オンエアされなかったおひとり様グルメ~頼りないアイドルマネージャーは、地方の名店をこっそり救う~


「詩野さん、水ちょーだい」
「は、はい。常温ですよね」

 愛媛県に着いてまだ一時間も経っていないというのに、私は早くも担当アイドルから呆れられることになった。

 私は東雲(しののめ) 詩野(しの)、三十四歳。芸能事務所《スターリットプロモーション》でマネージャーをしている。

 そして目の前でペットボトルを受け取った青年が、現在の担当タレントである天城(あまぎ) 玲央(れお)さん。二十一歳の男性アイドルで、最近は地方の情報番組や観光PRにも呼ばれるようになってきた売り出し中の子だ。


「……ねぇ、これ。冷たいけど」
「えっ」

 触ってみると、しっかり冷えていた。

「す、すみません! 常温の方も買ったはずなんですが」
「もういい。これ飲むから」

「でも、喉が冷えたら午後の収録に……」
「そこまで弱くないって」

 青みを入れた黒髪は朝からきれいに整えられ、淡いブルーのジャケットもよく似合っている。カメラの前なら爽やかな若手アイドルそのものだが、私と二人になると口調は途端に雑になる。

「次から気をつけます……」
「前も同じこと言ってた気がするけど?」

「す、すみませんっ!」
「いーよ。別にそこまで気にしてないし」

 玲央さんの口元が少し緩む。

 最初のころは嫌われているのだと思っていたけれど、最近はスタッフの前で愛想を振りまいた反動を、私の前で抜いているだけらしいと分かってきた。

 それを少しうれしいと思ってしまうあたり、私も単純だ。


 目の前には、白い展望デッキと、その向こうに穏やかな瀬戸内海が広がっていた。

「わあ……」

 思わず声が漏れる。

 今回のロケ地《瀬戸内テラス》は、海を眺められる足湯、愛媛の柑橘や菓子を扱う土産物店、地元の魚介を使った飲食店などを集めた新しい複合観光施設だ。

 遊歩道では柑橘ソフトを手にした家族連れが歩き、海からは心地よい潮風が吹いてくる。

 仕事でなければ足湯に浸かって、そのあとで何を食べるか一時間くらい悩みたかった。


「詩野さん、顔」
「え?」

「観光客の顔になってる」
「だ、だって、すごく景色がきれいなので……」

「仕事で来てるんですけど」
「分かっていますよぅ」

 玲央さんは呆れながらも、呼びに来たスタッフへ向き直った瞬間、表情を切り替えた。


「おはようございます。今日はよろしくお願いします!」

 さっきまで私へ文句を言っていた人とは思えない爽やかな笑顔だった。

 玲央さんは仕事に手を抜かない。

 短い地方ロケでも事前に資料へ目を通し、土地の名物や店の名前を覚えてくる。喉や肌の状態にも気を遣い、カメラの前へ立つときは必ず一番いい自分を作ろうとする。

 だから私も、その邪魔だけはしたくない。
 私は人前へ出るのが苦手だけれど、誰かがちゃんと輝けるよう、その後ろで準備をする仕事は好きだった。

 今回の四国観光キャンペーンも、売れ始めた玲央さんには大切な仕事だ。評判がよければ、今後もっと大きな観光番組へ呼んでもらえるかもしれない。


「オープンしたころは、ものすごかったんですけどねえ」

 撮影準備を待っていると、施設の担当者がディレクターと話している声が聞こえてきた。

「最近、ちょっと客足が落ち着きすぎてまして。景色だけ見て帰る方も多いんですよ」

「飲食店もですか?」

「ええ。地元の名店にも何軒か入っていただいたんですが、思ったほどリピーターにつながらなくて。今回の番組をきっかけに、もう一度盛り上がってくれればと思ってるんです」

 新しい観光施設なのに、もう客足が落ち始めている。

 少し気になったけれど、私はマネージャーだ。
 今日の仕事は玲央さんの予定と体調を管理することで、施設の経営を考えることではない。


「東雲さんって三十四歳なんですよね」

 今度は近くにいた若い女性スタッフから話しかけられた。

「は、はい」
「三十四歳って、もうアラフォーでしたっけ?」

「ま、まだギリアラサーです。えへへ……」
「あ、ギリなんですね」

 相手が笑うので、私も笑ってしまう。
 スタッフが離れた直後、いつの間にか戻ってきていた玲央さんが不機嫌そうに言った。

「なんで笑うの?」
「え?」

「嫌だっただろ」
「まあ……ちょっとだけ」

「じゃあ怒ればいいじゃん」
「でも、変な空気になったら玲央さんも仕事しづらいでしょうし……」

「お前、なんでも俺のためって言えば済むと思ってない?」

 図星を刺され、私は黙る。


「嫌なときくらい、自分のために嫌って言えば?」

 口は悪いし、私には遠慮がない。
 それなのに、こういうときだけ私より先に怒るから困る。

 これで顔までいいのだから、ときどき心臓に悪い。

 もちろん十三歳も年下の担当アイドルへ妙な勘違いをするほど若くはない。

 ……たぶん。



 最初の撮影場所は、施設内に出店した老舗割烹《汐路》だった。

 移転前には、私も一度訪れたことがある。
 ところが一行が店へ着くと、客席は一般のお客さんで埋まっていた。

「撮影ですか? 今日は聞いておりませんけど……」

 店の奥から現れた女将の澄子さんが戸惑った顔をする。
 確認すると、制作会社が施設管理会社へ送った最新版のスケジュール表が、《汐路》には共有されていなかったらしい。


「申し訳ありませんが、今からお客様に出ていただくことは……」

 それは当然だった。
 撮影は翌朝へ変更され、先に二件目へ向かうことになる。

 移動車に乗ると、私は次の現場へ到着時刻を伝え、メイク直しの時間と玲央さんの休憩を組み直した。それから隣へ座り、頭を下げる。

「ごめんなさい。休憩まで短くなってしまって……」
「なんで?」

「え?」
「店に連絡してなかったの、制作側でしょ。詩野さんのミスじゃねーじゃん」

「でも、私が先に気づけていたら……」
「出演者のマネージャーが店との撮影調整まで確認すんの?」

「それは……しませんけど」
「じゃあ謝んなよ」

 玲央さんが顔を覗き込んでくる。狭い車内なので、思ったより距離が近い。

「なんで目そらすの?」
「ち、近いので……」

「は?」
「いえ、何でもありません!」

 慌ててスケジュール表へ視線を落とすと、隣から小さなため息が聞こえた。



 二件目の《海灯り》では、大きな海老や鯛、はまち、いくら、雲丹を盛った海鮮丼を撮影した。

 見栄えは華やかで、魚の鮮度もいい。

 ただ、醤油だれが濃い。
 鯛の淡い甘みも、はまちの脂も、雲丹の風味も、食べ終わるころには同じ濃い味が舌へ残ってしまう。

 玲央さんはカメラへ笑顔を向けた。

「魚がたくさん乗っていて、すごく豪華ですね」

 嘘ではない。
 けれど、おいしいとも言っていない。

「はい、カット!」

 玲央さんはすぐ私のそばへ来た。

「これ、言うほどうまいか?」
「と、とても華やかだと思います」

「味を聞いてんだけど」
「それは……」

「で、本当はどう思ってんの?」

 答えられない。
 本当は分かっている。でも、店の人がいる場所で言葉にすることはできなかった。



 すべての仕事が終わった夜。
 私はホテルへ戻る前に、一人で《汐路》へ向かった。

 昼間より静かになった《瀬戸内テラス》を歩く。夜の海を眺め、店先から流れてくる出汁や焼き魚の匂いを楽しみながら、自分の好きな速度で歩く。

 この時間が好きだ。
 仕事中は玲央さんの予定ばかり見ているけれど、夜になれば知らない街で、自分が食べたいものを自分で選べる。

《汐路》へ入ると、澄子さんが翌朝の仕込みをしていた。


「あら、お昼の……お一人ですか?」
「はい。実は私、六年前にも《汐路》さんへ来たことがあるんです」

「まあ」
「移転されたのは知っていたんですが、なかなか愛媛まで来る機会がなくて。今日こちらへ来られたので、懐かしくて来ちゃいました」

「あら、それはうれしいです!」

 澄子さんがぱっと笑う。

「主人も喜びますよ。六年前なら、まだあの人が厨房に立っていたころですから」

「鯛茶漬けがおいしくて、ずっと覚えていたんです」

 そう言うと、澄子さんの笑顔がわずかに固まった気がした。


「でしたら、ぜひ食べていってください」
「はい。鯛茶漬けと、地酒を一合お願いします」

 運ばれてきた料理を前に、私は箸を取る。
 最初の一口を食べたところで、澄子さんが厨房からこちらを見ていることに気づいた。

 二口目。
 また視線が合う。

 私が出汁を注ぐと、澄子さんは手元の作業を止めていた。


「……あの」
「はい?」
「どうでしょう?」

 思った以上に食い気味に聞かれ、私は箸を止める。

「えっと……」
「六年前の味をご存じなんですよね?」

「はい」
「だったら、もし何か気づいたことがあれば、教えていただけませんか?」

 先ほどまでの明るい表情は消えていた。


「主人が病気で厨房を離れてから、私がこの鯛茶漬けを作っているんです。レシピも残してくれていますし、分量も変えていません。でも……昔からのお客様に『前と少し違う』と言われることがあって」

 澄子さんは手を握り合わせる。

「移転してから新しいお客様も増えたはずなのに、最近は評判もあまりよくなくて。私にも何か足りない気はするんです。でも、何度食べても分からなくて……」

「澄子さん……」

「昔の味を覚えている方なら、何か分かるかもしれません。些細なことでもいいんです。ぜひ教えてください」

 そこまで言われれば、適当な感想では返せない。


「……分かりました。もう一度、きちんと食べさせてください」

 鯛だけを口へ運ぶ。
 身の締まりも甘みも悪くない。胡麻だれも、六年前の記憶とほとんど同じだ。

 三つ葉、海苔、山葵を順番に試し、熱い出汁だけも口へ含む。

 出汁はむしろ六年前より柔らかく、澄んでいる。
 それなのに、一つに合わせると味が途中で途切れる。

 私はもう一度、六年前に食べた一杯を思い返した。

 鯛でもない。
 胡麻でもない。
 調味料の分量でもない。

 昔、この料理を最後までつないでいたものだけが消えている。


 ようやく一つの違いへたどり着き、私は静かに椀を置いた。

 不安そうに待っている澄子さんへ顔を向ける。

「――味わいました」