「詩野さん、今日ずっとそれ見てない?」
「えっ?」
徳島市内のイベントホール、その関係者控室で、私は手元の進行表から顔を上げた。
向かいでは玲央さんが衣装のジャケットへ腕を通している。今日は音楽イベントへのゲスト出演なので、普段の旅番組より少し華やかな衣装だ。
「朝から何回確認した?」
「念のためです。今日は絶対に失敗できませんから」
「いつもは失敗していいみたいに聞こえるけど」
「そ、そういう意味じゃありませんよ!」
動揺しつつ、再び進行表に視線を移す。
普段以上に慎重になっている理由。
それは今日の共演者に、人気ロックバンド《オーバーグロウ》がいるからである。
そして、そのボーカル兼ギターである黒瀬遼一さんは。
(十年以上、ずっと応援してる人なんだから……!)
二十代のころ、料理人になる夢を諦めて落ち込んでいた時期も、慣れない東京で働き始めたころも、仕事へ行くのがつらい朝も聴いてきた。
そして四十二歳になった今も黒瀬さんはステージに立ち続けている。
(はぁ、そんな最推しに会えるなんて……って、いけない。今は仕事中、私は玲央さんのマネージャー……!)
「顔怖いけど」
「集中しているんです!」
「何に?」
「仕事にです!」
そこだけは胸を張って答えた。
ところが出演者同士の顔合わせで、その決意は開始三分で崩れかけた。
「天城くん、今日はよろしく」
「こちらこそ、よろしくお願いします!」
黒瀬さんは黒いシャツの袖を肘までまくり、年齢を重ねた落ち着きがあるのに、ステージ写真で見るよりずっと気さくに笑った。
玲央さんが挨拶を終えると、その視線が私へ向く。
「マネージャーの東雲さんですね。今日はよろしくお願いします」
「じゅっ……!」
十年以上ファンです、と続きそうになった。
「……本日はよろしくお願いいたします!」
危なかった。
本当に危なかった。
私は担当タレントの顔合わせで何を告白しようとしているんだ。
(集中しろ、私……!)
幸か不幸か、それからの黒瀬さんはとても忙しそうで、個人的に話す機会はなかった。
なのに、廊下を歩く姿が視界へ入れば目で追ってしまう。
少し離れた場所から声が聞こえるだけで、そちらへ意識が向く。
「詩野さん、水」
「はい!」
玲央さんへ差し出そうとしたペットボトルが手から滑った。
ごとん、と床へ転がる。
「……何してんの?」
「すみません!」
「今日、なんか変じゃない?」
「そ、そうでしょうか?」
「ずっと落ち着かないけど」
「何でもありません!」
即答すると、玲央さんはしばらく私の顔を見てから、
「……変なの」
とだけ言った。
その後も私はやらかした。
ステージ進行が一部変更になり、玲央さんの待機場所も変わったのだけれど、その連絡を伝えるのが普段より少し遅れた。
本番には間に合った。
玲央さんにもスタッフにも迷惑はかけていない。
それでも、自分には分かる。
(今日は何やってるんだろう、私……)
高知では、ディレクターへ玲央さんの見せ方について自分から意見を言えた。
少しくらいは変われていると思ったのに。
自分の意見を言えることと、仕事ができることは別なのだ。
休憩時間になり、私は頼まれていた資料をスタッフルームへ届けた。
その帰りだった。
「今日いる天城くん、かなり売れてきたよね」
関係者用通路の角を曲がろうとして、足が止まった。
話しているのは、以前の現場でも何度か顔を合わせた四十代の女性マネージャーと、イベント制作のスタッフだった。
彼女は今日も急な進行変更へすぐ対応し、担当タレントへの連絡もスタッフとの調整も迷いがない。
私とは全然違う。
「今回も現場慣れしてますよね。まだ若いのにしっかりしてる」
「本人はちゃんとしてるよね。ただ……」
立ち聞きするつもりなんてなかった。
そのまま離れればよかった。
「マネージャーさんは、ちょっと頼りないかな」
身体が動かなくなった。
「今日も何回かバタついてたでしょう?」
「ああ、確かに」
「天城くん、これからもっと仕事増えると思うんだよね。今は本人がしっかりしてるから回ってるけど、大きい仕事が増えたら厳しくない?」
「スターリットも、そのうち替えるんじゃないですか?」
「二人体制でもいいと思うけどね。でも天城くんのこと考えたら、もう少し使える人をメインにつけてあげた方がいいんじゃない?」
資料を持つ指に力が入った。
「今かなり大事な時期でしょう。マネージャーの経験不足でチャンス逃したら、本人がかわいそうだし」
二人は笑っていなかった。
陰口を楽しんでいるわけでもない。
ただ仕事の話として、そう判断している。
だから、余計につらかった。
二人が去ってからもしばらく動けなかった。
(もっと使える人……)
今日だって、黒瀬さんがいるというだけで私は普段ならしない失敗をした。
玲央さんはこれからもっと売れるかもしれない。
もっと大きな仕事へ行くかもしれない。
その隣にいるのが、本当に私でいいのだろうか。
(玲央さんのためなら……私じゃない方が、いいのかな)
「詩野さん」
「はいっ!」
控室へ戻ると、玲央さんがこちらを見た。
「さっきから静かじゃない?」
「そうでしょうか?」
「なんかあった?」
「……何でもありません」
玲央さんの眉が寄る。
「今日、それ何回目?」
「え?」
「何でもありません、って」
言葉に詰まった。
聞けばいい。
私、本当にあなたのマネージャーでいいですか、と。
でも、もし玲央さんまで同じことを考えていたら。
「本当に大丈夫です。それより次の出番、予定どおりですから」
結局、私は仕事の話へ逃げた。
玲央さんは何も言わなかった。
ただ、本番へ向かうまで何度もこちらを見ていた。
◇
イベント終了後、出演者と主要スタッフは打ち上げ会場へ移動した。
場所は、徳島市内の老舗鶏料理店《阿波灯》というお店だ。
私も以前、一度だけ来たことがある。
ところが運ばれてきた大皿を見て、思わず目を疑った。
皮、もも、むね、つくね。
昔はそれぞれ別に焼かれ、部位ごとの味を楽しめたはずなのに、今はすべて濃い甘辛だれを絡めて山盛りにされている。
「すごい量!」
「これは酒進むなあ」
最初こそ盛り上がったものの、しばらくすると周囲の箸は少しずつ遅くなっていった。
私も一口ずつ食べる。
皮は脂が落ちすぎて硬い。むねは水分が少なく、もも肉の弾力や旨みも濃いたれの奥へ隠れている。
つくねまで同じ味だった。
「どう?」
隣の玲央さんが小声で聞いてくる。
「お肉自体はおいしいです。でも……これだと、せっかく違う部位なのに、全部同じ料理を食べているみたいです」
「俺もそんな感じした」
今度は迷わず言えた。
少なくとも、料理について感じたことまで隠すのは、もうやめたい。
「前はもっと、部位ごとに違う料理でしたよね?」
少し離れた席から黒瀬さんが店主へ声をかけた。
店主は苦笑する。
「よく覚えてますね」
近所に若者向けの人気店ができたらしい。
大盛りで、味が濃く、料理もすぐ出てくる。写真にすれば一目で豪快さが伝わる。
客を取られた《阿波灯》も量を増やし、味を濃くし、提供を早くするために部位ごとに焼き方を変えることもやめた。
つくねへ入れていた木の芽も、「香りが苦手」という客の声を受けて外したという。
話を聞いているうちに、私は思わず尋ねていた。
「店主さんは……今の料理を作りたかったんですか?」
店主の表情が険しくなる。
「作りたい料理だけ作って、店が潰れたら意味ないでしょう」
「でも……」
「客が食いたいものを出すのが商売なんですよ」
店主は空いた大皿を見た。
「俺が何を食わせたいかなんて、もう関係ない」
胸の奥が詰まった。
『天城くんのこと考えたら、もう少し使える人をメインにつけてあげた方がいいんじゃない?』
昼間の言葉が戻ってくる。
店主は、客のためだと言って、自分が作りたかった料理を諦めた。
私は、玲央さんのためだと言って、自分が好きになった仕事を手放そうとしている。
(……私も、同じことしてる?)
◇
打ち上げを終え、玲央さんをホテルの入口まで送った。
「詩野さん」
「はい」
「本当に大丈夫?」
一瞬だけ、答えに迷った。
「はい。おやすみなさい」
笑ってみせると、玲央さんは納得していない顔のままホテルへ入っていった。
一人になる。
(玲央さんのためなら、私じゃない方がいい)
そう思う。
その方が正しいはずなのに、胸の奥がずっと苦しかった。
私はしばらく歩いたあと、結局《阿波灯》の前まで戻ってきた。
「すみません。もう一度、食べさせてもらえませんか?」
今度は仕事ではなく、一人の客としてカウンターへ座った。
皮、もも、むね、つくね。
そして、鳴門金時を使った徳島の芋焼酎。
口へ含むと、やわらかな焼き芋の甘い香りが残る。
一口食べて、少し飲む。
昔の《阿波灯》の味と、今の料理を頭の中で重ねていく。
(あれって……)
その途中、厨房の端へ置かれた薬味が目に入った。
葱、大葉、すだち。
そして。
木の芽。
今のつくねには使っていないはずのもの。
若い客に嫌われて、やめたはずの香り。
「……本当にどうでもよくなったなら」
私は小さな木の芽を見つめた。
「なんで、まだ置いてあるんだろう」


