愛の境界線

――ふざけるな。ふざけるな、ふざけるな。そんなの、許されるはずがない。僕の中で、何かが音を立てて崩れていく。そうだ。美羽は騙されているんだ。きっと、あいつに何か弱みを握られている。そうに違いない。そう思わなければ、耐えられなかった。僕は家に戻ると、机の上に置かれたノートを開いた。そして、モニターに美羽のスマートフォンの画面を映し出す。ずっと前に仕込んだ追跡用のプログラム。メッセージの内容も、ある程度確認できる。日曜日。デートは今週の日曜日。
……そう。なら、調べればいい。クソ爽やかモドキの化けの皮を剥がしてやる。あんな、少女漫画のヒーローみたいな男に裏がないはずがない。二股。金目当て。身体目的。家族に言えない秘密。今まで美羽に近づいてきた男たちには、必ず何かあった。だから、今回も同じだ。――そう思っていた。けれど。
「……なんで?」
調べても、何も出てこない。家族にも優しい。友達にも優しい。先輩にも、後輩にも。困っている人がいれば自然に手を差し伸べる。勉強もできて、運動もできて、周囲からの信頼も厚い。探せば探すほど、何もない。おかしい。おかしいほどに、真っ白だった。
「そんなはず……ない」
僕はノートをめくる。けれど、どのページにも同じことしか書けない。――問題なし。――問題なし。……美羽に、こんな男が近づいたら。美羽が、この男を好きになったら。僕は――どうすればいい?


いつも脅しに使う倉庫の一角がある。古い椅子に男を縛りつけ、目隠しをしたまま三時間放置する。暗闇と静寂だけが続くその時間で、大半の人間は自分が何をされたのか分からないまま恐怖に飲まれ、心が折れる。スマホに文字を打ち込み、機械音声で問いかけた。『白雪美羽について知っていることを、なんでもいいから話せ』銀色のスプーンで首元をなぞる。その行動だけで男はびくりと肩を震わせ、すぐに口を開く。「ただのクラスメイトだよ。色白で目がぱっちりしてる。誕生日は……俺は別に好きじゃない。彼女が俺のこと好きそうだったから、とか……」早口で個人情報を並べ、適当な言い訳を重ねる。美羽を悪く言うやつには、爪を何枚か剥いでやった。僕はスマホに文字を打つ。
『白雪美羽に近づくな』その一言だけで、大抵の人間は泣きながら何度も頷く。倉庫を出たあと、彼らは決まって美羽を避けるようになる。怯えた目で道を変え、視線を逸らし、二度と彼女に関わろうとしない。
だから日曜日、僕は風見——“クソ爽やかモドキ”を連れてきた。椅子に座らせ、自由を奪う。これまで美羽に近づいた男たちにしてきた“警告”と同じ手順だ。脅せば、たいていの人間はすぐ折れた。泣いて謝り、二度と美羽には近づかないと約束する。それでよかった。美羽を守れるなら——それだけだった。
今回も同じだと思っていた。けれど、目の前の男は違った。拘束されているのに、クソ爽やかモドキは背筋を伸ばしたまま動じない。しばらくして、静かな声で言った。
「今日、待ち合わせしている人がいるんだ」
僕はスマホの機械音声で答える。
「助けを呼ぶつもりか?」
「そうじゃない」
クソ爽やかモドキは少しだけ考えてから、
「その人に、今日は行けないって連絡を入れさせてもらえないかな」
と言った。拍子抜けした。
「……助けを呼ばないのか?」
「それより、待たせたくないんだ」
「なら、俺が打つ。誰に?」
「白雪さん」
そして、俺は美羽にクソ爽やかモドキのふりをしてメッセージをおくった。
「それでこの白雪って誰?」
目隠しされながらも顔を上げる。
「……あんたの彼女?」
「違う」
迷いのない声だった。
「俺が片思いしている人だ」
胸の奥が、ざわついた。
「へぇ……」
僕は笑った。
「どんな子? 彼女のことを教えてくれたら、お前を解放してやるよ」
クソ爽やかモドキはゆっくり首を横に振った。
「教えられない」
「なんで?」
「彼女のことが大切だから」
まっすぐな声だった。
「まだちゃんと気持ちも伝えていないんだ。それに彼女がどう思っているのかもわからない。でも……彼女を危険に晒すようなことはしたくない」
僕は黙った。予想外だった。こいつは、怖がっているはずなのに。自分のことより、美羽のことを考えている。完璧で。非の打ち所がなくて。性格も、顔もいい。……美羽が好きになったら、どうする?いや。こんな男を好きにならない人間なんて、いるのか?胸の奥が、嫌な音を立てた。だから、言った。
「そんなに彼女が大切ならさ金輪際、彼女に近づくな」
クソ爽やかモドキが黙る。
「そうしたら、俺も彼女には何もしない。約束する」
しばらくして。小さく息を吐いた。そして、
「……わかった」
そう言った。僕はクソ爽やかモドキのスマホから白雪の連絡先を消した。
「手錠は、しばらくすれば外れる」
立ち上がる。
「じゃあな、クソ爽やかモドキ」
倉庫を出た。これでいい。これで、美羽は僕のそばにいる。――そう思った。

月曜日。クソ爽やかモドキは何事もなかったように学校へ来た。そして、美羽のところへ向かう。
「白雪」
「風見くん?」
「この前はごめん。急用ができてしまって」
少しだけ申し訳なさそうに笑った。
「それから……今後は、もう遊びに誘うことはできないんだ。ごめん」
「……え?」
美羽が目を丸くする。
「じゃあ」
それだけ言って、去っていった。美羽は、その背中をしばらく見つめていた。僕は少し離れたところから、その姿を眺めていた。……どうだったんだろう。がっかりした?悲しかった?それとも――。ほっとした?僕にはわからない。美羽は、何も言わなかった。ただ、小さく息を吐いて。
「……そっか」
そう呟いただけだった。