「お父さんね、腰やっちゃったみたいなのよ」
「……え?」
香川県でのロケを翌日に控えた夕方、ホテルのロビーで母からかかってきた電話は、そんな一言から始まった。
私の実家は、地方で東雲という小さな和食屋を営んでいる。
電話の向こうからは食器の触れ合う音と、聞き慣れた母・美佐子の明るい声が聞こえていた。
「大丈夫なの?」
「大丈夫、大丈夫。ぎっくり腰の軽いやつだって。でも、あの人ったら休めって言っても厨房に立つのよ。六十三歳にもなって、頑固さだけは若いころのままなんだから」
「それ、大丈夫って言わないと思うけど……」
「でしょう? だから詩野が帰ってきてくれたら助かるんだけどなあ。ほら、出汁の味見だけでも」
「私が?」
「昔は毎日のようにやってたじゃない」
胸の奥が少しだけ重くなる。
確かに、子どものころから何度も味見をした。
父が取った出汁を小皿に入れてもらい、昆布が強い、鰹が弱い、今日は少し煮立てたでしょう、と好き勝手に感想を言っていた。
もう、ずいぶん昔の話だ。
「私はもう、料理人じゃないから」
「あら……」
「それに東京からすぐ帰れる距離じゃないし。今も出張中だから」
「そうよねえ」
母は明るく答えたが、少しだけ声が沈んだ。
その向こうから、
「美佐子、五番の吸い物!」
低い父の声が聞こえる。
「はいはい! もう、腰痛いんだから大声出さないの!」
母が電話口から離れた。
父が近くにいる。
そう分かっただけで、私はスマートフォンを握り直した。
けれど母が戻ってきても、
「お父さんと代わろうか?」
とは言わなかった。
父の方からも、私を呼ぶ声は聞こえない。
「じゃあ、仕事頑張ってね。玲央くんにもよろしく」
「なんで玲央さんの名前知ってるの?」
「娘の担当くらい調べるわよ。格好いい子ねえ」
「お母さん!」
慌てて通話を切ると、背後から声がした。
「実家、料理屋なの?」
「ひゃっ!?」
振り返ると、玲央さんが立っていた。
今日は撮影前なのでラフな黒いパーカ姿で、セットされていない髪が額へ少しかかっている。仕事中より年相応に見えるせいか、こういう格好の方が不意打ちには弱い。
「ど、どこから聞いてたんですか?」
「出汁の味見くらいから」
「ほぼ全部じゃないですか……」
「別に盗み聞きしたわけじゃないし。詩野さんの声、普通に聞こえてたから」
「すみません……」
「なんで俺に謝んの」
愛媛でも似たことを言われた気がする。
玲央さんは少し考えてから私を見る。
「で、実家が料理屋なら、詩野さんも料理できるの?」
「まあ、一応……手伝いくらいはしていました」
「継がなかったんだ?」
私は迷ってから、小さく笑った。
「継がなかったというより、継げなかったんです」
「……ふうん」
玲央さんの目が少しだけ細くなる。
それ以上聞かれそうな気がして、私は慌てて明日の予定表を開いた。
「それより、明日は七時半出発です。朝ご飯は七時までにお願いしますね」
「はいはい。逃げるの下手だね、詩野さん」
「な、なんのことでしょう?」
翌日の撮影場所は、三代続く讃岐うどん店《白波》だった。
昔ながらの木造店舗に白い暖簾が下がり、店内にはいりこと小麦の香りが漂っている。
ところが撮影開始前から、厨房の空気は穏やかではなかった。
「だから、昔ながらのかけうどんだけでいいんです」
自治体の担当者が言えば、番組ディレクターは首を振る。
「でも映像としては創作うどんも欲しいんですよ。トマトとチーズのやつ、見た目がいいじゃないですか」
現在の店主・圭介さんは四十歳前後で、短く刈った髪に白い調理着を着ている。東京のイタリア料理店で修業した経験があり、父親から店を継いでからは洋風の創作うどんにも力を入れているらしい。
その父親である先代は、厨房の奥から不機嫌そうに腕を組んでいた。
「こんなもん撮らんでええ」
圭介さんが用意していたトマトとチーズのうどんを見て、先代が吐き捨てる。
「こんなものは、うどんじゃない」
「だったら親父のうどんだけ出して、このまま客が減ってもいいのかよ」
「味を変えれば客が来るとでも思っとるのか」
親子喧嘩が始まった。
制作側はむしろ面白そうな顔をしている。
「これ、使えるな。伝統を守る父と革新を目指す息子、みたいな感じで」
私はその言葉を聞きながら、玲央さんの予定表を見た。
撮影する料理が一品から二品になり、親子の対談まで追加され、終了予定がどんどん後ろへずれていく。
「東雲さん、このあと一時間くらい押しても平気ですよね?」
「えっ。あ、そのあとの移動が……」
「次の現場、ちょっと後ろ倒しできません?」
「か、確認してみます」
電話を取り出したところで、横から玲央さんに手首を押さえられた。
「待って」
「玲央さん?」
「なんで全部、詩野さんが何とかすることになってんの」
「でも、撮影が延びるなら次の現場へ連絡しないと」
「休憩の時間は?」
「移動中に少し取れますから」
「俺じゃなくて、詩野さんの休憩時間のこと言ってるんだけど」
低い声で名前を呼ばれる。
「玲央さんのお仕事に影響が出ないようにするのが、私の仕事ですから」
「だから、そのために何でも引き受けんなって」
握られていた手首が離れる。
触れていた場所が妙に気になり、私はそこを反対の手で押さえた。
結局、撮影は両方のうどんを食べることになった。
最初は昔ながらのかけうどん。
透き通った出汁から、強いいりこの香りが立つ。
玲央さんは一口すすり、カメラへ笑顔を向けた。
「いりこの香りがしっかりしていて、これぞ讃岐うどんって感じですね」
次は圭介さんの創作うどんだった。
焼いたトマト、チーズ、ふんだんに掛けられたオリーブ。見た目は華やかだ。
けれど撮影が止まった瞬間、玲央さんは私へ小声で言った。
「これ、別々に食った方がうまくない?」
「……はい?」
「トマトはうまい。うどんもうまい。でも一緒になる意味、あんま分かんない」
言われてひと口、食べてみる。
……私も同じことを感じた。
かけうどんは、いりこの苦みが少し残るほど出汁が強い。
創作うどんは洋風の具材だけが上へ乗り、下の出汁とは別の料理になっている。
「詩野さんはどう思う?」
その問いに答える前に、厨房から怒鳴り声がした。
「だから余計なことをするなと言っとるんだ!」
「余計なことしなきゃ、この店は親父と一緒に終わるんだよ!」
先代と圭介さんだった。
私が思わずそちらを見ると、先代と目が合った。
「さっきから料理ばかり見とるが、あんたはどう思う?」
「わ、私ですか?」
「食べたんだろう」
急に意見を求められ、喉が詰まる。
「えっと、その……」
先代は私の迷いを見て、鼻を鳴らした。
「まあアンタには、どんだけ俺が店の味を大事にしてるか分からんか」
胸の奥を強く押されたような気がした。
昔の実家の厨房が、一瞬だけ頭に浮かぶ。
あれは調理師学校へ通っていたころだった。
親戚の叔父さんがウチの店に煮物を作ってきてくれたことがあった。
だけど私はその煮物を一口食べて、私は火が入りすぎている、香りが消えていると、そのまま口にしてしまった。
その料理が、亡くなった奥さんの味を再現しようとして作られたものだと知ったのは、そのあとだった。
叔父はしょんぼりして帰ってしまったきり、数週間後に交通事故で亡くなってしまった。
父は私へ言った。
『お前は料理しか味わっていない』
そして最後に、
『正しい舌があっても、人の心を傷つけるなら料理人には向かない』
そう告げた。
それから私は学校を卒業したきり、料理人の道から逃げてきた――。
「……私には分かりません」
気づけば、そう答えていた。
「私は、料理人ではありませんから」
撮影が終わったあと、玲央さんが追いかけてきた。
「さっきの何?」
「さっきの?」
「本当は何か思ってたでしょ」
「何も……」
「料理人じゃないから分からないって、逃げてるだけじゃないの」
胸が痛んだ。
でも、それを玲央さんへ説明することはできなかった。
「……そうかもしれませんね」
「あ……」
玲央さんが何か言いかける。
私は笑って頭を下げ、その場を離れた。
夜。
仕事を終えた私は、一人でホテルを出た。
商店街を歩いていると、小さな店先で揚げたての小えびの天ぷらを見つけた。
一つ買ってかじると、衣が軽く、小えびの香ばしさと塩気が口いっぱいに広がる。
「おいしい……」
それだけで少し気分が戻った。
酒店では香川の地酒の小瓶を一本買った。
知らない土地で、一人で好きなものを選んで歩く。
誰かの顔色を気にしなくていい、この時間だけは好きだ。
そして私はどうしても気になり、再び《白波》の暖簾をくぐった。
「この時間は仕込み中ですよ……って、お客さんは」
圭介さんが驚いた顔をする。
「すみません。この辺で飲んでいたんですけど、ちょっと気になって……」
――ぐぅ。
まずい、少し食べたせいか小腹が空いちゃったみたい。
「……なぁ、アンタ名前は?」
「し、東雲ですけど」
「東雲さん、アンタはアイドルのマネージャーで全国回ることが多いんよな」
「は、はぁ……」
まぁたしかに仕事柄、出張というかたちで色々なところを巡ることが多い。
「つまり、いろんな店の料理にも詳しいと
「えと、話の流れがいまいち分からないんですけど……」
「いま新しい試作を作ってるんだ。良かったら味見していくかい」
「良いんですか!?」
おもわず前のめりになってしまった。
圭介さんは気まずそうに頭をがりがりと掻いているけれど、この様子だと試行錯誤を重ねていたけれど、行き詰ってしまっている様子だった。つまり私のようなどこの馬の骨とも分からない女からでも、なにか光明を得たいと思っているんだろう。
(本当にうどんを愛しているんだろうなぁ。いや、先代のお父さんを尊敬しているからこそかな)
昼間は喧嘩していたけれど、本当に嫌いなら独立して店を開いているだろう。そうしないってことは、先代の味を引き継ぎたいという意志は本物だということ。
(しがないグルメライターだけど、私で協力できるなら……あと単純に食べたいっ!!)
食いしん坊としての本能がウズウズしてしまう。
さっそく私はカウンターへ座り、野菜の天ぷらと、持ち込んだ地酒も店の許可をもらって少しだけ飲む。
「またちょっと手を加えてみた。客として、正直な感想を聞かせてほしい」
創作うどん。
焼いたトマトは甘く、火入れも丁寧だ。オリーブの香りも悪くない。
なのに、その下には昼と同じいりこ出汁が、そのまま残っている。
圭介さんは父親の味を壊したいわけではない。
むしろ逆だ。
壊すのが怖いから、出汁には触れられない。
父の味は父の味のまま守り、自分が東京で覚えてきたものだけを、その上へ乗せている。
(分かります、その気持ち)
父の言葉が怖くて、料理から離れた私。
父の味を壊すのが怖くて、自分の料理を上に乗せ続ける圭介さん。
どこか少し、似ているのかもしれない。
私はもう一度、いりこ出汁を口へ含む
そのあと、焼いたトマトを食べる。
別々だった二つの味の間に、何を置けばつながるのか。
昼間、厨房で見た圭介さんの手元を思い出した
野菜を焼くときだけ、迷いがなかった。
私は箸を置いた。
そして、厨房の圭介さんへ顔を上げる。
「……味わいました」


