「浅はかな真似をするものよ。東宮さまが最も嫌う振る舞いじゃ」
従姉でもある咲子は、惟人とはすでに親しい間柄だ。しかし、二人を取り巻く環境はわりと複雑であることを織衣は遠野より聞いていた。咲子の父、柏親王の存在である。
柏親王は、血統第一主義で出自の低い者たちを軽んじている。母方の家柄が低い惟人が東宮になることを最後まで反対し、今でも反東宮派の筆頭として名を連ねている人物だ。
今回、咲子が御妻合わせに名乗りを上げたのも、惟人に対する牽制だとする声がある。皇女である咲子がいる限り、誰も正妃にはなれないからだ。
しかし、咲子を見る限り、そんな政治的な思惑など微塵も感じないというのが織衣の率直な感想である。初顔合わせでの姫君たちへの心配りといい、今の言動といい、彼女の振る舞いは皇女としての誇りと慈愛に満ちている。惟人にしても、咲子を信頼しているようだった。
「嫌がらせは、誰の仕業か分かったのかえ?」
「いいえ。台盤所の者に聞いてはみたものの、取りに来た者に渡しただけで顔も覚えておらぬとのことでした。余計な波風は立てたくありませんので、それ以上は調べておりませぬ」
「波風を立てたくないとは、織姫らしからぬ物言いだの」
「誰かを疑うは、性に合いませぬ。そもそも、お渡りが五乃舎だけというのが原因なので、東宮さまには他の姫君さまの元へもお渡りになるようお願いいたしました」
織衣が苦笑しつつ答えると、咲子がふふふと笑いを漏らした。
「なるほど、そこは織姫らしい」
「はい」
「とは言え、このままでは終わらぬな」
咲子が扇子をぱちりと閉じて、その瞳に剣呑な光を宿す。
織衣が「何を……」と言いかけたその時、四乃舎からわあわあと騒ぎ声が聞こえた。
「お待ちくださいませ!」
これは、珠緒の声だ。
あらためて御簾越しに四乃舎の様子をうかがう。すると、惟人が四乃舎を去ろうとしていて、それを珠緒が追いかけている。
「東宮さま、なぜです? まだ半時も経っておりませぬ」
「……それがどうした」
惟人は立ち止まり、半身だけをひねって振り返る。不快感をあらわにする惟人に対し、珠緒は必死である。
「お、織姫さまの元へは二時近くいらっしゃいました。二回目のお渡りの時も──それなりに長居されておりまする」
「いちいち五乃舎の様子を見ておるのか? 暇なことだな、四つの姫」
「四つではありません、珠緒です。織姫さまのことは、名前を呼んでいらっしゃったではありませんか」
「だからなんだ?」
惟人が小さく鼻を鳴らし皮肉げな笑みを浮かべた。
「織衣は必要があって、そう呼んでいる。そなたはその必要がない」
容赦なく惟人が言って捨てた。珠緒は言葉を失い、青ざめて下を向く。
二人のやり取りを見ながら織衣はぎりっと奥歯を噛み締めた。ついさっき、四乃舎に入っていく惟人を見て感じたもやもやが一気に消え失せる。
なんてひどい物言いを──。
惟人はやっぱり何も分かっていないし、反省もしていない。彼が望んでいるのは、最初から五人の姫の混乱だけだ。
「宮さま、少しここでお待ちくださいませ」
言って織衣は立ち上がった。他の姫君に会いに行けと言ったのは自分である。だとしたら、これは自分に対する当てつけだ。
しかしその時、咲子が静かに織衣の前に立ちはだかり、彼女の行く手を阻んだ。
「ならぬ。あれは、東宮さまと珠姫のやり取りじゃ。そなたが出る幕ではない」
「しかし──っ」
「言い争いの原因は、明らかにそなたぞ。何をどう取りなすと? 少なくとも珠姫は、そなたの仲裁など望んでおらぬ」
ぴしゃりと言われ、織衣は押し黙る。咲子の言うとおりだった。望まれていないのに自分が出ていけば、珠緒の面目をさらに潰すことになる。
惟人が、もう話は終わりとばかりに身を返して歩き始める。珠緒がその場に泣き崩れ、四乃舎の女房たちがおろおろと珠緒を抱きかかえた。
「まあ、普通はそうであろうが必死じゃの」
どこか冷めた声で咲子がよそ事のように言う。
織衣はただ見ていることしかできず、ぎゅっと袿を両手で握りしめた。
次の日になって、織衣の食事が再び捨てられた。誰かが「体調を崩した遠野の代わりに取りに来たと」と嘘をついて食事を持って行ったらしい。しかも今度は、五乃舎の庭にまき散らすという手際の良さである。片付けもこちらにやらせようという思いがありありと見て取れる。
「やり口が大胆かつ露骨になってきたわね」
「織姫さま、やはり四乃舎の女房たちが怪しいかと」
「まあ、そうかもしれないけれど。証拠もないし、四乃舎の女房のことは珠姫さまが律することだわ」
今日の四乃舎は、朝から五乃舎と同じように全て御簾が下ろされたままで中の様子を伺うことはできない。
隣で遠野が「うーん」と唸った。
「では、再び東宮さまにご相談なされてはどうでしょう? 前回の時のように一緒にお食事をされるとか」
織衣は、間髪入れず「嫌よ」と返した。
「東宮さまに泣きつくなんて真似、まるで負けを認めたようなものじゃないの」
「ですから、どうしてこの問題が勝ち負けになるのです。意地を張っても代わりの食事は簡単に出てきませぬ。なんでもかんでも勝負にしないでくださいませ」
遠野が大きなため息をついて、他の女房たちに散らかった食べ物の片付けを指示する。
織衣のお腹がぐうっと鳴った。確かに、このままでは食事にありつけない。しかし、嫌なものは嫌なのだ。きっと惟人は自分が泣きつくことを待っているはずなのだから。
それで織衣がどうしたものかと悩んでいると、見慣れない女房が向こうからやって来た。
「あの、お取り込み中のところ申し訳ございませぬ。三乃舎の者にございます。折り入って、織姫さまにお頼み申したいことがあり参りました」
言って彼女は庭に散乱する食事の残骸を横目で見つつ、織衣たちに深く頭を下げた。
織衣と遠野は互いに顔を見合わせる。遠野は、織衣を背に隠すように前に出ると、怪訝な眼差しで三乃舎の女房を見た。
「なんでしょう? 織姫さまは、ここ数日体調が優れず伏せっていらっしゃいました。加えて、今日は見ての通りの有り様で」
「はい。そこは重々承知しております。ですが、幸姫さまをお助けいただきたいのです」
「助ける? ですから、今は取り込み中で──」
「遠野、部屋にお通しして。話を聞きましょう」
どうせ「体調が優れない」なんて、建て前上の理由であることは向こうも分かっている。それでもなお自分に会いに来たのだ。こちらも誠意をもって応じたい。
織衣が背後から遠野と三乃舎の女房に声をかけると、遠野はむうっと顔をしかめ、女房はほっとした表情を見せた。
従姉でもある咲子は、惟人とはすでに親しい間柄だ。しかし、二人を取り巻く環境はわりと複雑であることを織衣は遠野より聞いていた。咲子の父、柏親王の存在である。
柏親王は、血統第一主義で出自の低い者たちを軽んじている。母方の家柄が低い惟人が東宮になることを最後まで反対し、今でも反東宮派の筆頭として名を連ねている人物だ。
今回、咲子が御妻合わせに名乗りを上げたのも、惟人に対する牽制だとする声がある。皇女である咲子がいる限り、誰も正妃にはなれないからだ。
しかし、咲子を見る限り、そんな政治的な思惑など微塵も感じないというのが織衣の率直な感想である。初顔合わせでの姫君たちへの心配りといい、今の言動といい、彼女の振る舞いは皇女としての誇りと慈愛に満ちている。惟人にしても、咲子を信頼しているようだった。
「嫌がらせは、誰の仕業か分かったのかえ?」
「いいえ。台盤所の者に聞いてはみたものの、取りに来た者に渡しただけで顔も覚えておらぬとのことでした。余計な波風は立てたくありませんので、それ以上は調べておりませぬ」
「波風を立てたくないとは、織姫らしからぬ物言いだの」
「誰かを疑うは、性に合いませぬ。そもそも、お渡りが五乃舎だけというのが原因なので、東宮さまには他の姫君さまの元へもお渡りになるようお願いいたしました」
織衣が苦笑しつつ答えると、咲子がふふふと笑いを漏らした。
「なるほど、そこは織姫らしい」
「はい」
「とは言え、このままでは終わらぬな」
咲子が扇子をぱちりと閉じて、その瞳に剣呑な光を宿す。
織衣が「何を……」と言いかけたその時、四乃舎からわあわあと騒ぎ声が聞こえた。
「お待ちくださいませ!」
これは、珠緒の声だ。
あらためて御簾越しに四乃舎の様子をうかがう。すると、惟人が四乃舎を去ろうとしていて、それを珠緒が追いかけている。
「東宮さま、なぜです? まだ半時も経っておりませぬ」
「……それがどうした」
惟人は立ち止まり、半身だけをひねって振り返る。不快感をあらわにする惟人に対し、珠緒は必死である。
「お、織姫さまの元へは二時近くいらっしゃいました。二回目のお渡りの時も──それなりに長居されておりまする」
「いちいち五乃舎の様子を見ておるのか? 暇なことだな、四つの姫」
「四つではありません、珠緒です。織姫さまのことは、名前を呼んでいらっしゃったではありませんか」
「だからなんだ?」
惟人が小さく鼻を鳴らし皮肉げな笑みを浮かべた。
「織衣は必要があって、そう呼んでいる。そなたはその必要がない」
容赦なく惟人が言って捨てた。珠緒は言葉を失い、青ざめて下を向く。
二人のやり取りを見ながら織衣はぎりっと奥歯を噛み締めた。ついさっき、四乃舎に入っていく惟人を見て感じたもやもやが一気に消え失せる。
なんてひどい物言いを──。
惟人はやっぱり何も分かっていないし、反省もしていない。彼が望んでいるのは、最初から五人の姫の混乱だけだ。
「宮さま、少しここでお待ちくださいませ」
言って織衣は立ち上がった。他の姫君に会いに行けと言ったのは自分である。だとしたら、これは自分に対する当てつけだ。
しかしその時、咲子が静かに織衣の前に立ちはだかり、彼女の行く手を阻んだ。
「ならぬ。あれは、東宮さまと珠姫のやり取りじゃ。そなたが出る幕ではない」
「しかし──っ」
「言い争いの原因は、明らかにそなたぞ。何をどう取りなすと? 少なくとも珠姫は、そなたの仲裁など望んでおらぬ」
ぴしゃりと言われ、織衣は押し黙る。咲子の言うとおりだった。望まれていないのに自分が出ていけば、珠緒の面目をさらに潰すことになる。
惟人が、もう話は終わりとばかりに身を返して歩き始める。珠緒がその場に泣き崩れ、四乃舎の女房たちがおろおろと珠緒を抱きかかえた。
「まあ、普通はそうであろうが必死じゃの」
どこか冷めた声で咲子がよそ事のように言う。
織衣はただ見ていることしかできず、ぎゅっと袿を両手で握りしめた。
次の日になって、織衣の食事が再び捨てられた。誰かが「体調を崩した遠野の代わりに取りに来たと」と嘘をついて食事を持って行ったらしい。しかも今度は、五乃舎の庭にまき散らすという手際の良さである。片付けもこちらにやらせようという思いがありありと見て取れる。
「やり口が大胆かつ露骨になってきたわね」
「織姫さま、やはり四乃舎の女房たちが怪しいかと」
「まあ、そうかもしれないけれど。証拠もないし、四乃舎の女房のことは珠姫さまが律することだわ」
今日の四乃舎は、朝から五乃舎と同じように全て御簾が下ろされたままで中の様子を伺うことはできない。
隣で遠野が「うーん」と唸った。
「では、再び東宮さまにご相談なされてはどうでしょう? 前回の時のように一緒にお食事をされるとか」
織衣は、間髪入れず「嫌よ」と返した。
「東宮さまに泣きつくなんて真似、まるで負けを認めたようなものじゃないの」
「ですから、どうしてこの問題が勝ち負けになるのです。意地を張っても代わりの食事は簡単に出てきませぬ。なんでもかんでも勝負にしないでくださいませ」
遠野が大きなため息をついて、他の女房たちに散らかった食べ物の片付けを指示する。
織衣のお腹がぐうっと鳴った。確かに、このままでは食事にありつけない。しかし、嫌なものは嫌なのだ。きっと惟人は自分が泣きつくことを待っているはずなのだから。
それで織衣がどうしたものかと悩んでいると、見慣れない女房が向こうからやって来た。
「あの、お取り込み中のところ申し訳ございませぬ。三乃舎の者にございます。折り入って、織姫さまにお頼み申したいことがあり参りました」
言って彼女は庭に散乱する食事の残骸を横目で見つつ、織衣たちに深く頭を下げた。
織衣と遠野は互いに顔を見合わせる。遠野は、織衣を背に隠すように前に出ると、怪訝な眼差しで三乃舎の女房を見た。
「なんでしょう? 織姫さまは、ここ数日体調が優れず伏せっていらっしゃいました。加えて、今日は見ての通りの有り様で」
「はい。そこは重々承知しております。ですが、幸姫さまをお助けいただきたいのです」
「助ける? ですから、今は取り込み中で──」
「遠野、部屋にお通しして。話を聞きましょう」
どうせ「体調が優れない」なんて、建て前上の理由であることは向こうも分かっている。それでもなお自分に会いに来たのだ。こちらも誠意をもって応じたい。
織衣が背後から遠野と三乃舎の女房に声をかけると、遠野はむうっと顔をしかめ、女房はほっとした表情を見せた。

