「――味わいました」
口にした途端、澄子さんがカウンターの向こうから身を乗り出した。
「分かったんですか?」
「た、たぶんですけど……」
「何が違うんでしょう」
さっきまでの勢いはどこへやら、期待に満ちた目を向けられると急に心細くなる。
私はもう一度、六年前の鯛茶漬けを思い出した。
「香りです。以前は今よりも、少しだけ香ばしい匂いが残っていたと思います」
「香ばしい……?」
「はい。鯛そのものではなくて、その奥から来るような……焼いた骨の香りに近かったような気がします」
澄子さんの表情が変わった。
「骨……」
「何か心当たりがありますか?」
「主人、鯛を捌いたあとの骨を焼いていました」
思わず顔を上げる。
「やっぱり……!」
「でも、出汁を取るためだったのかしら。私が聞いても『使えるものを捨てるな』くらいしか言わない人だったから」
料理人という人種は、なぜ大事なところを感覚で済ませてしまうのだろう。
いや、実家で料理屋をやってるうちの父も、人のことは言えないけれど。
澄子さんは奥から一冊のノートを持ってきた。
開かれたページには、鯛茶漬けの材料と分量が細かく書き込まれている。
鯛、練り胡麻、醤油、みりん、出汁。
「骨のことは書いてありませんね」
「そうなんです。だから私は、主人が残したものをそのまま量って作っていました」
澄子さんが唇を結ぶ。
「六年前に一度召し上がっただけで、そんなところまで覚えているものなんですか?」
「あっ……」
しまった。
「た、たまたま印象に残っていたんです。とてもおいしかったので」
嘘ではない。
私は一度食べた料理の味を、ほとんど忘れない。
けれど、それを口にするとろくなことにならないと知っている。
「す、すみません。私が勝手なことを……」
「いえ。私から聞いたんですから」
澄子さんはそう言ったものの、まだ迷っているようだった。
「でも、主人がやっていたなら、同じように骨を焼けば戻るということですよね?」
「それは……」
私は首を横へ振った。
「たぶん、同じにはしない方がいいと思います」
「どうして?」
「澄子さんのお出汁がおいしいからです」
ぽかんとされてしまった。
「今日いただいた出汁は、六年前より柔らかくて、後味が澄んでいました。ご主人のお出汁はもう少し力強くて、だから焼いた骨の香りがよく合っていたんだと思います」
昔と同じ香ばしさをそのまま戻せば、今度は澄子さんの出汁が負けてしまう。
それでは夫の味を再現できても、澄子さんの料理ではなくなる。
「でしたら……鯛の皮だけ、軽く炙ってみませんか?」
「皮を?」
「はい。骨ほど強い香りにはならないので、今のお出汁にも合わせやすいと思います。それと胡麻だれを、ほんの少しだけ軽くして……」
そこまで言ってから、自分が急に喋りすぎていることに気づいた。
「あっ、もちろん素人の思いつきなので!」
「さっきまでと別人みたいですね」
「え?」
「料理の話になると、全然つっかえないから」
「そ、そうでしょうか……」
恥ずかしくなって、私は地酒を一口飲んだ。
澄子さんはしばらく考えていたが、やがて袖をまくった。
「一杯だけ、作ってみましょうか」
「えっ、今からですか?」
「気づいたら試したくなるのが料理人です」
その言葉に、胸の奥が少しだけ痛んだ。
私も昔は、そうだったっけ……。
最初の一杯は、皮を炙りすぎた。
香ばしさは戻ったものの、焦げた苦みが澄んだ出汁を覆ってしまう。
「もう少し短くてもいいかもしれません」
二杯目は胡麻だれを薄くしすぎて、鯛の脂を受け止められない。
「これは私が減らしすぎました……」
「ふふ。ちゃんと失敗するんですね」
「しますよぅ!」
三杯目。
皮目は表面がわずかに色づく程度に炙り、胡麻だれは最初よりほんの少しだけ軽くした。
澄子さんが熱い出汁を注ぐ。
立ち上った香りを吸い込んだ瞬間、背筋が伸びた。
一口目は鯛だけ。
炙った皮の香ばしさが先に届き、そのあとに身の甘みが広がる。
続いて胡麻だれを絡める。濃厚さは残っているのに、前より鯛の味がよく分かる。
最後に出汁を注いで、米ごと口へ運んだ。
「……おいしい」
自然と声が出た。
「おいしいです、澄子さん!」
「ほ、本当?」
「はい! 鯛と出汁が、最初から隣にいます。どちらかが追いかけてくるんじゃなくて、ちゃんと一緒に口へ入ってくるんです!」
もう一口。
止まらない。
「胡麻もいいです! 前は少し強かったんですけど、今は鯛の甘みを後ろから支えています。出汁も最後までちゃんと分かりますし、炙った皮の香りが消えるころに出汁の余韻が残って……ああ、これです! もう一口食べたくなる終わり方です!」
澄子さんが目を丸くしている。
「ご主人の味とは違います。でも、私はこっちも好きです」
私は椀を両手で持った。
「これは、ご主人の鯛茶漬けを真似したものじゃありません。澄子さんの鯛茶漬けです」
澄子さんは何も言わなかった。
ただ、少ししてから目元を押さえ、奥から別の徳利を出してきた。
「これ、地元のお酒なんです。よかったら」
「えっ。い、いただきます」
断る理由はなかった。
そこから先は、少しだけ記憶が怪しい。
「このお猪口、口当たりが薄くていいですね!」
「そうですか?」
「箸置きも鯛ですよ! かわいい! こういうところ大事なんです! あとこのお水、おいしいです!」
「水まで褒めます?」
「お酒がおいしいお店はお水も大事なんです!」
気づけば二合目へ突入していた。
翌朝。
「詩野さん、顔やばいけど」
「……お、おはようございます」
《汐路》の撮影前、私は控えスペースの椅子で胃薬を飲んでいた。
「昨日何してたの?」
「愛媛の文化を……勉強していました」
「酒の文化?」
「幅広い意味では……」
玲央さんが冷たい目を向けてくる。
でも撮影が始まると、その目は鯛茶漬けを一口食べた瞬間に大きく見開かれた。
「うまっ」
台本にない声だった。
もう一口食べた玲央さんは、今度は自分からカメラへ向く。
「最初に鯛の香りが来るのに、最後は出汁が全部まとめてくれるんです。これ、食べ終わるのがもったいないですね」
ディレクターが満足そうに頷く。
一度でOKが出た。
撮影後、玲央さんは店を振り返りながらスマートフォンを取り出した。
「なんか意外だった」
「な、何がですか?」
「ここ、昨日の夜にレビュー見たんだけど、最近は『昔より味が落ちた』って書いてる人もいたから」
心臓が嫌な跳ね方をした。
「でも六年前の記事だと、《シノノメ》ってライターがめちゃくちゃ褒めてるんだよね」
「ぶっ」
「何?」
「な、何でもありません!」
玲央さんが画面をこちらへ向ける。
そこに表示されていたのは、六年前に私が書いた記事だった。
「この人、鯛の香りとか出汁の余韻とか、すげえ細かく書いてるんだよ。今日食ったやつ、この記事の感じにちょっと近くない?」
「そ、そうなんですねぇ……」
「知ってる? 《シノノメ》」
「お、お名前だけは……」
「食べ物好きなら知ってるかと思って」
「私はそんな、詳しくは……」
必死に平静を装う。
幸い玲央さんは、それ以上追及しなかった。
ただスマートフォンをしまう前に、私の顔を一度だけじっと見た。
その日の移動前。
「あれ。衣装は?」
「はい?」
「次の現場の衣装」
私は車内を見る。
ない。
「……控室です」
「はあ……」
「ご、ごめんなさい!」
「だから全力で謝んなって」
玲央さんは自分で衣装ケースを取りに戻ろうとする。
「あっ、私が持ちます!」
「いいよ。男の俺が持った方が早いだろ」
「でも……」
「昨日飲みすぎた三十四歳は座ってて」
玲央さんが呆れたように笑った。
「……やっぱり頼りねえマネージャー」
その言葉に、私は何も言い返せない。
ただ、玲央さん呆れ声には、どこか優しさの温かみがあった。


