東宮さまは、決して妃を選ばない。~平安巻き込まれ恋愛絵巻~【完結済】

「そのように畏まらずとも良い。東宮に無駄な儀礼は止めろと言われているのであろう?」

 穏やかな声が降りかかる。東宮について親しく語ることのできる数少ない人の一人だ。
 隣の咲子が「さあ、遠慮せずに中へ」と促してくれる。三人がそれぞれ用意された席に座ると、咲子があらためて自分の兄を紹介した。

「私の兄で──」
「嵯峨(さがの)貴清(たかきよ)じゃ。咲子が世話になっている」

 咲子をもっと男らしくした顔立ちの直衣(のうし)姿の男がにこやかに笑った。
 貴清は今上帝の甥にあたるが、臣籍に下り「嵯峨」の姓を賜り名乗っている。この臣籍降下は、皇族を一定数以上増やさないために行われる措置だ。
 咲子が「では順に紹介を」と貴清と幸を交互に見た。

「まずは幸姫からと言いたいが──、二人はすでに旧知の間柄であるし、必要ないの」
「はい」

 幸が柔らかな笑みを貴清に向ける。珠緒や織衣が「そうなのか?」と幸を見れば、彼女は小さくうなずきながら答えてくれた。

「当家には歴史書なども多くあり、貴清さまは以前からよく阿部家においででした。今は、神祇官(じんぎかん)大副(たいふ)として、私の父の補佐をしていただいております」

 なるほどと納得する織衣と珠緒をよそに、咲子がふいに思い出したように言う。

「ところで兄上、大社の巫女の代わりはお決まりになりましたので?」

 貴清が曖昧な表情で小首を傾げた。

「急な話であるから、難航はしているようだ」

 帝の御世に一人選出される南の大社の巫女。本来であれば、次の交代は今上帝(きんじょうてい)が退位し現東宮が即位する時であるが、現在の巫女が大病を患ったために新しい大社の巫女を立てなければならなくなっている。

「そうですか。正直なところ、次の南の大社のお務めは、幸姫が任ぜられると思っておりました。幸姫は幼少の頃より童巫女(わらわみこ)として多くの祭儀に出ておりますゆえ」

 幸がほんのわずか表情を強張らせ、それをすぐさま笑みで隠す。
 南の大社へ赴く巫女は未婚でなければならないので、妃候補となった幸が今の状態で大社の巫女に選ばれることはない。彼女の複雑な表情は、大社の巫女になれなかったことへの悔しさか、それとも負い目か。いずれにしても幸の本心は分からない。

「咲子、言っても仕方がないことを言うものではない」

 貴清が困った顔で咲子をたしなめた。そして、すぐさま彼は表情を明るくして、織衣たちに話しかけた。

「それよりも、今日はちまたで流行っているという作り物語を持ってきましたぞ。なんでも竹から美しい姫君が生まれ、帝と恋に落ちるとか」

 幸や珠緒が「まあ、」と歓喜の声を上げる。貴清が傍らに侍る従者に目配せすれば、従者が包みの中から書物を取り出した。
 それから織衣たちは、作り物語の話や貴清の神祇官大副の話などで盛り上がった。
 貴清は、特に神々の時代とされる古事に造詣(ぞうけい)が深く、織衣は彼の話を興味深く聞いた。
 帝の祖は、現世に降りた神の化身とされていて、皇族にはその血が受け継がれていると言う。織衣は、惟人にも神の血が流れているのかと思った。

「おや、おしゃべりが過ぎた。すっかり日も暮れてしまったの」

 咲子の声に、皆が庭を見る。外はすでに薄暗くなっていた。東宮御所に来てから、毎日あれこれと思い悩んでばかりいる。久しぶりに楽しく過ごせたと織衣は思う。
 竹から生まれた美しの姫の物語は、咲子から順に読むことになった。五乃舎(いつつのや)の自分のところに回ってくるのが今から待ち遠しい。貴清は、「貴族青年が主人公の歌物語もあったから、今度はそれを持ってくるとしよう」と言ってくれ、その場はこれでお開きとなった。
 織衣たちはそれぞれにお礼を述べて、おいとますることにする。惟人(これひと)の存在に煩わされない時間は、なんと心穏やかだろう。
 貴清と咲子に見送られ織衣たちは廊下に出る。その時、次乃舎(つぎのや)の様子がたまたま目に入った。

「あれ──」

 珠緒が引きつれた声を上げる。
 次乃舎では、ちょうど千菊が惟人を迎え入れているところだった。
 織衣の胸がどくんっと鳴る。

「おや、今からかえ? 遅いお渡りだの」

 よそ事のように言うのは咲子。皇女の余裕からか、それとも本当によそ事だと思っているからか。
 幸もまた、いつもの変わらない静かな顔でそれを見つめているだけである。
 一方、珠緒だけは悔しそうに顔を一瞬歪め、しかし、すぐに桧扇で表情をさっと隠した。
 ふと千菊がこちらの存在に気づき、ちらりと目を配る。織衣と視線が合い──、彼女は口元に優美な笑みを浮かべた。

「……!」

 なんてことはない。本命の姫が、本命らしく東宮を迎え入れているだけ。
 分かりきっていたことであるし、何より自分が惟人に提案したことだ。
 しかし、少なからず動揺していることに織衣は気づく。

(厄介なものね。人の自尊心というものは)

 選ばないはずの東宮のお渡りがあり、無意識のうちに認められたと浮かれていたのかもしれない。そんなつもりで東宮御所に来た訳ではないはずなのに、いつの間にか御妻合わせに気持ちまでもが引きずり込まれてしまっている。
 これは愛情からくる嫉妬というより、選別に落ちた者の羨望(せんぼう)の気持ちに近い。織衣の隣で珠緒がふいっと顔をそらした。

「皆さま、私は所用を思い出しましたので急ぎ四乃舎(よつのや)に戻ります」

 言って彼女はさっさと歩き始める。幸もまた、貴清と咲子に頭を下げてその場を去った。遠野が小さな声で織衣を促した。

「織姫さま、私たちも……」
「そうね」

 辺りはもう暗い。長居は無用である。織衣はすっと前を見定めて、次乃舎を視界から消した。