東宮さまは、決して妃を選ばない。~平安巻き込まれ恋愛絵巻~【完結済】

 織衣たちと別れ、四乃舎(よつのや)へ戻ってきた珠緒はいらいらしていた。千菊の堂々とした出迎えぶりを見て、直感的に「負けた」と思ったからだ。千菊であれば、きっと東宮に怒られることもなく、無事にお渡りを終えるだろう。

(あんな意地悪な姫がどうして怒られないの)

 彼女の派手な容姿を見れば、性格の悪さだってそれなりに分かるだろうに、誰も千菊の本性に気づかないのかと腹が立つ。

「おかえりなさいませ」

 留守を預かっていた女房が珠緒を出迎える。

「ごゆるり過ごされたようで」
「ええ、楽しかったわ。もっとも、最後に嫌なものも見てしまったけれど」
「実は蔵人(くろうど)さまがお見えになっておりまして。さすがに日も暮れておりますので、機会を改められるがよろしいかと思うのですが──」
「本当? それを早く言って。控えの間ね」

 女房の忠告を遮って珠緒は嬉しそうな声を上げた。彼女は表着(うわぎ)の裾をぱさりとひるがえし、女房たちを置いて足早に部屋へと向かった。

「頼木さま」
「嵯峨さまのお話はどうでした?」

 人好きする下がり目の顔を和ませて、頼木(よりき)守泰(もりやす)がにこりと笑う。珠緒は守泰の隣に遠慮なく座った。
 内裏(だいり)は帝や東宮とその妃たちが住まう私的な場所ではあるが、男性が出入りできない訳ではない。日中に貴清と会って話をしたように、文化的な集まりが頻繁に開かれ、そこには男性の貴人も加わって社交の場となっている。
 しかし、日が暮れた時間帯となれば話は別だ。酒宴などの例外もあるが、男女二人で会うなど、何を疑われても文句は言えない。
 珠緒のいささか近すぎる距離に、周囲の女房がさすがに眉をひそめる。そして、見かねた女房の一人がさりげなく御簾を下ろした。
 一方、珠緒は全く気にしていない。あの恐ろしい無精ひげの相手より、この下がり目の相手の方がよほど心安らかだからだ。女房たちも守泰を頼ればいいと言ったし、何より守泰は東宮に取り次いでくれると約束してくれた。
 先日のお渡りで、東宮に冷たくあしらわれたことは珠緒にとって悔しい結果だった。しかし時間が経つにつれて、珠緒は東宮に気に入られようと頑張ること自体が億劫(おっくう)に感じるようになっていた。
 どうして、あんな怖い思いをしてまで頑張らなければならないのか。
 父親から東宮に気に入られるよう申し付けられ、珠緒はここに来た。その目的を忘れた訳ではないが、思った以上に道のりは険しそうである。
 ならば、頼れる者にすがるのは珠緒にとって自然な成り行きだった。黙って笑うだけでいい方法こそが、彼女のやり方なのだから。
 珠緒は困った顔を守泰に向けた。

「頼木さま、次乃舎(つぎのや)の菊姫さまのところへ東宮さまが今ほどお渡りになりました」
「はい。日中は都合が悪いと菊姫から連絡を受け、このような時間になった次第です」
「まあ、時間をずらさせたのですね。やはり、菊姫さまは油断なりませぬ」
「ははは。あの左大臣のご息女ですから。策を巡らせるのは得意かもしれませぬな」
「私はどうすればいいのでしょう? いつ東宮さまに取り次いでいただけるので?」
「そうですね……」

 しかし守泰は、珠緒の質問を受け止めつつも明確に答えることをせず、「それよりも」と切り出した。

「まだ五乃舎(いつつのや)の姫の食事が度々(たびたび)捨てられているでしょう? 珠姫は何かご存じではありませんか?」
「……さあ、私には分かりかねます」

 珠緒は守泰から目をそらし、歯切れ悪く答える。
 なぜなら、本当は犯人を知っているからだ。正確に言うなら、昨日知った。四乃舎の女房たちが織衣の食事を捨てた話をしていたのを聞いてしまったのだ。
 最初はさすがに驚いた。しかし、自分の命令したことではないし、女房たちが勝手にやったことである。珠緒は何も聞かなかったことにして、知らんぷりを決めこんだ。
 だいたい、なぜ今さらそんな話をするのだ。嫌がらせは織衣の自業自得だ。

「織姫さまも悪いのです。東宮さまに反抗的な態度を取りながら、そのくせ裏で媚びを売っていらっしゃいます。皆の前で真っ正直な心が好きだと言っておきながら、私たちを出し抜くような真似を──。あの姫は大嘘つきです」
「どうして、裏で媚びを売っていると分かるので?」
「だって女房たちがそう言っていました。五つの姫は、でしゃばるし黙って従うこともしない。どう考えたって不興を買うはずなのに、そうでないのは裏で何かしているからだと」

 珠緒がはっきり答える。誰かが言っていたことをそのまま口にするのは楽である。仮に間違っていても、それは自分のせいではないからだ。
 守泰が「なるほど」と大きくうなずいた。

「つまり、女房たちが言っていたから間違いないと」
「はい」

 言って珠緒は甘えるように守泰に身を寄せる。守泰がさすがに距離を置いたことには──気づかなかった。
 守泰が、しばし思案した後に下がり目をすっと細めた。

「それでは、それを皆の前で東宮に訴えなさいませ」
「皆の前で、訴える?」
「はい。皆の前でかの姫君の悪しき振る舞いをあばき、問い詰めるのです。再び珠姫の元へ東宮がお渡りになるには、まずは珠姫自身が信頼を得ねばなりませぬ。織姫の不正をあばけば、それを得ることもできましょう」
「でも、うまくいくかしら?」
「女房たちに証言させれば問題ないのでは?」

 そうかな? でも、まあ、東宮の補佐役の守泰がそう言うなら。
 心に浮かんだ違和感と不安は、気にしないことにした。なぜなら、誰かの提案に従うことが珠緒のやり方だ。

「私は東宮に遊びの会を催すよう進言しましょう。何か、織姫が苦手なもので勝負のつく催しがいいですね。菊姫と珠姫が組になり、幸姫と織姫の組と競い合うよう采配します。さすれば、必ず勝負は勝ちましょう。こういう場合、東宮は褒美をお尋ねになられます。その時に、織姫の所業を訴えなさるがよろしいかと」
「分かったわ。では、それまでに私も嫌な噂をたくさん集めてみます」
 守泰が全てお膳立てをしてくれるようだ。その瞳の奥に剣呑な光が宿っていることに、世間知らずな珠緒はやはり気づいていなかった。