東宮さまは、決して妃を選ばない。~平安巻き込まれ恋愛絵巻~【完結済】

 次の日、朝餉(あさげ)を誰よりも早く取りに行ってくれた遠野が、次乃舎(つぎのや)に惟人がお渡りになると聞きつけてきた。
 三日連続のお渡り。ここまできっちり渡られると、義務的なのがあからさま過ぎて嫌味だなと織衣《おりえ》は思う。

「次乃舎の様子はどうだった?」
「お渡りは午後からでしょうが、慌てた様子もなく、まあ堂々としたものです」
「さすがね。それで、菊姫さまのお姿は?」
「はい、ちらりとだけ。紅地(べにじ)に尾長鶏(おながどり)の紋様がそれは見事な表着(うわぎ)を羽織ってなさいました」
「そう」

 あの豪奢(ごうしゃ)な姫なら似合うだろうな、と織衣は東宮を出迎える千菊の姿を想像する。ついでに惟人の相好を崩したひげ顔も想像してしまい、織衣は慌てて頭を左右にぶんぶんと振った。
 あの男に限ってそんなことがあるものか。

「あらまあ、織姫さま。心配でございますか?」

 織衣の心の動きを見透かすように遠野が笑いながら朝餉(あさげ)の膳を織衣の前に置く。織衣は白米の碗に箸をつけつつ口を尖らせた。

「心配なんか──。菊姫さまなら、失礼も失敗もないでしょうし、なんの心配もないわ」
「なればこそ。せめて様子を伺うことができれば良いのですが……」
「だから心配ないって言っているではないの!」
「私は、この御妻《みめ》合わせは悪い話ではないと思っているのですよ」

 遠野が唐突に言う。何を言い出すのだと、織衣は箸で持ち上げかけた白米をぼとりと落とす。遠野は行儀の悪い織衣の様子に苦笑した。

「時国の大殿(おとど)さまは『お役御免に』などとおっしゃっておりましたが、あれは本心ではないと思うのです。だって、実際にお役御免になって大伴家に帰ることになりでもしたら、織姫さまはどうなります? どこにも貰い手がいなくなるのですよ」
「そんな大袈裟な」
「大袈裟などではございません。ようくお考えくださいませ。東宮さま相手に真っ向から楯突く畏れ知らずの傷物の姫君など、誰が欲しがりましょうや」
「いや、随分な言い方ね……」

 しかし遠野は織衣の言葉を無視して、ずいっと彼女に詰め寄った。

「菊姫さまもおっしゃっていたように、どの殿舎にお渡りになろうとも、東宮さまは織姫さまに興味を示されていらっしゃいます。三乃舎(みつのや)で同席なさった折りも、東宮さまから『また来る』とお言葉をいただいたではありませんか。この際、理由はどうでもいいです。一気に懐に入ってしまわれませ」
「どうでもいいって、そんな、なりふり構わない言い方──。でも東宮さまは、誰も選ばないとおっしゃったわ。あの言葉が嘘だとは思えないもの」
「だからどうだと言うのです」

 織衣の反論を遠野は脇へと放り投げた。そして、さらに顔をずいっと織衣に近づけた。

「作り物語のような出会いなど、そうそうありませぬ。現実はもっとつまらぬものにございます。私の夫など、最初は別の女房を口説くために私に近づいたのですよ」
「そうなの?」

 それは初めて聞く話だ。織衣がうっかり聞き返してしまったので、遠野が得意気な様子でうなずいた。

「そうでございますよ。それが夫婦になるのです。出会った時のでき事など、小さきことにございます」

 古株の女房の言葉は、妙な説得力で満ちている。が、納得するわけにはいかない。織衣は、遠野の説教がうっとうしくなって、ふいっとそっぽを向いた。
 まさか遠野が乗り気になるなんて想定外だった。時国に「お役御免になってこい」と言われ、相手は「誰も選ばない」と言った東宮で、自分は一番格下の五つの姫なのだから。
 庭の向こうには四乃舎(よつのや)が見える。今日は御簾が上がっていて、四乃舎の様子がある程度伺えた。しかし、三乃舎は軒先がかろうじて見えるだけである。ましてや、次乃舎など影も形も見えない。
 織衣と同じく庭に目を向けた遠野が悩ましくため息をつく。

「どんなに頑張っても見えませんねえ」
「だから、違うって!」

 今度こそ織衣は食べることに集中した。
 その午後、織衣が暇を持て余していると、初乃舎《はつのや》の女房が突然やって来た。なんでも咲子の兄が遊びに来ており、皆に会わせたいのだと言う。

「宮さまの……嵯峨(さがの)貴清(たかきよ)さまで?」

 所在なく畳の上でぼんやりしていた織衣は、ずり落ちそうになっていた脇息から慌てて身を起こした。初乃舎の女房が「はい」とうなずく。

「宮さまを心配されてお越しあそばされましたよし。そこで宮さまが皆さまにもご紹介したいと」
「まあ、もったいないお招きだわ」

 どうせやることもない。ここでじっとしていても、次乃舎のことが気になるばかりである。何より、初乃舎であれば──、

「次乃舎が見えますね、織姫さま」
「……」

 全てお見通しとばかりに遠野に言われ、織衣は神妙な顔で目をそらした。
 それから大急ぎで身支度を整え、五乃舎(いつつのや)を出る。途中、珠緒や幸とも合流する。
 珠緒の姿を見るのは、東宮のお渡りで泣き崩れていた時以来だったが、何か吹っ切れたような顔をしていた。彼女は織衣の顔を見ても、澄まし顔で会釈をするだけでにこりともしない。
 一方、幸は「昨日もありがとうございました」と穏やかな笑みを返してくれた。彼女はこうして皆で集まるのが嬉しいのか、いつになくそわそわとしている。ちなみに、千菊は東宮のお渡りがあるため招かれていないとのことだった。
 三人は、それぞれ女房を従えて初乃舎(はつのや)に向かった。途中、次乃舎(つぎのや)の脇を通り過ぎる際、織衣はちらりと様子をうかがう。次乃舎の女房たちは特に慌てたふうもなく、遠野の言う通り堂々としたものである。もう午後も下がりに入ったというのに、惟人はまだ来ていないようだ。少し遅いなと織衣は思った。
 その後、初乃舎の取り次ぎ役の女房に到着したことを伝え、部屋へと案内をしてもらう。咲子のゆったりした声に招かれて中に入ると、上座中央に穏やかな顔立ちの公達が座っていた。
 三人は部屋の前に並んで座ると、一斉に頭を下げた。