「……味わいました」
そう口にすると、圭介さんが怪訝そうにこちらを見た。
「な、何をです?」
「圭介さん、先代の味を捨てたいわけじゃないですよね」
自分でも驚くほど、言葉はすんなり出てきた。
圭介さんの眉が寄る。
「昼間は、店を変えなきゃ親父と一緒に終わるって言ってましたけど……本当に嫌いなら、創作うどんにまで同じいりこ出汁を使わないと思うんです」
「それは、うちの店の味だからですよ」
「はい。だから変えられないんじゃないでしょうか」
圭介さんが黙った。
私はお昼に見た二つの丼を思い浮かべた。
「かけうどんは、先代の味へ近づけようとして、いりこを少し強く出しすぎています。でも創作うどんでは、出汁にはほとんど手を入れず、トマトやチーズを上へ乗せているだけです」
「……何が言いたいんです?」
「圭介さんの料理が、先代の料理の上に乗っているんです。これじゃ器に、ふたつのうどんがあるだけです」
言ってから、怖くなる。
また余計なことを言っているのではないか。
また、料理しか見ていないのではないか。
「偉そうに言うのう」
奥から声がした。
いつから聞いていたのか、先代が厨房の入り口に立っていた。
「昼間は料理人じゃないから分からんと言っとったのに、夜になったらずいぶん分かるようになったらしい」
「す、すみません。出過ぎたことを……」
反射的に頭を下げる。
「じゃあ、もう帰ればいい」
先代の言葉に、私は立ち上がりかけた。
その瞬間、昼間の玲央さんの声が蘇る。
『料理人じゃないから分からないって、逃げてるだけじゃないの』
痛かった。
だからこそ、まだ胸に残っている。
私は椅子へ座り直した。
「……私は料理人ではありません」
「なら」
「でも、自分が味わったことに、嘘をつくことはできません」
声は少し震えていた。
それでも、今度は謝らなかった。
「圭介さんは、野菜を焼くのがお上手です。昼間に見ていましたけど、トマトを火へ当てるときだけは迷いが一切ありませんでした。東京で覚えた料理を捨てる必要も、先代の出汁をそのまま守る必要もないと思います」
圭介さんが腕を組む。
「だったら、どうするんです?」
「長ねぎを焼いてみませんか」
「ねぎ?」
「はい。表面をしっかり炙って香りを出して、中には甘みを残します。それならいりこの出汁とも合いますし、圭介さんが身につけた火入れも生かせます」
昼間、創作うどんに添えられていたオリーブも思い出す。
「あと、オリーブオイルをたくさん使うのではなくて、実を細かく刻んで薬味にするのはどうでしょう。青い香りだけ少し足せれば、出汁の邪魔をしないと思います」
先代が鼻を鳴らした。
「うどんにオリーブだと?」
「香川県には小豆島もありますから」
「そういう問題じゃないわ」
「で、でも、おいしいかどうかは食べてからでも……」
「それ、昼間の俺にも言えたらよかったな」
先代に返され、何も言えなくなる。
圭介さんが吹き出した。
「親父、そのくらいにしろよ」
そして調理台へ向かう。
「一杯だけですよ。俺も気になるんで」
圭介さんの手際は、さすがと言う内容だった。
長ねぎは表面だけを香ばしく焼き、中の柔らかさを残す。出汁はいりこの量を少し抑え、油は使わず、小豆島産のオリーブの実を細かく刻んで添えた。
湯気の中に、いりこと焼きねぎの香りが混ざる。
普段から作っていたのでは、と思いたくなるほどの速さで一杯が出来上がった。
「……いただきます」
私は麺をすすった。
最初に出汁の旨みが広がり、噛んだねぎから甘みが出てくる。焦げる寸前の香ばしさがいりこの余韻を受け取り、そのあとで刻んだオリーブの青い香りが口の中を軽くしてくれた。
「ど、どうだ?」
圭介さんが少し不安げな表情でこちらを見てくる。
「……おいしい」
もう一口。
「おいしいです! これ、すごくいいです!」
「急に声でかくなったな」
先代が呆れているけれど、止められない。
「ねぎがすごい良い仕事をしてます! いりこの香りを消してないのに、そのあとをちゃんと引き継いでます。しかも中は甘いから、出汁の苦みが残らないんですよ!」
刻んだオリーブも一緒に食べる。
「ああっ、これもいい! オリーブが主張しすぎてないです。ほんの少し青い香りが入るだけで、もう一口いけます!」
圭介さんが笑った。
「昼間と本当に同じ人ですか?」
「同じです!」
「昼はほとんど喋らなかったのに」
「料理がおいしいときは喋れます!」
「それ、社会人としてどうなんです?」
「わ、私も困っています!」
先代も一口食べる。
私は息を止めて、その反応を待った。
しばらく黙っていた先代は、圭介さんへ丼を戻す。
「店で出すなら、毎日同じ味が出せるようにしろ」
「……親父」
それだけ言って厨房の奥へ戻っていく。
圭介さんはしばらく父親の背中を見ていたが、小さく笑った。
「正直に美味いって言えばいいのに。相変わらず、不器用だな」
「でも、ちょっとだけ嬉しそうでしたよ」
「それ、俺ですか? 親父ですか?」
「両方です」
そのあとお礼にと言って、圭介さんが地酒を追加で出してくれた。
これがいけなかった。
昼間に買った小瓶もまだ残っていたので、合わせればそれなりの量になる。
「この丼もいいですねえ。口が少し厚いから、出汁が熱すぎないです」
「そこまで見ます?」
「お箸もいいです! 持ったとき重すぎないし、麺が滑らない!」
「料理を褒めてくださいよ」
「暖簾もいいです!」
「もう店全部じゃないですか」
地酒が進むほど、昼間に溜まっていたものまで口から出てくる。
圭介さんと先代がまた、
「だから焼き方は俺が決める」
「昔のやり方に口出すな」
と言い合い始めたところで、私は徳利を置いた。
「親子喧嘩は、厨房の外でしてください!」
二人が黙る。
「出汁のいりこちゃんが泣きますよ!」
「いりこは泣かん」
先代が真顔で返した。
「この人、もう駄目だろ」
圭介さんの声を最後に、そこから先の記憶はかなり曖昧になっていった。
◇
翌朝。
ホテルの朝食会場で、私は味噌汁を前に死んでいた。
「……詩野さん、また?」
向かいへ座った玲央さんが、私の顔を覗き込む。
「お、おはようございます……」
玲央さんが水のグラスを私の前へ押してくる。
「飲んどきなよ」
「ありがとうございます……」
「あと胃薬いる?」
「持っています」
「そこだけ準備いいな」
反論する元気もない。
玲央さんはコーヒーを一口飲んだあと、昨日より少し低い声で言った。
「昨日のさ」
「はい?」
「逃げてるだけって言ったやつ」
私は顔を上げた。
玲央さんは私ではなく、手元のカップを見ている。
「実家のことも、詩野さんがなんで店継がなかったのかも、俺は何も知らないわけじゃん」
「……はい」
「なのに勝手に決めつけた。悪かった」
思わず瞬きをする。
「玲央さんが……謝った」
「そこ驚く?」
「熱ありますか?」
「謝罪、今すぐ撤回していい?」
「す、すみません!」
「だからすぐ謝んなって」
いつものやり取りなのに、少しだけ違って聞こえた。
玲央さんは理由を聞かなかった。
私が料理人になれなかった理由も、父と何があったのかも。
ただ、知らないことを知らないままにして、踏み込みすぎたことだけを謝ってくれた。その距離が、今はありがたかった。
「……でも」
「何?」
「昨日の言葉、全部が間違っていたわけじゃないです」
「どういう意味?」
私は水を一口飲んだ。
「いえ。なんでもないです」
「何それ」
「乙女には秘密が多いんですよ」
「三十四歳でも?」
「そこは関係ありません!」
頭には響いたけれど、今度はちゃんと言い返せた。
玲央さんが少しだけ笑う。
私はその顔を見ながら、昨夜のうどんを思い出していた。
父親の味を守ることと、自分の味を作ることは、どちらか一つを選ばなければいけないわけではない。
圭介さんができたのなら。
いつか私も、父と料理の話をできる日が来るのだろうか。
まだ、その答えは分からなかった。


