「もうつくねには使っていないのに、どうして木の芽があるんですか?」
私が尋ねると、《阿波灯》の店主は厨房の端へ目を向けた。
「別の料理に使うこともありますから」
「……本当ですか?」
しばらく黙ったあと、店主は小さく息を吐いた。
「昔からの客に頼まれたときだけ、前のつくねを出すんですよ。あと、賄いでたまに使うくらいです」
「お好きなんですよね。昔のつくね」
「好きかどうかなんて関係ありませんよ。売れなかったんだから」
その言葉は、不思議なくらい自分へ返ってきた。
私は料理人になりたかった。
けれど人を傷つけて、父から料理人には向かないと言われ、諦めた。
それでも出張へ来れば知らない店へ入りたくなる。昔食べた料理の味を覚えているし、変わっていれば理由を考えてしまう。
おいしいものを食べれば、誰かへ伝えたくなる。
直接言うのが怖いなら、文章にすればよかった。何度も読み返し、相手の事情まで考えてから言葉を選べる。
そうして《シノノメ》になった。
(私、料理を諦めたんじゃないんだ)
料理人になる夢を諦めただけで、料理を好きな自分はずっと残っていた。
「昔の料理に戻したって、客は帰ってきませんよ」
「戻せなんて無責任なことは、私も言えません」
思わず強い声が出た。
けれど今度は謝らなかった。
「駄目だったところがあるなら、直せばいいじゃないですか。今のお客さんに合わせた方がいいところだってあります。でも、一回うまくいかなかったからって、自分が好きだったものまで全部捨てる必要ないでしょう!」
店主が驚いた顔で私を見る。
「私も料理人になりたかったんです。料理が大好きだったのに、失敗して、人を傷つけて、向いてないって言われて……だから諦めました」
言葉が止まらなかった。
「でも全然諦められなかった。おいしいものを食べたら誰かに話したいし、味が変わったら理由を知りたい。もっとおいしくできるかもしれないと思ったら、考えずにはいられない。だからずっと食べて、ずっと書いてきたんです」
私は厨房の木の芽を指した。
「私、結局ずっと料理が好きだったんです。店主さんだって、本当にどうでもよくなったなら、こんなもの残してないでしょう!」
昼間聞いた陰口も思い出す。
私には足りないところがある。今日だって失敗した。
でも、足りないことと、好きな仕事を自分から捨てることは別だ。
「人気店のことも、売れるかどうかも、一回だけ忘れてください。店主さんは、阿波尾鶏をどう食べてもらいたいんですか?」
店主はしばらく黙ったあと、少しずつ答えた。
「皮は塩だな。脂がうまいから、高い温度で短く焼く。ももは昔のたれ。むねは早めに上げて、すだちと塩」
「つくねは?」
店主が木の芽を見る。
「……戻したいですね。ただ、昔より少し控えめに」
私は笑った。
「じゃあ、それを食べさせてください」
出来上がったのは、皮、もも、むね、つくねと、小さな澄まし汁を一つの膳へまとめた《阿波尾鶏 四味膳》。
最初に皮を噛む。
表面はぱりっとしているのに脂を落としすぎておらず、塩だけだから甘みまでよく分かる。
鳴門金時を使った芋焼酎を一口含んだ。
「……味わいました」
芋のふくよかな香りが、口に残った鶏の脂とよく合う。
口の中でほどけるように混ざって、さっきの皮の塩気までやわらかく包み込んでいく。思わず小さく息をつくと、その余韻がじんわりと喉の奥に落ちていった。
「……これ、すごくいいです」
「え?」
「おいしいです! 皮って脂がおいしいんですよ! 塩だけだからちゃんと分かります!」
ももには昔ながらの甘辛だれ。
「これは逆に濃くていいです! たれの向こうから、ちゃんと鶏の旨みが返ってきます!」
むねはすだちと塩。
柔らかな肉を噛むほど、淡い甘みが出てくる。
「むねって、こんなに甘かったんですね……!」
そして木の芽を戻したつくね。
甘辛いたれのあとから爽やかな青い香りが抜け、芋焼酎をもう一口飲むと、鳴門金時の甘い香りが残った。
「これです! 昔の《阿波灯》の香りです。でも強すぎないから、ちゃんと今の料理になってます!」
最後に澄まし汁を飲む。
「全部同じ鶏なのに、本当に全部違います!」
店主も皮から順番に食べていき、やがて箸を置いた。
「……たしかに、うまいな」
「どれがですか?」
「そりゃ、全部ですよ」
店主は少し照れたように笑った。
「久しぶりに、俺が食わせたい料理を作った。それが……こんなに嬉しいことだったなんて」
その言葉を聞きながら、私は芋焼酎をもう一口だけ飲んだ。
誰かに受け入れてもらえなかったからといって、好きだったものまで嫌いになる必要はない。
うまくできなかったなら、できるようになればいい。
私だって、まだ玲央さんのマネージャーを続けたい。
その気持ちまで、玲央さんのためという言葉で勝手に諦めるのは、もうやめようと思った。
翌朝。
東京へ戻る新幹線を待ちながら、私は岡山駅のホームでベンチに座っていた。
昨夜の芋焼酎のおかげで頭は少し重いけれど、気分は悪くない。
玲央さんは少し離れたところで飲み物を買っている。
「東雲さん」
突然聞こえてきた声に顔を上げた瞬間、二日酔いが吹き飛んだ。
「く、黒瀬さん!?」
黒瀬さんがギターケースを背負って立っていた。
「昨日はどうも。同じ新幹線みたいですね」
「そ、そうみたいです!」
昨日より普通に返事ができた。
たぶん。
「そういえば、昨日ちょっと気になってたんですけど」
「はい?」
「東雲さん、《シノノメ》ってグルメライター知ってます?」
今度こそ心臓が止まりかけた。
「な、なんででしょう……?」
「俺、地方に行くとこの人の記事参考にすること多いんですよ。店が何を大切にしてるかまで書いてあって、読んでると本当に食べることが好きなんだなって分かるから」
十年以上応援してきた人の口から、自分の文章への感想が出てくる。
現実感がなかった。
「知り合いの出版社にも《シノノメ》のファンがいて、書籍とか連載を頼みたいらしいんですけど、本人と連絡取れないみたいで」
「そ、そうなんですか……」
「それで、昨日の東雲さん見てたら料理にずいぶん詳しいし、名前も同じシノノメでしょう?」
黒瀬さんが少し笑う。
「もしかして本人だったりするのかなって」
「ち、違います!」
反射的に否定していた。
「あ、違うんだ」
「違います違います! 全然!」
言い切ってから胸が痛む。
せっかく自分の好きなものから逃げないと決めたのに、これだけはまだ言えない。
けれど黒瀬さんは特に疑う様子もなく、
「残念。もし知り合いだったら、連絡取れないかなと思ったんですけどね」
と笑った。
ホームに新幹線到着の案内が流れる。
黒瀬さんが「じゃあ、またどこかで」と離れようとした。
今言わなければ、次はいつ会えるか分からない。
「あ、あの、黒瀬さん!」
振り返った黒瀬さんへ、私は頭を下げた。
「私、十年以上ずっとファンです。つらいときも、何度も黒瀬さんの歌を聴いてきました。これからも応援しています!」
やっと言えた。
顔を上げると、黒瀬さんは少し驚いていた。
そして、じっと私の顔を見る。
「ああ……やっぱり」
「え?」
「ライブ、よく来てくれてましたよね?」
「…………はい?」
「前の方にいたことも何回かあったでしょう。俺、顔覚えてましたよ」
しばらく意味が理解できなかった。
理解した瞬間、膝から力が抜けそうになった。
「お、覚えて……?」
「十年以上なら、そりゃ何度も会ってますよね」
黒瀬さんが笑って、右手を差し出す。
「これからも応援よろしくね」
「は……はいっ!」
握手した。
本物の黒瀬さんと。
十年以上応援してきた人と。
「じゃあ、また」
「はい!」
黒瀬さんが手を振り、別の乗車口へ歩いていく。
私はその背中が見えなくなっても動けなかった。
(生きててよかった……)
「ずいぶん大げさだね」
「ひゃあっ!?」
いつの間に戻ってきたのか、玲央さんが私の横に立っていた。
片手にはコーヒー。
こちらを見る切れ長の目は、かなり呆れている。
「昨日から変だと思ったら、そういうことだったんだ」
「す、すみません……。次からは絶対、仕事に影響させないようにします!」
「そこは本当にお願い」
「はい……」
しゅんとしていると、玲央さんが少し黙った。
「それでさ。昨日、なんかあったでしょ」
「え?」
「俺が聞いてもずっと『何でもありません』って言ってたやつ」
逃げようとして、やめた。
もう本音を隠さないと決めたのだから。
「……私、聞いてしまったんです。昨日、スタッフさんたちが話しているのを」
昼間の廊下で聞いたことを伝えた。
玲央さんが売れ始めていること。
もっと経験のあるマネージャーをつけた方がいいのではないかと言われていたこと。
「それで私も、玲央さんのためなら担当を替わった方がいいのかなって思いました」
玲央さんの顔がわずかに険しくなる。
「でも、やめました」
「何を?」
「勝手に諦めるのをです」
私は玲央さんを見る。
「私、まだ足りないところがたくさんあります。昨日だって失敗しました。でも、できないなら直します。もっと勉強します」
少し緊張したけれど、今度は視線を逸らさなかった。
「私、玲央さんのマネージャーを続けたいです。玲央さんがこれからもっといろんな仕事をするところを、一番近くで支えたいです」
玲央さんは一瞬、目を見開いた。
そのあと、少しだけ横を向く。
「……それ、もっと早く言えばいいのに」
「え?」
「事務所から俺にも担当変更の相談、来てたから」
「ええっ!?」
「断ったよ」
「ど、どうしてですか?」
聞いた瞬間、玲央さんが呆れたようにこちらを見る。
「それ聞く?」
「だ、だって気になります!」
「俺は詩野さんがいいから」
あまりにもさらっと言われて、今度は私の方が固まった。
「……本当ですか?」
「嘘つく理由ないでしょ」
「よかったぁ……」
全身から力が抜ける。
「そんなに?」
「だって昨日からずっと怖かったんですよ!」
「だったら俺に聞けばよかったじゃん」
「それができれば苦労してません!」
「そこはこれから直して」
「はい……頑張ります」
玲央さんは呆れながらも、口元だけ少し緩んでいた。
新幹線がホームへ入ってくる。
「ほら、帰るよ」
「あっ、はい!」
玲央さんが先に歩き出す。
私はトートバッグを肩へ掛け直し、そのあとを追った。
黒瀬さんには覚えてもらえていた。
玲央さんからは、私がいいと言ってもらえた。
そして私は、自分からこの仕事を続けたいと言えた。
昨日までより少しだけ、ちゃんと前を向いて歩けそうだった。
「あ、そうだ」
玲央さんが急に振り返る。
「はい?」
「さっき黒瀬さんが話してた《シノノメ》」
心臓が跳ねた。
玲央さんが、じっと私を見る。
「あれって詩野さんでしょ」
「…………え?」
――そして、この一言が、まだ続く波乱の幕開けになることを、この時の私はまだ知らなかった。


