自分探しの香りトラベラー

 
 しばらく歩くと、ある香りが鼻孔をくすぐった。

「パン屋さんって、やっぱり朝が早いんだ」

 バターのいい香りが、ここら一帯に漂っている。まるで匂いに手を引かれるように、パンのマークが書かれてある店に入った。
 少し苦みのあるカフェオレに、甘いパンはちょうどいいかもしれない。きっと相性抜群だろうし、このパン屋で朝ご飯を調達するとしよう。

「いらっしゃいませー」

 ちょっと優雅な気分でいる私とは反対に、店内は驚くほど狭かった。入る前に「狭そうだな」とは思っていたけど、入ってみると想像以上だ。
 人が向きを変えるのも精いっぱいな店内。そこでは一つでも多くのパンがお客の目に留まるように、工夫して陳列されている。

「あ、この置き方いいなぁ」

 頭の中に、携帯ショップの内装が蘇る。
 ショップはこのパン屋より広いが、そうかといって無限に面積があるわけではない。故に、ディスプレイには気を遣う。一台でも多くのモデム機を展示することで、機種の魅力をアピールし、お客に「欲しい」と思ってもらわなくてはならない。
 しかし、すし詰め状態になっても、それはそれで見えにくい。余白があってこそ、オシャレは生まれるのだ。

 展示は高級感が漂うように、且つ、一台でも多くの機種をアピールできるように――

 昨日、自分が言ったことではあるが、現実化の難しさを噛み締める。
 森下くんの言葉に傷ついた私だけども、私こそ無理難題を言って、彼を傷つけたのではないだろうか。
 
「おっと、失礼」

 店内は狭いというのに、お客の数は多かった。皆が皆、パントレーを持つ手の置き場に困っている。
 他のお客さんに当たらないように、もちろんパンにも当たらないように――そうやって、それぞれが気を配っているのがよく分かる。
 店内は窮屈に感じるが、そんな配慮が交差する店は、なんだか居心地がよかった。

「ありがとうございましたー」

 お客は皆さっさとパンを選んで、素早く店を出た。店員さんも回転率を意識しているのか、客を待たせることがない。全てのパンの値段を覚えているようで、レジスターさばきも見事だ。ここに就いて、もう長いのだろう。残像を終えないほどの早打ちに、つい目が釘付けになる。

 って、そうじゃない。
 私も早くパンを選んで、他のお客さんの邪魔にならないよう、すぐ店を出ないと。

 グルリと店内を見回す。一番多く積まれているのは、クロワッサンだった。これなら空っぽの胃にいれても負担は少ないだろう。
 クロワッサンを一つ、トングで優しく挟み込み、レジへ持って行く。その時、カウンターに置かれてあった「切れ端ラスク」も、ちゃっかり会計に加えてもらった。

「ありがとうございましたー」

 ホカホカのクロワッサンが入った紙袋。追加でビニール袋をもらい、腕に引っ提げる。
 クロワッサン一つだけだから、袋からは重さという重さを感じない。が、しいて言うなら心が重くなった。ホクホクした気持ちになっている。これが「満たされる」というやつだろうか。はたまた、幸せというやつ?

「そういえば食べ物に関心を寄せるなんて、いつぶりだっけ」

 ご飯を食べる時は、とにかく時短重視だ。コンビニで食べやすいおにぎりを買い、営業車の中でさっさと食べる。
 スピードが命のご飯は、食べ物の見た目も、味も、匂いも、さして重要ではない。そもそも眼中にないのだ。食べている時でさえ、パソコンと睨み合っているから。抱える店舗数が多ければ多いほど、ひっきりなしに連絡が来る。

「あ」

 そんなことを考えていたら、ちょうど携帯が鳴った。本部からのメールだった。
 近くのベンチに座り、珈琲とパンを隣に置く。
 燃え上がる炎に一気に冷水をかけるような心持ちで、携帯のスリープを解除した。

【昨日の尾道店の売り上げが極端に悪い。今日訪問するなら、しっかり分析し営業のノウハウを教えてくるように】

 一方的な文面を見て、思わずため息が声に出た。言い方は優しいが、これはつまり「叱ってこい」という意味だ。

 どうして分かるかというと、初めて出張に行った時も、同じメールをもらったからだ。
 あの時は【初めての出張先は、ちょうど業績の悪い店舗だ。売上アップにつながるよう叱咤激励するように】という文面だった気がする。

 額面通りに受け取った私は、店舗に赴き、社員を励まし奮い立たせた。「働いている場所は違うけど、互いの目標は同じ。だから頑張ろう」ということを言った。そしてそれを本部に報告した。そうしたら「誰が仲良しこよしをしてこいと言った」と私が𠮟咤激励されてしまった、というわけだ。……いや、この場合「叱られただけ」で励まされてはいないか。

「はぁ……」

 当時のことを思い出し、心臓にポツポツと穴が開いていく気分になった。せっかく珈琲店とパン屋で積み上げた幸せが、その穴から零れ落ちていくようだ。
 上と下に挟まれる中間管理職が、まさかこれほど神経をすり減らすものだったなんて。内示を受けたあの時の私は、全く予想していなかった。

 もう一度ため息をついた時。隣に置いたビニール袋が、風を受けてガサリと音をたてた。
 袋は、そのまま私にもたれかかる。すると風に乗って、パンの甘い香りが漂ってきた。

 あぁ、癒される。幸せの匂いだ。
 さっき穴が開いた心臓が、まるで修復されていくよう――

 こらえきれなくなって、パンの袋を開ける。途端に、ふわりとバターの香りが漂う。すると幸せを感じた心臓は、また修復され、頑丈になった気がした。

「もう、ここで食べちゃおう」

 いつも常備している消毒用アルコールを、両手にシュッシュッと振りかける。ツンとした匂いが立ち込めたけど、本当に消毒できたのか疑ってしまうほどすぐ消えた。私が持つパンの匂いに、かき消されたからだ。
 私は形を崩さないように、クロワッサンを弱い力で持ち上げる。焦げ茶色に焼けた皮が、パリパリとくすぐったそうに音を立てる。匂いも一段と濃くなり、口の中は既によだれでいっぱいだ。パンは、もう目の前。

「いただきます……っ」

 買ってからさほど時間が経っていないのに、すごく待ちくたびれた気分だった。そのせいか、クロワッサンを頬張ろうとする唇が小刻みに震える。
 えいやと勢いをつけ、そのままカプリとかじりつく。クロワッサンはまず私の唇に当たって皮が砕け、次に私の口内で中身まで砕けた。

「ん~っ!」

 柔らかい、だけどパリッとした硬い食感もある。クロワッサンの中と外で、こうも食感の違いがあるなんて。
 焼きたてだから出来ることなんだろう。パン屋の人たちは、きっと私が起きるよりもずっと早く、このクロワッサンを作ってくれていたのだ。

 まだ夜が明けきらない中、店員さんが大きな生地を力強くこねる姿を想像する。
 すると鼻の奥がツンと痛くなった。
 頑張っているのは私一人じゃない――そんな勇気を、クロワッサンからもらえた気がした。

「ごちそうさまでした」

 やや涙目になりながら、感無量で完食する。気がつけばカフェオレもパンも、きれいさっぱりなくなっていた。そうだというのに私の周りには、二つの匂いが残っている。もう食べ物は手元にないのに、まだ幸せが続いているのだ。その匂いを、ゆっくり嗅いで堪能する。

「今日、香水をつけなくて良かったなぁ」

 いつも自分を奮い立たせるためにつける香水。もちろん匂いが好きで買った香水だったけど、今この時ばかりは「つけていなくて良かった」と心から思った。今朝いつも通りつけていたら、カフェオレやクロワッサンの残り香を楽しむことは出来なかっただろうから。
 昨日森下くんにあぁ言われた時は傷ついたけど、結果オーライだ。……あ。

 「そっか、私は『傷ついて』いたんだ」

 よく考えれば、部下からあんな風に言われて傷つかないわけがない。それなのに「香水をつけないこと」や「差し入れを持って行くこと」に目を向け、傷つくことから逃げていた。自分の心を、体の奥底に沈めていた。
 だから今朝から足が重かったんだ。やりきれない思いを、ちゃんと昇華しなかったから。

 昨日――わざわざ店舗へ充電器を取りに戻ったのに、そのまま引き返した自分を思い出す。

 あの時に彼と話し合えば、はたまた飲みにでも誘えば違ったかもしれない。……いや、迷惑なだけか。好きでもない上司と飲みなんて、それこそ嫌われる。
 もしかしたら今から足を運ぶ店舗の社員からも、同じように嫌われるのだろうか。それは、嫌だな――

 光が差し始めた自分の心に、再び暗雲が立ち込める。ポツポツと雨粒が落ちていくようだ。すると無意識の内に、カバンの中へ手が入り込む。不安に染まった心はもう、いつもの香水を求めていた。
 だけどビニール袋の中に、まだ何か入っているのを見つける。会計の時に、とっさに買ったラスクだ。
 私は香水を掴むために伸ばした手を、ラスクへ向ける。ひょいと持ち上げると、拍子抜けするほど軽かった。無駄に力を込めた自分の手の行き場に困り、ちょっとだけ笑ってしまう。

「じゃあ、いただきます」

 キレイにラッピングされた袋を解き、カリカリに焼けたパンの耳をつかむ。それはまんべんなく砂糖がかけられ、光っていた。なんだか嬉しそうに笑っているみたいだ。私が見ているのは、パンなのに。
 私はラスクを鼻先へ持って行く。するとクロワッサンとは違う甘い香りが、鼻孔をスーッと通り抜けた。同時に、さっきかいだ「幸せの匂い」を瞬時に思い出す。すると重くなっていた心が、ヘリウムの入った風船みたいにフワリと浮いた。
 そのまま「えいや」と、ラスクを口に運ぶ。ゴリゴリ音を立て咀嚼していると、いい意味で頭が空っぽになってきた。

 香水をつければ、仕事が上手くいくような気がした。人間関係が円滑になる気がした。
 その時に不安に思っていることを、香水の力をかりて「私はできる、大丈夫」って強気に変換した。ようは願掛けしていたのだ。自分の心を、まるごと香水に委ねていた。

「そうしている内に、自分の気持ちが見えなくなってしまったんだろうな」

 だから自分が傷ついたことにも、一日遅れで気づいた。そもそも自分の心に、目を向けようとさえしなかった。「また香水をつけて頑張ればいい」って、そう思っていたから。あの匂いを嗅げば、私は頑張れるからって。
 でも、違った。

「私がつける香水は、自分を誤魔化す匂いだったんだ」

 心が傷ついたなら、ちゃんと修復しないといけない。
 傷ついたまま放置していると、いつか心は穴だらけになって限界がきちゃうから。
 だから、ちゃんと労う。自分に目を向ける。
 香水の匂いに紛れて、自分に鈍感になったらダメなのだ。

「鎧のように香水をまとっていたらダメだよね。――よし」

 雨雲が晴れていくような心持ちの中、自分のスーツをクンとかぐ。すると香水ではなく、クロワッサンとカフェオレの匂いが香った。ちゃんとご飯を食べたという「生」を実感する匂いだ。またの名を、私の心が再び動き出した匂い、ともいう。

 私は、もう一度パン屋へ向かう。入店し、他のお客に配慮しながら、複数のパンを選んだ。確か六個もあれば足りるはず。
 再び店員さんの「ありがとうございましたー」を聞き、パン屋を出る。そうして元来た道を戻って行く。

 私が車を降りてから今までの間に、わずかに客足が増えたらしい。まるで眠りから覚めたように、商店街が賑やかになった。
 屋根のある商店街は、通りゆく人々の声をよく拾う。いや、拾いすぎると言うべきか、声だけでなく自転車のベルまで反響していた。屋根がアーチ形だからかな? まるでトランポリンみたいに、色んな音が何度もはずんで響き渡る。とても賑やかだ、寂しくなる暇もないほどに。

 さっきより日が高くのぼってきた。屋根の向こうから温かな陽気を感じる、ぽかぽかだ。私が持っているパンと同じ。
 あぁ。私は今、温かい物たちに包まれているんだな――
 そんな事実をこうして実感できることに、すごく幸せを感じた。匂いや温度を感じる心の余裕を、私は今、手にしているのだ。

 そんな私が次に手をかけたのは、あの木製のドアだった。

「いらっしゃいませ」

 さっきと同じく、珈琲店の店員さんが迎えてくれた。私のことを覚えてくれていたのか「あ」と、笑みを浮かべてくれる。

「テイクアウトですね、こちらをどうぞ」

 さっきと同じく入り口近くのイスに私を案内し、メニュー表を見せてくれる。ここでも私は、六個の珈琲を注文した。すると店員さんはお辞儀をした後、キレイな動作できびすを返す。
 だけど、もう一度。なぜか私の方を振り返った。

「そちら、とてもいい匂いのするパンですね」
「!」

 まさか、そう言われると思わなかったから驚きだ。
 だけど私が「自分を取り戻した匂い」を褒めてくれて、素直に嬉しかった。今の私すごくいいじゃんって、そう言われた気がする。

「私、このパンと、こちらの珈琲が大好きなんです。だから職場の皆にもあげたいなと思って」
「ありがとうございます。では、準備してまいりますね」

 珍しく自分の気持ちを素直に口にすると、店員さんは満面の笑みを浮かべた。
 その顔を見て、いつも笑顔の森下くんを思い出す。

 昨日の今日だけど、連絡してみようかな。私が鎧を脱いで自分を見せれば、彼も笑顔だけでなく、本音を見せてくれるかもしれないし。

 失敗するかもしれない。だけど出来ることをやってみよう。彼に背を向けたまま帰るなんて、もうしたくないから。

「あ、会社の共有カレンダーが更新された」

 珈琲を待っていると、社内携帯から通知がくる。私の欄を見ると、二週間後に「岡山県笠岡市に出張」と新たな予定が入っていた。
 こんな風に急に出張が決まるから、気持ちがついていかない。だから「行きたくないなぁ」って独り言ちるまでがセット。
 だけど、今は違う。

「岡山県と言えば、きびだんごが有名だよね。でも笠岡市は海が近いから、団子よりも海産物かなぁ?」

 あれだけ気が重かった出張も、「幸せな匂いと出会えるかも」と思うと苦にならない。それに今日みたいに、今まで気付けなかった自分を知れるかもしれないし。

 ようは自分のアップデートだ。
 私は食べ物を通して、自分で自分を研究しているのだ。

 でも、それも悪くない。自分を誤魔化していた昨日より、今の私の方が生き生きしているから。

「次は、何の差し入れを持っていこうか」

 すると店員さんが戻ってくる。手には、持ちやすいように包んでくれた珈琲たちがあった。
 私は匂いを堪能しようと鼻から「幸せ」を吸って、自分を満たす。そうして来た時とは考えられないほどの軽い足取りで、駐車場を目指した。

【完】