愛の境界線

「私ね」
美羽が、ふっと息を吐いた。
「今まで、むっくんがしてきたこと……知ってるの」
「……え?」
「全部」
その一言に、息が止まった。全部?僕がやってきたことを?
「鬱陶しく付きまとってきた男子とか、ずっと追いかけ回してきたストーカーとか。むっくんが対処してくれてたのも知ってる」
美羽は、拘束された手をちらりと見る。
「助かったよ。正直」
そして、ふわりと笑った。
「それに私、むっくんが作るクロワッサン、大好きなんだよね」
「……」
「だからさ」
美羽は少しだけいたずらっぽく笑った。
「むっくんのクロワッサン食べたくて、わざとゲームの録音音声を流したりしてたんだよ?」
「……え?」
「夜更かしして、寝坊したふりまでして」
頭の中が真っ白になった。
「……バレてた?」
僕がしたことが。全部。
「うん」
美羽はあっさり頷く。
「けっこう前から」
そんな。僕が気づかれないようにしていたことが。全部――。
「じゃあ……風見とのデートをOKしたのも?」
「ああ、それ?」
美羽がくすっと笑う。
「むっくんを揶揄うため」
「……え?」
「だって、風見くんって見るからに完璧でしょ?」
美羽は少しだけ呆れたような顔をする。
「誰にでも優しくて、かっこよくて、頭もよくて。ほんと、非の打ち所がない」
そこで一度、間を置いて。
「――つまらない男」
「……え?」
何を言っているんだろう。美羽は、あいつが好きだったんじゃないのか?僕は、ずっとそう思っていた。だから。だから、あんなに焦ったのに。
「まあ、脅しはしたみたいだけど」
美羽がちらりとこちらを見る。
「痛めつけなかったのは、ちょっとびっくりしたけどね」
「……」
「爪の一枚くらい剥ぐのかと思ってた」
ふふ、と笑う。
「どうして……そんなこと」
声が震えた。美羽は、少し首を傾げる。そして。
「だってさ」
ベッドに腰掛け、脚を組み直す。
「私、あんなつまらない男――」
ふわりと笑って。
「いっちばん、嫌いだから」
言葉が出なかった。
「誰にでもいい顔して、誰にでも優しくしてさ」
美羽は、少し面倒そうに息を吐く。
「桃子なんて、見るからに風見くんのこと好きなのに。私をデートに誘ってくるんだよ?」
「……」
「私の平穏、崩す気? って感じ」
だるそうに笑う。
「まだ五月だよ? クラス替えだって当分ないのに」
「……」
「女子のいざこざ、めんどくさいって知らないのかな」
初めて見る美羽だった。いつも、ふわふわと笑っている。誰にでも優しくて。穏やかで。可愛らしい。僕がずっと見てきた美羽とは、まるで違う。盗聴していた声とも違う。なのに。そんな彼女から目を逸らすことができなかった。
「……美羽?」
「あ、ごめんね」
美羽は、いつものように笑った。
「話、戻るね」
そして、僕を見つめる。
「私、むっくんのことは結構好きだよ」
「……!」
好き。その言葉だけで、心臓が跳ねる。
「だって、むっくん顔がいいから。私、むっくんみたいな人、タイプなの」
美羽が楽しそうに笑う。
「人間味があって。ちゃんとドス黒い感情も持ってて。それを必死に閉じ込めてるところとか……ゾクゾクする」
初めてだった。こんなふうに言われたのは。僕の中にある、誰にも見せたくなかった部分を。美羽だけが、楽しそうに見つめている。
「だから、むっくんが他の男の子を追い払ってるのも、まあ面白かった」
けれど。美羽は拘束具を揺らした。じゃらじゃら、と乾いた音が響く。
「でも、これはちょっとないかなー監禁はないよ。絶対ない」
美羽は笑っている。でも、その声ははっきりしていた。
「そんな、ただの依存体質のつまらない男に成り下がらないでよ…そんなむっくんには、ちょっとがっかり」
胸の奥に、冷たいものが落ちていく。僕は、美羽に嫌われたくなかった。怖がられたくなかった。なのに。僕が一番恐れていた言葉を、美羽はあっさり口にした。
「ねぇ」
美羽が立ち上がる。そして、僕のほうへ歩いてくる。
「これ、とって」
拘束具を指差す。
「……え?」
「監禁は、もう終わり」
そう言って、美羽は僕の前にしゃがみ込んだ。そして、少しだけ身体を屈める。唇が、僕のワイシャツの胸ポケットに触れた。
「……っ」
するり。胸ポケットから鍵を取り出す。そして、艶やかな唇から離れ僕の掌へぽん、と落とした。しゃりん。小さな金属音が響く。
「ほら」
美羽が笑う。
「開けて、むっくん」
僕は、言われるまま鍵を差し込んだ。カチリ。拘束が外れる。けれど。僕は動けなかった。頭の中が、まだ追いついていない。美羽はそんな僕を見下ろして。最後に、ふと思い出したように言った。
「ねぇ、むっくん」
「……なに?」
「現世でも来世でも、私を愛するって言ってたよね?」
「……うん」
「じゃあさ」
美羽が、いたずらっぽく笑う。
「もし来世、私が――デュビアだったら?」
デュビア?僕がわからない顔をしていると。
「ほらゴキブリみたいなやつ。そしたら、絶対好きにならないでしょ?」
そう言って。美羽は振り返った。
「じゃあね、むっくん」
ひらりと手を振る。そして、そのまま部屋を出ていった。僕は、一人残された部屋で。さっきまで美羽を縛っていた拘束具を見つめた。
――デュビア。もし、美羽がゴキブリだったら。
僕は。……どうするんだろう。