宮内にある皇太子の居所は、東に位置することから、東宮御所と呼ばれている。そして、そこに住む皇太子自身も「東宮」と呼ぶのが習わしである。
その東宮御所が殿舎の一つ、春陽殿の広間から見える庭には、春の訪れを告げる梅の花が咲き乱れていた。ほんのり霞がかった青空を一匹のトンビが悠々と飛んでいる。
今の時期には少し早い「ピーヒョロロ」という鳴き声に誘われ、織衣は空を見上げてトンビの姿を目で追う。しかし、すぐにコホンと不機嫌な咳払いが聞こえ、彼女は慌てて前を向いた。
菱紋様が施された白い絹布の几帳で仕切られた広間には、織衣以外にも姫君が四人。全員が五衣小袿の準正装で、大袖の衣を何枚も重ね、紅や山吹、若紫などの色鮮やかな表着を羽織り、横一列に並んで座っている。
周囲に侍るのは、それぞれの姫君に仕える女房たち。そして、上座には色鮮やかな唐衣裳姿の典侍が立ってた。
「織姫さま」
桧扇で平手を打ち、典侍が不快感をあらわにした顔で織衣をにらむ。家柄はこちらが上だが、典侍は事実上の女官の筆頭となる役職なので、立場としては向こうが上だ。
「何やら空が気になる様子。私の話をお聞きになっておりますか」
「もちろんです、典侍さま」
織衣はにこりと笑い返す。織衣が注意されたことに対して、女房からクスクスと笑い声が漏れ聞こえてくるが、そこは気にせず無視をする。典侍が「なるほど」と片眉を上げた。
「では、あなたさまのお部屋はどちらになるかお分かりで?」
「部屋、ですか?」
笑い声がいっそう大きくなった。上の空で話を聞いていた者に答えられるものかといったところだろうか。
織衣は背筋を伸ばし萌黄の小袿の衿を正すと、まっすぐ典侍を見返した。
「典侍さま、ご心配には及びません。私は五乃舎でございましょう?」
織衣の答えに、周囲の笑い声がぴたりと止まり、典侍が苦虫を噛み潰したような顔をする。もっと慌てると思っていたらしい。
(おあいにくさま。そこまで気を緩めてはいないわ)
今ここに集められている姫君を見れば、自分が最も格下の殿舎であろうことは、織衣にも容易に想像がつく。それが分からないほど、世間知らずでもない。
典侍の質問をそつなくかわした織衣は、再び空を見上げた。
そもそもの始まりは、三日前。父親である近衛大将大伴時国が難しい顔で帰ってきて、織衣をすぐさま呼びつけた。
織衣が時国の部屋に行くと、小袿姿の母親と並んで直衣に烏帽子姿が不似合いな武骨なひげ顔が待っている。
「おお、織衣。そこに座れ」
「なんでございましょう?」
時国が指さす場所に座りつつ織衣は怪訝な顔を両親に向ける。母親が気まずそうに目をそらすので、あまり良い話ではないことが分かった。
武官として栄進してきた時国の部屋は質素で飾り気がない。壁際の太刀掛に安置されてある帝から下賜された刀が、唯一の装飾品である。
織衣が目顔で時国に先を促すと、彼は少しためらいがちに口を開いた。
「突然だが……、東宮御所に上がることが決まった」
「は、」
一瞬、時国の話かと織衣は思った。が、宮内の警護を統括する時国が、今さら東宮御所に上がるも何もない。だからすぐ、織衣はそれが自分の話であると思い至った。
「ええと、私の話ですね」
「それ以外に誰がおる」
「おりませんね」
念のために確認したのだが、即答されて織衣は苦笑した。すると時国は、やおら足を崩して片膝を立てると、そこに腕をどかりと乗せた。
「主上の勅命よ。悪いが、断れなんだ」
「一応、悪いと思ってくださっているので?」
「当然だ。男の側に大人しく侍るなど、おまえの柄じゃないだろうが」
仮にも愛娘に対し、大概な言い様である。
ただ時国の指摘はもっともなことだ。それで織衣が大きくうなずき返すと、時国はあごひげをさすりながら含みのある笑みを見せた。
「確かに柄ではない。ただまあ、内裏を知る良い機会でもある。行ってお役御免になって来い」
最初から「お役御免」の前提かい。織衣はじろっと父親を睨んだ。
「もう少し説明をいただきたく存じます。一体、なんの冗談でございますか」
「冗談ならもっと笑える。笑えんだろ、これは。繰り返すが、主上の勅命だ」
「と言いますと?」
「東宮の惟人親王は御年二十一。にも関わらず、まだ独り身で側妻の一人もおらぬ。それを心配された主上が、東宮御所に正妃候補となりえる姫君を住まわせ、『御妻合わせをする』と仰せになられた」
「なるほど……」
国の安定と世継ぎ問題は切り離せない話であるので、事情は十分に理解できる。しかし、巻き込まれた人間はたまらないなと織衣は思う。東宮本人にしても、親に勝手に動かれて、どう思っていることだろう。
いや、そもそも──。織衣は困惑しつつ時国に尋ねた。
「どうして私なのです。妃候補の姫君となれば、他にもふさわしい方がおりましょう」
「それが、ことはそう簡単ではないのだ。内裏の噂を知らんな」
時国が困り顔を返すので、織衣は首をかしげる。彼はため息混じりに言葉を続けた。
「無類の女嫌いでな。側仕えさえ近寄らせん。それでもと、無理やり女房の一人を差し向けたところ──」
「ところ?」
「刃をお向けなされた」
「は?」
それは嫌いが過ぎるというものだ。口をあんぐり開けて呆れる織衣の前で、時国は苦笑いを浮かべた。
「主上の意向で騒ぎ自体はうやむやにしたらしいが……。以来、噂を洩れ聞いた女房たちが怖がって誰も近寄らん」
「それはそうでしょう。そのような恐ろしい御方に誰が近寄りますか」
「そこでおまえなのだ。おまえは刃を向けられようと怯まない」
「いや、そうかもしれませんが……」
織衣は素直に頷くことはできない。言いたくはないが、これは皇統存続以前の問題で、東宮としての資質が問われる事態だ。条件を満たす姫君を東宮御所に集めたところで解決するとも思えない。
「父上、主上は本気で御妻合わせをなさるおつもりですか」
「そうだ。織衣、今おまえが心に思っていることは察しがつくが、そこは黙って飲み込んでおけ。それよりも、この機会をどう利用するかが肝要だ。妃候補は、おまえを含め全部で五人。当然ながら事情は知っての上だ。仮に誰かが妃として選ばれるのであれば、その人となりを知っておいて損はあるまい。誰が何を考え、どう動くのか。その目で見てこい」
最後は武人らしい挑むような顔をして時国が笑う。
東宮の気性を知ってなお了承した他の姫君を見てこいと、つまりはそういう意味だ。
(御妻合わせというのが不本意ではあるけれど……)
確かに、話としては面白そうである。織衣は両手をついて父親に笑い返した。
「承知いたしました。父上のおっしゃるとおり、このような機会がなければ内裏を見ることもありませぬゆえ」
こうして、織衣の東宮御所入りが決まったのである。
その東宮御所が殿舎の一つ、春陽殿の広間から見える庭には、春の訪れを告げる梅の花が咲き乱れていた。ほんのり霞がかった青空を一匹のトンビが悠々と飛んでいる。
今の時期には少し早い「ピーヒョロロ」という鳴き声に誘われ、織衣は空を見上げてトンビの姿を目で追う。しかし、すぐにコホンと不機嫌な咳払いが聞こえ、彼女は慌てて前を向いた。
菱紋様が施された白い絹布の几帳で仕切られた広間には、織衣以外にも姫君が四人。全員が五衣小袿の準正装で、大袖の衣を何枚も重ね、紅や山吹、若紫などの色鮮やかな表着を羽織り、横一列に並んで座っている。
周囲に侍るのは、それぞれの姫君に仕える女房たち。そして、上座には色鮮やかな唐衣裳姿の典侍が立ってた。
「織姫さま」
桧扇で平手を打ち、典侍が不快感をあらわにした顔で織衣をにらむ。家柄はこちらが上だが、典侍は事実上の女官の筆頭となる役職なので、立場としては向こうが上だ。
「何やら空が気になる様子。私の話をお聞きになっておりますか」
「もちろんです、典侍さま」
織衣はにこりと笑い返す。織衣が注意されたことに対して、女房からクスクスと笑い声が漏れ聞こえてくるが、そこは気にせず無視をする。典侍が「なるほど」と片眉を上げた。
「では、あなたさまのお部屋はどちらになるかお分かりで?」
「部屋、ですか?」
笑い声がいっそう大きくなった。上の空で話を聞いていた者に答えられるものかといったところだろうか。
織衣は背筋を伸ばし萌黄の小袿の衿を正すと、まっすぐ典侍を見返した。
「典侍さま、ご心配には及びません。私は五乃舎でございましょう?」
織衣の答えに、周囲の笑い声がぴたりと止まり、典侍が苦虫を噛み潰したような顔をする。もっと慌てると思っていたらしい。
(おあいにくさま。そこまで気を緩めてはいないわ)
今ここに集められている姫君を見れば、自分が最も格下の殿舎であろうことは、織衣にも容易に想像がつく。それが分からないほど、世間知らずでもない。
典侍の質問をそつなくかわした織衣は、再び空を見上げた。
そもそもの始まりは、三日前。父親である近衛大将大伴時国が難しい顔で帰ってきて、織衣をすぐさま呼びつけた。
織衣が時国の部屋に行くと、小袿姿の母親と並んで直衣に烏帽子姿が不似合いな武骨なひげ顔が待っている。
「おお、織衣。そこに座れ」
「なんでございましょう?」
時国が指さす場所に座りつつ織衣は怪訝な顔を両親に向ける。母親が気まずそうに目をそらすので、あまり良い話ではないことが分かった。
武官として栄進してきた時国の部屋は質素で飾り気がない。壁際の太刀掛に安置されてある帝から下賜された刀が、唯一の装飾品である。
織衣が目顔で時国に先を促すと、彼は少しためらいがちに口を開いた。
「突然だが……、東宮御所に上がることが決まった」
「は、」
一瞬、時国の話かと織衣は思った。が、宮内の警護を統括する時国が、今さら東宮御所に上がるも何もない。だからすぐ、織衣はそれが自分の話であると思い至った。
「ええと、私の話ですね」
「それ以外に誰がおる」
「おりませんね」
念のために確認したのだが、即答されて織衣は苦笑した。すると時国は、やおら足を崩して片膝を立てると、そこに腕をどかりと乗せた。
「主上の勅命よ。悪いが、断れなんだ」
「一応、悪いと思ってくださっているので?」
「当然だ。男の側に大人しく侍るなど、おまえの柄じゃないだろうが」
仮にも愛娘に対し、大概な言い様である。
ただ時国の指摘はもっともなことだ。それで織衣が大きくうなずき返すと、時国はあごひげをさすりながら含みのある笑みを見せた。
「確かに柄ではない。ただまあ、内裏を知る良い機会でもある。行ってお役御免になって来い」
最初から「お役御免」の前提かい。織衣はじろっと父親を睨んだ。
「もう少し説明をいただきたく存じます。一体、なんの冗談でございますか」
「冗談ならもっと笑える。笑えんだろ、これは。繰り返すが、主上の勅命だ」
「と言いますと?」
「東宮の惟人親王は御年二十一。にも関わらず、まだ独り身で側妻の一人もおらぬ。それを心配された主上が、東宮御所に正妃候補となりえる姫君を住まわせ、『御妻合わせをする』と仰せになられた」
「なるほど……」
国の安定と世継ぎ問題は切り離せない話であるので、事情は十分に理解できる。しかし、巻き込まれた人間はたまらないなと織衣は思う。東宮本人にしても、親に勝手に動かれて、どう思っていることだろう。
いや、そもそも──。織衣は困惑しつつ時国に尋ねた。
「どうして私なのです。妃候補の姫君となれば、他にもふさわしい方がおりましょう」
「それが、ことはそう簡単ではないのだ。内裏の噂を知らんな」
時国が困り顔を返すので、織衣は首をかしげる。彼はため息混じりに言葉を続けた。
「無類の女嫌いでな。側仕えさえ近寄らせん。それでもと、無理やり女房の一人を差し向けたところ──」
「ところ?」
「刃をお向けなされた」
「は?」
それは嫌いが過ぎるというものだ。口をあんぐり開けて呆れる織衣の前で、時国は苦笑いを浮かべた。
「主上の意向で騒ぎ自体はうやむやにしたらしいが……。以来、噂を洩れ聞いた女房たちが怖がって誰も近寄らん」
「それはそうでしょう。そのような恐ろしい御方に誰が近寄りますか」
「そこでおまえなのだ。おまえは刃を向けられようと怯まない」
「いや、そうかもしれませんが……」
織衣は素直に頷くことはできない。言いたくはないが、これは皇統存続以前の問題で、東宮としての資質が問われる事態だ。条件を満たす姫君を東宮御所に集めたところで解決するとも思えない。
「父上、主上は本気で御妻合わせをなさるおつもりですか」
「そうだ。織衣、今おまえが心に思っていることは察しがつくが、そこは黙って飲み込んでおけ。それよりも、この機会をどう利用するかが肝要だ。妃候補は、おまえを含め全部で五人。当然ながら事情は知っての上だ。仮に誰かが妃として選ばれるのであれば、その人となりを知っておいて損はあるまい。誰が何を考え、どう動くのか。その目で見てこい」
最後は武人らしい挑むような顔をして時国が笑う。
東宮の気性を知ってなお了承した他の姫君を見てこいと、つまりはそういう意味だ。
(御妻合わせというのが不本意ではあるけれど……)
確かに、話としては面白そうである。織衣は両手をついて父親に笑い返した。
「承知いたしました。父上のおっしゃるとおり、このような機会がなければ内裏を見ることもありませぬゆえ」
こうして、織衣の東宮御所入りが決まったのである。
