東宮さまは、決して妃を選ばない。~平安巻き込まれ恋愛絵巻~【完結済】

 あらま、お怒りにならない。
 不機嫌な態度はいつものことなのでいいとして、嫌味の一つも覚悟していた織衣は拍子抜けてしまった。惟人が織衣とその前に置かれてある膳に目を向ける。

「食事をまた捨てられたか」
「はい」
「どうして私に言わぬ?」
「私は捨てられた食事をどうにかしたいのではなく、食事を捨てられないようどうにかしたいのです。昨日の珠姫さまに対する東宮さまの態度は、そんな私の気持ちに寄り添うものではございませんでした」
「見ておったのか」
「あれだけ大騒ぎすれば、嫌でも聞こえます」

 遠慮なく言い返すと、惟人が面白くなさそうに目をそらす。そして、ため息を一つ、不機嫌な口調で吐き捨てた。

「気に入らない者に対する悪口と、根も葉もない噂ばかり話すからだ。ああいう中身のない話は聞くに耐えん」
「女は噂話が好きなもの。つき合うぐらいの寛容さをお見せくださいませ」
「織衣は、誰かの悪口も胡散な噂も言わないではないか」
「私は、そもそも女としての資質に欠けていると日頃から言われております。基準となさること自体がおかしいかと」
「ああ言えばこう言う──、なぜそう素直でないのだ」
「ひねくれ者の東宮さまに言われたくございませぬ」

 すると、二人のやり取りを見て、幸が珍しく笑い声を上げた。

「まあ。すっかり仲がよろしいのですね」

 織衣と惟人が、同時に「よろしくない!」と反論し、二人ではたと見つめ合い、そして互いにそっぽを向く。幸がいよいよおかしそうに笑った。



 その頃、四乃舎《よつのや》では珠緒の周りで女房たちがそわそわと三乃舎の様子を気にしていた。珠緒はと言うと、脇息に頬杖をついてぼんやりと座っているだけである。

「珠姫さま、三乃舎(みつのや)から笑い声が聞こえます。東宮さまと楽しげにご歓談されているようです」
「なんと、こちらではにこりともなさらなかったというのに!」
「どうやら織姫さまが、同席されているよし」
「なんと、あの姫君は図々しい! 東宮さまのお渡りに割って入るなど聞いたこともない!」
「どうされますか? 珠姫さま」

 怒りにも似たざわめきが部屋を覆う中、女房の一人が珠緒に詰め寄る。「どうされるか」と聞かれても、どうもこうもない。珠緒はうっとうしくなって目をそらした。
 するとその時、女房の一人がそろそろと部屋に入ってきた。

「珠姫さま、蔵人(くろうど)の頼木(よりき)守泰(もりやす)さまがお会いしたいとお越しです」
「……私に?」

 東宮は三乃舎にいる。なのに、その補佐役がどうしてここに来るのだろうと珠緒は怪訝な顔をした。
 女房が再び「どうされますか?」と珠緒に尋ねた。

「何やら内密に話がしたいと申しております。お通ししますか」
「急にそんなことを言われても」

 いきなり判断を求められ、珠緒は困惑する。こんな時は、どうするのが正解なのか分からない。彼女は、周囲の女房たちに助けを求めた。

「ど、どうしようかしら?」
「頼木さまは、東宮さまの補佐役です。お会いになられた方がよろしいかと思います」
「そうです。あばよくば、東宮さまが四乃舎にお渡りいただくようお願いできるやもしれませぬ。いいえ、珠姫さまを寝所にお召しいただくことも──」
「分かったわ。では、会うわ」

 ほっと息をついて珠緒は女房に言った。
 そうだ、慌てることはない。自分が決めなくても、周囲の女房たちが全部決めてくれる。

(私は、ここに座って笑っていればいいのだわ)

 ほどなくして、女房に案内されて守泰が現れた。
 守泰は、下がり目の人好きする顔の、東宮とはまた違った美丈夫である。彼は珠緒の向かいに座ると、優雅な物腰で頭を下げた。

「昨日は大変でございましたね。ご心中、お察しいたします。なんでも今日はご気分が優れないとか。大丈夫ですか」
「ありがとうございます。東宮さまにはご満足いただけず、大変残念に思います」

 珠緒は挨拶のような言葉だけを返した。「大変だった」と言われ、「本当にその通りだ」などと答える訳にはいかなかったからだ。ただ、どうして東宮の不興を買ったのか、知りたいところではあった。
 惟人に「東宮御所での暮らしはどうか」と尋ねられ、珠緒は初日に受けた千菊の意地悪い言動や、女房たちから聞いた噂などを素直に話した。それなのに、惟人は「もういい」と珠緒の話を突然打ち切ってしまった。

「何がお気に召さなかったのか、頼木さまはお聞きになっておりますでしょうか。ご存知であれば、お教えいただきとうございます」

 そうすれば、今度からは言われた通りにするだけだ。何も難しいことはない。
 珠緒は、小さい頃から「女はでしゃばるものではない」「黙って男に従うのが女である」と教えられ、それが当然だと信じていた。
 決めるのはいつだって自分ではない誰か。珠緒は自分で何かを決めたことがない。
 そんな珠緒の夢は、最上級の殿方に理想の姫として認められることだ。そうすれば最上級の幸せを手に入れられると、珠緒は信じていた。
 東宮御所に来たのだって、父親に「東宮さまに気に入られてこい」と言われたからだ。東宮が気難しく気性の荒い人物であることは聞いていたが、言われたことに笑って頷いていれば、それで大丈夫だと思っていた。なぜなら、女は出しゃばるものではなく、黙って男に従うもので、そうしていれば皆が「いい子」だと褒めてくれるから。
 それなのに、惟人を怒らせてしまった。それがなぜだか珠緒には分からない。

「私と織姫さまと何が違うと言うのでしょう? 織姫さまの方がよほど反抗的で常識外れだと思います。今日など三乃舎のお渡りに図々しくも同席をされているとか。あのような姫が贔屓(ひいき)される理由が分かりませぬ」
「なるほど、ご不満があるようですね。織姫と言えば、嫌がらせを受けているとか。何かご存知ですか?」
「……何も知りませぬ。当初は、四乃舎の庭に食事が捨てられ、片付けをしない私どもが東宮さまからお叱りを受けました。私も迷惑しております」
「それは災難で」

 守泰がずいっと珠姫に進み寄る。そして周囲の様子をちらちらと気にしながら、声を落として話を続ける。

「私は東宮の身の回りの世話をはじめ、東宮御所の規律の保持も仰せつかっております。またこうして話をお伺いに参ってもよろしいでしょうか。折を見て、私から東宮へお取り成しもいたしましょう」
「本当に?」
「はい。悪い話ではないと思いますが?」

 珠緒はちらりと周囲の女房を見る。筆頭格の一人が黙ってうなずいた。
 これは「受けろ」という意味だ。
 彼女は、守泰に向かって小さくうなずく。彼は人懐こい笑みを浮かべ、「このことは内密に」と人差し指を口元で立てた。