東宮さまは、決して妃を選ばない。~平安巻き込まれ恋愛絵巻~【完結済】

 日暮れとなり、三乃舎(みつのや)でのお渡りがつつがなく終了した。帰り際、惟人(これひと)から「また来る」と告げられたのは、幸(さち)ではなく織衣(おりえ)。それは相手が違うだろうと幸を見ても、彼女は気分を害する様子もなく笑っているだけである。
 それから織衣は幸に別れを告げ、三乃舎の女房たちの見送りも遠慮して遠野と二人で廊下に出る。
 周囲に誰もいないことを確認しつつ織衣は遠野に小声で尋ねた。

「遠野、どう思う?」
「はい。東宮さまは、やはり織姫さまをお気に召されたご様子かと」
「そうではなくて。というか、どうしてそうなるの。幸姫さまのことよ」

 織衣がちろりと遠野をにらむと、遠野は「ああ、そっち」とつまらなそうに鼻を鳴らした。

「幸姫さまにあられますか?」
「ええ。全く気に入られようとするご様子もないし、それどころか東宮さまとお二人で話そうともなされなかったわ」

 二人の話は、日々の祭祀に関することや南の大社のことなど、表面的なものばかりだった。それだけでも味気ないと思うのに、幸はその会話にわざわざ織衣を誘ってきた。

「最初は私に気を遣ってくださっているのかと思ったのだけれど──」
「違いますね。東宮さまと二人で話したくない、もしくは距離を置きたいと思っていらっしゃるのではないでしょうか」

 やっぱり。
 幸姫には今日のお礼とともに、「また今度も」とお願いされた。本人がそれでいいのなら断る理由もないのだが、まるで二人になることを嫌がっているようである。

「でも、妃候補として東宮と関わりたくないなんてあり得ないでしょう?」
「それを織姫さまがおっしゃいますか」

 痛いところを突かれ、織衣はばつ悪くそっぽを向く。
 その時、廊下の向こう──次乃舎に一人の女房の姿が見えた。織衣たちが慌てて口をつぐむと、女房はじっとこちらを見つめて頭を下げる。
 何やら話がありそうである。

「……今日はいろいろ招かれるわね」
「織姫さま、お受けなさるので?」
「だって菊姫さまとは初顔合わせ以来、話をしていないもの。いい機会だわ」

 言って織衣は、ためらうことなく次乃舎へ足を向ける。次乃舎の女房が、満足げな笑みを浮かべて織衣を迎え入れた。

「生駒と申します。菊姫さまが織姫さまと話をされたいとおっしゃっております。よろしいでしょうか」
「もちろんです」
「ありがとうございます。では、こちらへどうぞ」

 生駒に連れられ、部屋の一つへ案内される。そこに、白の単衣に萌黄の袿を羽織っただけの千菊が座っていた。
 とは言え、目鼻立ちのはっきりした美しい容姿である千菊は、そこにいるだけで華やかだ。

「初顔合わせ以来ですね。さ、お座りなさって」

 自身は部屋の側面に座り、その向かいの席を織衣にすすめる。きちんと設えられた上座は、あえて空けてある体《てい》だ。

(さすが、と言うべきかしらね)

 本来であれば、家柄が上の千菊が上座で織衣を出迎えてもそんなものだ。しかし、そうしないということは、格式による序列を求めていないという意思表示である。敵意がないとも言えるだろう。
 ならば、と織衣は用意された席よりやや下座に着席し、丁寧に頭を下げた。

「お招きいただき、ありがとうございます」

 千菊の腹積もりが分からない以上、こちらも手抜きはできない。
 織衣が社交辞令的な笑みとともに顔を上げれば、千菊はおかしそうに笑った。

「そんなに畏まらずとも。初顔合わせでの勢いはどうされました?」
「あれは、挨拶のしきたりに無駄を感じたゆえの行動にございます。菊姫さまには失礼をいたしました」
「いいえ。私も初日で気負い過ぎておりましたゆえ、おあいこです」

 千菊が余裕たっぷりの笑みを見せる。

「むしろ、他の姫君ともお話ができて楽しゅうございました。織姫さまのおかげです」
「あれは女柏宮さまのご采配です」
「でも、きっかけを作ったのは織姫さまです」

 言って千菊は、一転して射抜くような鋭い眼差しを織衣に向けた。

「そして今も、御妻合わせの中心にいらっしゃる」
「別にそんなことは──」

 やはり本題は、東宮がらみ。織衣は千菊から目をそらしつつ、ため息を一つこぼした。
 千菊の父、一条(いちじょう)元親(もとちか)は、誰もが認める今上帝(きんじょうてい)の重臣である。左大臣として常に帝の側近くに侍っていることから、皮肉を込めて「主上(おかみ)の虫」とも言われている。
 つまり、父親の立場や家柄などを考えても、千菊は最も妃に近い姫君──、御妻合わせの大本命となる。同じ有力候補であっても、反東宮派から差し向けられた咲子とは立ち位置が違う。
 そんな千菊にとって、五乃舎への東宮お渡りは面白くない出来事だったと推察できる。織衣は、千菊の誤解を解くべく口を開いた。

「私など、所詮は五乃舎の者にございます。主上(おかみ)の覚えめでたい左大臣さまの姫君とは比べようもありませぬ。そもそも、東宮さまのお渡りは、私に対する嫌がらせです」
「お渡りが嫌がらせ? 嫌がらせは、食事を捨てられていることだと聞きましたが?」
「ですから、そうなることを分かっていて東宮さまは五乃舎へ渡られたのです。正直、迷惑しています」

 すると、千菊がすんっと冷めた表情で織衣をにらんだ。

「では、なぜ三乃舎のお渡りに同席されたのです? それが迷惑であるなら、会わなければいいだけです」

 まあ、確かに。誰の目から見ても同席はおかしい。そこは織衣も認めるところだ。
 面倒なことになったなと、今度は盛大なため息を織衣は遠慮なく吐き出した。が、ここは正直に言うしかない。

「同席したのは、東宮さまのお渡りに怯えた三乃舎の女房に頼まれたからでございます。私もお困りの幸姫さまを放っておけませんでした。珠姫さまが……ひどい扱いでしたし、そもそも各殿舎へのお渡りを東宮さまにお願いしたのは私ですし」
「お願い? 東宮さまに?」
「はい。人を信用するにはまず縁を結ぶことが大切。頭ごなしに姫君の存在を否定なさる前に、まずは関係をお築きになれと申し上げました。東宮さまが全ての殿舎にお渡りになれば、嫌がらせもなくなるだろうと思ったのも確かです」
「……」

 しばしの無言。しかしややあって、

「なんとお節介な。東宮さまのお渡りで嫌がらせがなくなるなんて、そんなわけないでしょう」

 千菊が容赦なく言って捨てた。