内での立場などの簡単なことは時国から事前に聞いている。織衣の座から近い順に、それぞれ大納言、神祇伯、左大臣、親王の娘となる。皆美しく、絵にかいたような姫君たちだ。
これからしばらく付き合うことになるので、織衣としては簡単に挨拶をしておきたいところである。しかし、面識もなく、最も格下の織衣がいきなり話しかけることはできない。いっそ、話しかけてくれれば助かるのだが、当然ながら姫君たちにその気配はない。
(もしかしたら、もう勝負は始まっている、ということかしら。そんな気なんてないのにね)
大伴家は古くから続く武門の名家だ。織衣はそこの一人娘として、小さい頃から貝合わせより武官相手に剣や組手を楽しんでいたクチで、そのおかげか見目麗しい公達に興味がない。将来の伴侶は無精ひげが似合う父親のような男性がいいと勝手に思っている。
東宮はどう考えても前者であると思われるので、織衣の好みとはほど遠い存在に思えた。
だが、そんな織衣の事情を他の姫君が知っているわけがない。
(仕方がないわ。ここでのご挨拶は諦めて、あらためて各殿舎にお伺いしよう)
その時、廊下に足音が鳴り響いた。
なんだと思って部屋の外を見やると、緋の衣をまとった下がり目の男が突然現れる。典侍が露骨に顔をしかめた。
「蔵人殿、何ごとでございますか?」
「突然失礼を」
蔵人と呼ばれる男が一礼して、典侍のしかめっ面を受け流す。そして彼は短く告げた。
「東宮さまがお見えにございます」
その言葉を聞いて、典侍が顔を強ばらせ織衣をはじめとした姫君たちに目配せする。織衣たちが慌てて居ずまいを正せば、典侍は素早くその背後に控えた。
蔵人の男がするりと下がって道を開ける。次の瞬間、白に二藍の直衣姿が目の中に飛び込んできて、その場にいた者たちは、全員一斉に頭を下げた。
静かな足音は広間の上座中央まで入って来るとぴたりと止まる。上品ではあるが力強く無駄のない足運びは、どこか時国と似ていて、織衣は少し驚く。これは鍛えられている者の足音だ。
(この方が東宮惟人親王……)
ややあって、艶のある男の声が広間に響いた。
「面を上げよ」
そう言われ、織衣をはじめとした姫君たちは顔をほんの少しだけ上げる。いきなり視線は合わせられない。格上の相手にはっきりと顔を上げていいのは、もう一度声がかかった時だ。
張り詰めた空気が漂う。さっきまでぎゃんぎゃんとうるさかった典侍さえ気配が感じられないほど静かである。
「そう堅くならずともよい。楽にせよ」
二度目の声だ。織衣は、ようやく顔をまっすぐ上げて目の前の相手に視線を向けた。その刹那、冷ややかな瞳とかち合った。
筋の通った鼻に、切れ長の魅惑的な目。そして引き締まった口。ここまでは端正な顔立ちの貴公子である。しかし、あご周りに不釣り合いに伸びたひげが生えていて、それが妙に人間臭い。
なんと。見目麗しと無精ひげが同じ顔の中にある。
これはちょっと、衝撃だった。織衣の中で、見目麗しと無精ひげは相容れないものであったからだ。それを同時に体現した存在は、それだけで貴重と言えた。
東宮ともあろう御方の容貌としては「なし」かもしれないが、織衣にとっては「あり」である。皇子《みこ》という遠い存在のはずなのに、親近感さえ湧いてくる。
しかし惟人は、まじまじと見つめる織衣に向かって、皮肉げな笑みを浮かべた。
「私がそんなに珍しいか?」
他の姫君を差し置いて自分が声をかけられてもいいのかと、織衣は思わず周りの様子をうかがう。
すると、誰も顔を上げていないではないか。
「え?」
「何を今さら慌てておる。勇んで自ら顔を上げたは、おまえ自身であろう。他の者もさっさと顔を上げよ」
東宮自ら三度目の声。ようやく全員が顔を上げた。
やられた──。東宮相手は、二度ではなく三度の声らしい。そんな御所約束、聞いていない。
まず典侍と目が合い、聞いていなかったのかと言わんばかりににらまれた。助けを求めて大伴家から連れてきた女房を探すと、彼女は絶望的な面持ちで顔をひきつらせている。
まずい。織衣は笑って誤魔化してから、再び東宮と向き合った。
あらためて東宮が姫君たちの顔を品定めのごとく一人ひとり見ていく。そしてひと通り顔ぶれを確認し終わると、彼はやおら口を開いた。
「私が惟人である。何を吹き込まれ東宮御所に来たかは聞かぬ。が、最初にこれだけは言っておく」
静かな声ではあるが、有無を言わせない強い口調。顔を強ばらせる姫君たちの前で、惟人は冷えびえと目を光らせた。
「まず一つ。私は無駄な儀礼が好きではない。顔を上げるために三度も声をかけるなど時間の無駄だ。上げよと言ったら、一度で上げよ。二つ目、私は誰も選ぶ気がない。ゆえに、あてが外れたのであれば今すぐ帰れ」
言って惟人は、織衣の前にひざまずいた。
「分かったか。二度目で顔を上げた女」
まともに名前を呼ぶ気もないらしい。聞いていたとおりの傍若無人ぶりだ。
思わず織衣は目をすがめる。名前を覚えてもらいたいわけではないが、舐められるのは好きじゃない。
「返事は?」
惟人が、さらに圧をかけてきた。皆が家を背負ってここにいるのは分かっているはずで、その上でこちらの反応を面白がっている。泣き出すとでも思っているのか。
(面白い。受けて立とうじゃないの、この見目麗しの無精ひげが)
織衣は心の中で言い返し、惟人に不遜とも言える笑みを返した。
「承知いたしました。今の東宮さまの話をまとめるに、要は勝手にしていいと。そういう意味でございますね」
他の姫君たちがざわついたのが分かったが、織衣は知ったことではない。今はこの男と勝負中なのだ。
惟人が、ほんの少し驚いた顔をした。それだけで織衣は胸のすくような気持ちになる。射抜くような惟人の鋭い視線に挑発的な笑みを返せば、彼はふいと目をそらして立ち上がった。
「以上だ。それでもなおここに残るというのであれば、せいぜい私の気を引くよう励むがいい」
最後は素っ気なく言い残し、惟人は広間から出て行った。
(よしっ。多分、勝った)
そう思って得意げに後ろを振り返ると、大伴家の女房が両手で顔を覆ってさらに絶望していた。
