愛媛県の海沿いにある観光施設《瀬戸内テラス》。
白い展望デッキの向こうには穏やかな瀬戸内海が広がり、遊歩道では柑橘ソフトを手にした家族連れが行き交っている。
今日から始まるのは、愛媛、香川、高知、徳島と四国四県を巡り、それぞれの観光地や名物を紹介する観光キャンペーンのロケ。その最初の撮影地が、ここ《瀬戸内テラス》だった。
「詩野さん、水ちょーだい」
「は、はい。どうぞ!」
私は肩に掛けた大きなトートバッグからペットボトルを取り出し、担当アイドルへ差し出した。
「これ、冷たくない?」
「……あっ。すみません、こっちでした!」
常温の水と取り違えていたらしい。慌てて交換すると、玲央さんは苦笑する。
「朝から慌てすぎ」
「気をつけます……」
愛媛へ着いてまだ一時間も経っていないのに、今日もさっそく頼りないところを見せてしまった。
私は東雲 詩野、三十四歳。芸能事務所《スターリットプロモーション》でマネージャーをしている。
そして目の前の青年が、現在の担当タレントである天城 玲央さん。二十一歳の男性アイドルで、最近は地方の情報番組や観光PRにも呼ばれるようになってきた売り出し中の子だ。
青みを入れた黒髪は朝からきれいに整えられ、淡いブルーのジャケットもよく似合っている。カメラの前なら爽やかな若手アイドルそのものだが、私と二人になると口調は少し砕ける。
「それにしても、きれいですねえ……」
改めて海へ目を向けると、潮風が頬を撫でた。
今回のロケ地《瀬戸内テラス》は、海を眺められる足湯、愛媛の柑橘や菓子を扱う土産物店、地元の魚介を使った飲食店などを集めた新しい複合観光施設だ。
昨夜はロケ資料を読みながら施設内の店や移動経路まで確認したけれど、実際に来てみると写真よりずっと開放感がある。
仕事でなければ足湯に浸かって、そのあとで何を食べるか一時間くらい悩みたかった。
「おはようございます。今日はよろしくお願いします!」
明るい声と爽やかな笑顔。
玲央さんは仕事に手を抜かない。
短い地方ロケでも事前に資料へ目を通し、土地の名物や店の名前を覚えてくる。喉や肌の状態にも気を遣い、カメラの前へ立つときは必ず一番いい自分を作ろうとする。
だから私も、その努力を無駄にしたくない。
水を取り違えたり、必要なものを鞄の奥へ埋めたり、どうにも要領の悪いところはある。それでも前日に予定を確認して、移動経路を調べて、玲央さんが少しでも休める時間を作れるよう予定を組む。
完璧にはできなくても、できることだけは手を抜きたくなかった。
私は人前へ出るのが苦手だけれど、誰かがちゃんと輝けるよう、その後ろで準備をする仕事は好きなのだ。
今回の四国観光キャンペーンも、売れ始めた玲央さんには大切な仕事だ。評判がよければ、今後もっと大きな観光番組へ呼んでもらえるかもしれない。
「オープンしたころは、ものすごかったんですけどねえ」
撮影準備を待っていると、施設の担当者がディレクターと話している声が聞こえてきた。
「最近、ちょっと客足が落ち着きすぎてまして。景色だけ見て帰る方も多いんですよ」
「飲食店もですか?」
「ええ。地元の名店にも何軒か入っていただいたんですが、思ったほどリピーターにつながらなくて。今回の番組をきっかけに、もう一度盛り上がってくれればと思ってるんです」
新しい観光施設なのに、もう客足が落ち始めている。
せっかく地元の人たちが店を出し、新しい観光地を作ったのだから、今回の放送が少しでもきっかけになればいい。
そう思ったけれど。今の私にできるのは、まず玲央さんの仕事をきちんと支えることだ。
最初の撮影場所は、施設内に出店した《海はま》という海鮮丼のお店。
ここでは、大きな海老や鯛、はまち、いくら、雲丹を盛った海鮮丼を撮影した。
見栄えは華やかで、魚の鮮度もいい。
玲央さんはカメラへ笑顔を向けた。
「魚がたくさん乗っていて、すごく豪華ですね」
嘘ではない。
けれど、おいしいとも言っていない。
「はい、カット!」
撮影が止まると、玲央さんはすぐ私のところへ来た。
「これ、言うほど美味しいかな?」
「と、とても華やかだと思います」
「せっかく都内から四国まで来たのに期待外れだな~。海鮮なんて、醤油かけたら全部同じ味じゃん?」
「それは……」
魚はちゃんとおいしい。
でもタレが強すぎて、それぞれの味が消えてしまっている。
(もったいないな。食べ方次第で、ちゃんと魚の良さが分かるんだけど……)
鯛の淡い甘みも、はまちの脂も、雲丹の風味も、食べ終わるころには同じ濃い味が舌へ残ってしまう。
ただ、それを偉そうにうんちくを言ったら、気分を害してしまうかもしれない。そう考えた途端、言葉が喉の奥で止まった。
「なに? 何か言いたそうだったけど」
「……すみません、なんでもありません」
「別に謝ってほしいわけじゃないんだけど……変な詩野さん」
玲央さんはスタッフに呼ばれ、そのまま戻っていった。
◇
一日目の仕事が終わった夜。
私はホテルへ戻る前に、一人で外へ向かうことにした。
昼間より静かになった《瀬戸内テラス》を歩く。夜の海を眺め、店先から流れてくる出汁や焼き魚の匂いを楽しみながら、自分の好きな速度で進む。
この時間が好きだ。
仕事中は玲央さんの予定ばかり見ているけれど、夜になれば知らない街で、自分が食べたいものを自分で選べる。
それに今日は、もう一つ理由があった。
数年前に一度訪れたことのあるお店に訪れてみたかったのだ。
ちなみにお店の名前は老舗割烹《汐路》。
《瀬戸内テラス》に移転してきた明日のロケ地でもある。
撮影の前に、まずは一人の客としてちゃんと食事をしたかったのだ。
《汐路》へ入ると、店主の澄子さんが翌朝の仕込みをしていた。
「あら、お一人ですか?」
「はい。実は私、六年前にも《汐路》さんへ来たことがあるんです。それで気になって……」
「まあ」
「移転されたのは知っていたんですが、なかなか愛媛まで来る機会がなくて。今日こちらへ来られたので、懐かしくて来ちゃいました」
「あら、それはうれしいです!」
澄子さんがぱっと笑う。
「主人も喜びますよ。六年前なら、まだあの人が厨房に立っていたころですから」
「もしかしてご主人は……」
「あぁ、いえいえ。今は腰を悪くして入院してまして。しばらく私がこの店を切り盛りすることになっただけですよ」
「あ、良かった……鯛茶漬けがおいしくて、私ずっと覚えていたんです」
そう言うと、澄子さんの笑顔がわずかに固まった気がした。
「でしたら、ぜひ食べていってください」
「はい。鯛茶漬けと、地酒を一合お願いします」
運ばれてきた料理を前に、私は箸を取る。
最初の一口を食べたところで、澄子さんが厨房からこちらを見ていることに気づいた。
二口目。
また視線が合う。
私が出汁を注ぐと、澄子さんは手元の作業を止めていた。
「……あの」
「はい?」
「どうでしょう?」
思った以上に真剣な声で聞かれ、私は箸を止める。
「えっと……」
「六年前の味をご存じなんですよね?」
「はい」
「だったら、もし何か気づいたことがあれば、教えていただけませんか?」
先ほどまでの明るい表情は消えていた。
「主人が病気で厨房を離れてから、私がこの鯛茶漬けを作っているんです。レシピも残してくれていますし、分量も変えていません。でも……昔からのお客様に『前と少し違う』と言われることがあって」
澄子さんは手を握り合わせる。
「移転してから新しいお客様も増えたはずなのに、最近は評判もあまりよくなくて。私にも何か足りない気はするんです。でも、何度食べても分からなくて……」
「澄子さん……」
「昔の味を覚えている方なら、何か分かるかもしれません。些細なことでもいいんです。ぜひ教えてください」
そこまで言われれば、適当な感想では返せない。
それに、ご主人が厨房へ立てなくなったあとも、一人でその味を守ろうとしてきたのだろう。
困っている人から「教えてほしい」と言われて、知らないふりをすることもできなかった。
「……分かりました。もう一度、きちんと食べさせてください」
鯛だけを口へ運ぶ。
身の締まりも甘みも悪くない。胡麻だれも、六年前の記憶とほとんど同じだ。
三つ葉、海苔、山葵を順番に試し、熱い出汁だけも口へ含む。
出汁はむしろ六年前より柔らかく、澄んでいる。
それなのに、一つに合わせると味が途中で途切れる。
私はもう一度、六年前に食べた一杯を思い返した。
鯛でもない。
胡麻でもない。
調味料の分量でもない。
昔、この料理を最後までつないでいたものだけが消えている。
ようやく一つの違いへたどり着き、私は静かに椀を置いた。
不安そうに待っている澄子さんへ顔を向ける。
「――味わいました」


