「――味わいました」
私が顔を上げると、八重さんは昔ながらの田舎寿司が載った皿へ目を落とした。
「八重さん、この料理に手を加えませんか?」
「昔の味に戻した方がいいってことかい?」
「いいえ。味は変えません」
「じゃあ、何を変えるんだい?」
「食べてもらうところまでです」
ひまりさんは、この田舎寿司を食べて嫌いになったわけではない。
五貫が並んだ皿を見た瞬間に、自分の知っている寿司とは違う、山菜なら苦手だと判断しただけだ。
「だから、最初から全部見せるのをやめませんか?」
旅館には、以前イベントで使った横長の仕切り箱が残っているという。私は五つの区画へ田舎寿司を一貫ずつ入れ、それぞれに小さな蓋をつけることを提案した。
「蓋には一番から五番まで番号をつけて、桂浜や仁淀川みたいな高知の場所を描くんです」
メモ用紙へ一文を書き添える。
《一番から順番に、高知を旅してください》
「中身が分からなければ、次は何だろうって開けたくなりませんか?」
「料理を隠すのかい?」
「隠すんじゃなくて、知りたくしてもらうんです」
一番は甘みがあって親しみやすいたけのこ。
二番は出汁の旨みが強いしいたけ。
三番はこんにゃく。噛めば出汁が染み出すけれど後味が穏やかなので、ここで一度舌を休ませる。
四番のみょうがで酸味を入れ、最後にもっとも土地らしい苦みのある山菜へ進む。
「味は昔のままです。でも順番があれば、いきなり山菜の苦みに挑戦するんじゃなくて、少しずつ高知の味へ進めると思うんです」
「そこまで用意して、誰も頼まなかったら?」
「だったら、一日十食だけにしませんか? 今の甘い田舎寿司も残して、こちらは食べてみたい人だけが選べるようにします」
私は少し考える。
「名前は……《土佐めぐり田舎寿司》とか」
「いいじゃないか」
「ほ、本当ですか?」
「でも昔の味なら、嫌いって言う客もいるよ」
「はい。全員には好かれないと思います」
以前なら、誰にも嫌われない答えを探していた。
でも、今回は違う。
「でも私は、このお寿司を一口も食べてもらえないまま下げられる方が、もったいないです。八重さんの山菜の苦みまで、ちゃんと食べてもらいたいです」
八重さんは少し驚いた顔をしたあと、ふっと笑った。
「じゃあ、やってみようか」
◇
一時間後。
窓際のテーブルには、あり合わせの器で作った試作品が置かれていた。
浴衣姿の私は地酒を横へ置き、一番の蓋へ手をかける。
「一番は桂浜ですね。中身は……」
ぱかっ。
「たけのこ!」
「知ってるだろ」
「知っていても楽しいんですよ!」
ほどよい歯ごたえを残したたけのこを食べ、二番へ進む。
しいたけ。
三番はこんにゃく。
「ああ、やっぱりこんにゃくがここにいるの、すごくいいです! 噛むと出汁は出てくるのに後味が強すぎないから、舌が一回落ち着くんですよ!」
「また急に喋るねえ」
「次のみょうがのためにも大事なんです!」
四番のみょうがは、はっきりした酸味で舌を切り替えてくれる。
そして五番。
「来ました、山菜!」
「だから中身知ってるだろうに」
山菜を噛むと、独特の青さとほろ苦さが広がった。そこへ地酒を一口含めば、その苦みが心地よく引いていく。
「おいしいです! 最初から五貫並んでいたら『どれを食べよう』で終わるのに、蓋があると次を開けたくなるんです! 今日行った場所を思い出したり、明日はどこへ行こうって考えたりもできます。食事の時間まで高知旅行になるんですよ!」
「はいはい。酒はそこまで」
「まだ半分あります!」
「だからだよ」
徳利を没収されてしまった。
少し残念だったけれど、目の前の器を見ているうちに、別のことが頭へ浮かんだ。
八重さんはずっと、中身を変えていた。
嫌われないように苦みを消し、酸味を弱くして、甘くした。
でも必要だったのは、本当の味を隠すことではなかった。
まず興味を持ってもらえるように、外側から届け方を変えることだったのだ。
ひまりさんもそうだ。
自分に似合う浴衣を選び、かわいく映る角度を考えて、自分が一番よく見える場所へ自分から立つ。
自分をよく見せようとすることは、自分を偽ることとは違う。
(私も……もう少しくらい、自分から見せてもいいのかな)
言いたいことがあるのに下を向いていたら、相手は私が何を考えているのか知りようがない。
田舎寿司と同じなのだ。
◇
翌朝。
「頭が……」
私は二日酔いの頭を押さえながら、ロビーで今日の予定を確認していた。
「東雲さん」
ディレクターに呼び止められる。
「お願いなんだけどさ! 天城くんと水城さん、もうちょっと距離近めでお願いね。カップル旅行っぽい感じが欲しいから」
「はい。玲央さんには伝えます」
一度、そこで終わりかけた。
でも私は顔を上げた。
「あの……一つだけ、いいでしょうか」
「ん?」
「昨日も拝見していたんですが、あまり近づけることを意識しすぎると、玲央さんが少し不自然になると思います」
口にした途端、緊張する。
それでも続けた。
「玲央さんは、作った感じより自然に話しているときの方が表情がいいので。シチュエーションだけ決めて、あとは二人に任せてもらった方が、いい画になると思います」
ディレクターは少し考えてから頷いた。
「なるほどね。じゃあ最初はそれでやってみようか」
「ありがとうございます」
「……詩野さん」
「ひゃっ!?」
振り返ると玲央さんがいた。
「いつからいました?」
「自然に話してるときの方が表情がいい、くらいから」
「ほとんど聞いてるじゃないですか!」
玲央さんは少し意外そうに私を見る。
「言えるんじゃん。自分の意見」
「……昨日、ちょっと勉強したので」
「酒飲んで?」
「田舎寿司を食べてです!」
「酒も飲んだんでしょ」
「それは否定しませんけど!」
玲央さんが笑った。
それから撮影が始まる。
ひまりさんが隣へ来ても、昨日のように無理に腕を組ませる指示は出なかった。
二人で川沿いを歩き、ひまりさんが好き勝手に土産物を覗き、玲央さんがそれへ突っ込む。
確かに、その方がずっと自然だった。
朝食の時間。
八重さんが、昨夜の案を形にした《土佐めぐり田舎寿司》を持ってきてくれた。
横長の器には五つの蓋が並び、それぞれに高知の景色と番号が描かれている。
「昨日の寿司?」
玲央さんが興味を示す。
「はい。味は昔ながらのものですけど、食べ方を変えてもらったんです」
「詩野さん、これ食べた?」
「食べました」
「うまかった?」
「おいしかったです」
今度は迷わなかった。
「じゃあ俺も食べる」
「え?」
「詩野さんがおいしいって言うなら、気になる」
玲央さんが一番の蓋を開ける。
「何これ、たけのこ?」
一口食べて、すぐに二番へ手を伸ばした。
「これはしいたけか」
三番のこんにゃくまで食べ終えるころには、もう私が順番を説明する必要すらなかった。
「ちょっと待って。それ面白いな」
通りかかったディレクターが足を止めた。
「カメラ回せる?」
予定になかった撮影が始まる。
玲央さんは構えることなく、四番のみょうがを食べた。
「お、酸っぱ。でも今のこんにゃくのあとだと、これくらいでもいいかも」
最後の山菜を口へ入れる。
「うわ、にっが!」
八重さんが声を上げて笑った。
「だから昔は残されたんだよ」
「でも嫌いじゃない。最後まで食べると、最初のたけのこもう一回食いたくなる」
玲央さんはそう言って、本当に一番の蓋があった場所を覗き込んだ。
昨日は一度も箸をつけられず、厨房へ戻された田舎寿司。
その料理を今、カメラが追いかけている。
「何それ?」
ひまりさんまで寄ってきた。
「昨日のお寿司? え、蓋開けるの? ちょっとかわいいじゃん」
昨日は料理を見ただけで断ったひまりさんが、自分から器を覗き込んでいる。
八重さんが笑った。
「一個だけでも食べてみるかい?」
「じゃあ、一番だけ」
ひまりさんは自分で蓋を開ける。
「たけのこなら、いけるかも」
一口食べると、ぱっと表情が明るくなった。
「あ、これなら好き」
「二番もどうだい?」
「んー、今日はいいかな」
ひまりさんはあっさり断った。
でも、しいたけが入っている二番の蓋を指先で軽く叩く。
「次来たら、こっちも開けるかも」
「それで十分だよ」
八重さんは満足そうに笑った。
その言葉を聞いて、私もようやく分かった気がした。
全員に、全部を好きになってもらう必要なんてない。
苦い山菜を好きになれない人がいてもいい。
昔ながらの味を選ばない人がいてもいい。
大切なのは、嫌われることを怖がって中身まで変えてしまうことではなくて。まず一つ目へ、手を伸ばしてもらうこと。
昨日は誰にも開けてもらえなかった蓋が、今日はもう二人の手で開けられている。
それだけで、この田舎寿司はちゃんと届いていた。


