翌朝、七時。
携帯のアラームで目を覚ます。鳴るまで起きなかったが、そうかといってグッスリ寝られたわけじゃない。むしろ寝不足だ。夜中の変な時間に起きて、それから森下くんの言葉を思い出し、気持ちが濁ってなかなか寝付けなかった。途中、お風呂に入って目が冴えたせいもあるが、二度寝できたのは今から30分前だ。
「今日は、ここから三十分かかる店舗に行って、わざわざ敵を作るのか」
なんて。
昨日の自虐ネタを、自分で言って自分で冷笑するのだから世話ない。可愛げのない私は、確かに、敵を作りやすいのかもしれない。
「……さて」
どれほど心に暗雲が立ち込めようとも、仕事の時間はやって来る。準備をしなければならない。
ため息一つ零した後、のそりとベッドから降りる。
第一関門、突破。あとは毎日のルーティンに従うだけだ。
私は髪を一つくくりにするせいか、身支度にさほど時間がかからない。一昨日訪れた店舗では、ボブの髪をした社員が「今日は雨だから上手くきまらない」と、何度もバックヤードへ鏡をのぞきに行った。さすがに目を瞑っていることはできなくて、店長に「ほどほどにするように伝えて」と言ったけど……あれも敵を作る言動の一つだろう。
昨日とは別のスーツに着替える。
店舗の視察、という名の出張は、今日で終わりだ。一度本部へ戻り、報告書を作らないといけない。それが終わってひと段落したら、またこうして出張が入る。その繰り返しだ。
「あ……このホテル朝食がないから、どこかで買わないと」
エリアマネージャーになってから、とにかく出張が増えた。「現場の声は現場に行かないと分からない」という会社の方針だ。
私もこの考えにはおおむね賛成で、各店舗から送られてくる売り上げデータからは読み解けない事実が、実際に店舗へ行けば易々と判明することがある。
だから出張は、利益を追究する上では有意義だ。
私の心を削りながら行う点を除けば、だが。
「よし。これで終わり、っと」
着替えが終わり、化粧も終わり、最後の仕上げにかかる。
仕上げといっても簡単なもので、香水を一噴きするだけだ。
蓋をきゅぽんと開ける。まるで魔法瓶のような入れ物は、見ただけで気分が上がる。中は上品なローズの香りで、私の一番好きな匂いだ。
「高かったけど、お金を出す価値はあったなぁ」
この香水とデパートで出会った時の感動を、今でもハッキリ覚えている。
私はあまりお金を使う方ではない。それなのに、この高級香水は「買う」と即断した。それには理由がある。
この若さでエリアマネージャーに抜擢され、「どうしよう、私に務まるかな」と悩んでいた時期があった。その時に、この香水と出会ったのだ。高価だったけど、この匂いをかげば心が元気になって、頑張れる気がしたのだ。
だから、この半年。
私は仕事前に、必ずこの香水をつけている。
「いい匂い……のはずなのに」
手の甲に噴きかけようとして、躊躇した。
思いとどまったのは、もちろん、昨日の森下くんの言葉を思い出したからだ。
――あとは香水? ちょっとキツめでさ
そんなにキツイ?
最近はスメハラなんて言葉もあるし、周りの迷惑にならないように気を付けていた。それなのに、まさか、そんなことを言われるとは。
試しに、クンと自分の体を嗅いでみる。腕や足に鼻を近づけると、不思議なことに、確かに香水の香りがした。……昨日の帰社時と同じで「気のせい」かもしれないけど。
今日はまだ噴きかけていないのに、どうしてだろう。
大体、朝つけた香水なんて、夜には匂いが消えているものだ。それに、ちゃんと深夜にシャワーを浴びた。香りが残っている、ワケがない。
だけど……やっぱり何度かいでも匂いがするのだ。
これを「気のせい」にすることは、今の私にはできなかった。
「今日は、やめておこう」
念のため、ということもあり、噴きかけないまま蓋を閉める。
というのは建前で――本当は怖かったのかもしれない。これ以上に敵を作ることが。
エリアマネージャーという立場上、店舗についてあれこれ言わざるを得ない。だから「口うるさい」と嫌われるのも、仕方がない。だけどそれ以外の……例えば、私個人のことで嫌われる理由を作るのは嫌だった。
「くさい上司、なんて言われたくないもんね」
私は香水をしまった後。昨日の失態を再び起こさぬよう、忘れ物がないか、グルリと部屋を見渡す。
そうしてスーツケースを引きながら、電気のスイッチを押した。
最後に一瞥した「カーテンが閉められたままの部屋」は、心細くなるほどもの寂しかった。
◇
車を走らせ、広島県尾道市に到着した。もっと混むかと思ったが、意外にも渋滞は免れた。故に、運転は短時間で済んだ。
でも、どうしてか足が疲れている。30分ほどしか運転していないのに、足が重いのだ。
やっぱり昨日の森下くんの言葉を気にして……いやいや、もう考えるのはやめだ。私はもう「今日を始めている」のだから。向き合うのは過去じゃなく、これからのことにしよう。
「そうだ、差し入れを持って行こう」
それに、自分の朝ごはんがまだだ。昨日の夜も食べていないから、さすがに空腹が限界を超えている。早く着いちゃった分、店舗に行くまで、まだ時間はある。尾道市はグルメでも有名だし、ここからは自分の朝ごはんと店舗への差し入れを調達するとしよう。……決して、自分の株を上げようと思っているわけではない。ましてや嫌われないよう予防線を張っているわけでもない。上司が部下に差し入れをするのは、普通のことだ。
言い訳がましいことを心の中で唱えながら、適当な所で駐車する。道を歩く人が多くなってきたから、近くに何かあるだろうと踏んだのだ。
出張に慣れない間は、いったん車をコンビニに止めて「この辺りで有名なスポット」など検索した。でも何度も出張を重ねると慣れてくるもので、人の流動具合で観光スポットがあることを把握できる。
目の前に線路が走る駐車場。そこへ慣れた手つきでバック駐車する。
私は元から運転が得意だったわけじゃない。むしろ「下手」という自覚があっただけに、どこやかしこへ車を走らせるのは苦痛だった。
しかし両方の手じゃ足りないほど出張を重ねれば、運転も慣れてくるというもの。この前久しぶりに母を乗せたら「上手ねぇ」と褒められた。私の中で運転イコール出張が結びついているから、その時は苦笑しか返せなかったけど。出張は、やっぱり疲れるものだから。
「わ、さすがにちょっと寒いな」
車外へ出ると、キンと冷たい風が頬に当たった。
12月は秋から冬へ、季節が足早に移動している時期だ。
コートを羽織っているけど、髪をくくっているせいか首元が寒い。しかも、昨日と変わらず海が近いらしい。海風は寒く感じるというが、本当だ。
「あ、商店街がある。風をしのげそうだし、入ってみよう」
現在、朝の八時すぎ。時間が時間のせいか、商店街を歩く人は疎らだった。
ここは、日ごろ観光地として賑わっているんだろう。小人数だけどウキウキした表情の人たちが、軽い足取りで歩いている。
「私、浮いてるかも……」
道行く人たちがオシャレをしている中、私一人がスーツ姿だ。仕事前に寄った私も悪いが、どうにも居心地が悪い。
足も重たいし、やっぱり出ようか――なんて思っていると、すごくラフな格好をしたおじさんが前から歩いて来た。恐らく地元民だろう。見ると、商店街の外にはたくさんの家が並んでいる。どうやらここは観光客だけじゃなく、地元の人たちからも人気の商店街らしい。
それによく見ると、私の他にもスーツ姿の人がチラホラいた。どうやら、ここが出勤ルートらしい。
「なんだ、私だけじゃないんだ」と思ったら、お腹がグゥと鳴った。安心して、再び足を動かす。
「朝ごはん、それに差し入れは何にしよう」
見る限り、食べ歩きに適した場所だ。屋台で出るようなリンゴ飴や、老舗の雰囲気を漂わせるかまぼこの店がある。
どれも美味しそう。だが、どれも差し入れには適さない。それに、まだ営業時間じゃない。さすがに朝の八時は早すぎた。
商店街に入ったのは失敗だったかも――なんて思っていると、目と鼻の先にレトロなお店を発見した。
「へぇ、珈琲店」
昔ながらの雰囲気を残しつつもオシャレを意識した、しっかりした店構えだ。ショーウィンドウにいくつかのメニューが展示されている。モーニングもあるらしい。中を見ると、既に灯りがついていた。このお店、もう開いてるんだ。
だけど昨日の夜から何も食べていない胃に、いきなりガツンとモーニングを落とし込むのはよくない気がした。というのも、出張の疲れがたまってきたのか(はたまた昨日のストレスか)、お腹は鳴るけれども、胃がやさぐれ気味なのだ。
「あ、テイクアウトやってるんだ」
メニューの端っこに「ドリンク テイクアウトOK」の文字を発見する。……いいかも。でも万全じゃない空腹の胃に、カフェインを入れていいものか。
終わらない堂々巡りをしていると、お客さんが店から出てきた。手には今日の新聞を持っている。朝の珈琲タイムだったのだろうか。そうだとしたら、絵に描いたような老後だ。「私も早く退職したい」と、おじさんの背中をうらめしく見つめる。
だけど、おじさんと一緒に出てきた珈琲の匂いに、すぐさま意識が店に戻る。
ツンとしない珈琲の上質な香りを嗅げば、さっき悩んでいた胃のことなどさっさと忘れてしまった。
気づいた時には、木製のドアを押し開いていた。
「いらっしゃいませ」
カランカランとベルが鳴り、気づいた店員さんがすぐ声を掛けてくれる。店員さんが来ている制服も、モダンを感じるオシャレな白黒カラーだ。
「おひとり様ですね、ご案内します」
「いえ、あの……テイクアウトってお願いできますか?」
「もちろんです。こちらからお選びください」
店員さんは入口近くのイスに私を座らせた後、メニュー表を持って来てくれた。
ブレンドコーヒーやアメリカンコーヒーがある。どんな味がするんだろう? ミルクを入れずに、そのままの味を楽しみたい。だけどマイルドな気分にもなりたいな。一応、胃には気を遣って……。
よし。ここでの正解は、カフェオレだ。
「カフェオレで」
「かしこまりました。少々お待ちください」
店員さんは奥へ行き、まるで理科の実験室に置かれているかのような装置の前に立つ。
あれは――サイフォンだ。
丸いビーカーのような容器に水を入れ、その上に、既にひいた珈琲粉が入った筒をとりつける。一番下には、アルコールランプをセットするようだ。店員さんはランプに火を点けた後、水が入ったガラスの下へ、そのままスライドさせる。丸いビーカーのようなガラスに、直接火があたっている。割れないのかな……。
ヒヤヒヤしながら見守っていると、不思議なことにだんだん心が落ち着いてくる。温度が高くなり、水が沸騰してきたのだ。コポコポと、耳障りの良い音が耳管を通って体に浸透していく。目を瞑ると、そのまま眠ってしまいそうな心地よさだ。
沸騰した水は、やがて珈琲粉と融合を始める。
まっさらなお湯に、茶色の珈琲がじわりと色を落として染めていく。そうしてしばらくも経たない内に、全てのお湯を茶色に染めあげた。
透明は、茶色に勝てないんだな――そんなことを思う。
結局、力が強い方が「目立つ」のだ。
「……」
私の話をする、昨日の森下くんを思い出す。
言ったもん勝ち、という言葉は好きじゃない。だけど世の中、その通りな気がした。言われてしまった昨日の私は、確かに「負けた」のだ。
「お待たせしました、カフェオレです。熱いのでお気をつけください」
「え、あ」
ボーッとしている間に、カフェオレが完成してしまった。
しまった、呆け過ぎた。口もパッカリ、無様に開いていた気がする。
恥ずかしくなった私は「ありがとうございます」と、店員さんの目を見られないまま受け取った。
「わ、すごくいい匂い……」
珈琲の濃い香りが、蓋をしたカップから漂ってくる。サイフォンで淹れるからこそ出る香りなんだろう。
スーッと鼻で吸い、ホッと息を吐く。
あぁ、癒される……。
体に入った珈琲の香りが、隅々まで私を鼓舞してくれているみたいだ。
「ありがとうございました。またのお越しをお待ちしております」
「ごちそうさまでした」
いや、「これからごちそうになります」と言った方が、正しいかもしれない。退店する時の、いつもの調子で挨拶してしまった。
最後まで店員さんに恥ずかしい姿を見せてしまったような気がしたけど、「また来たいな」と思った。退職までしなくとも、休日の朝、ここでモーニングを食べることは出来るはずだから。その時は新聞の代わりに、お気に入りの小説を持って行こう。できれば明るい物語がいい。終わりはハッピーエンド、一択だ。
「よし、次は食べ物を買おう」
さっきより軽い足取りで、再び商店街を歩く。
カフェオレを持つ手を、胸の高さまで持ち上げているからだろう。いい香りが私から離れない。そのおかげで、私の気分はずっと良かった。さっきのサイフォンのように、コポコポと、ゆっくり満たされていくのが分かる。
「ん、濃くて苦い。だけど美味しい」
我慢できなくて、立ち止まってカフェオレを飲む。今まで飲んだ中で、間違いなく一番おいしかった。細胞の全てに、この美味しさが染み込んでいってるような気がする。
匂いだけでなく味にも満たされて、いい意味で頭が真っ白になっていく。
「はー……、うん」
目をギュッとつむり、静かに喜びを表現する。
寒空の下、この珈琲に出会えた私は、もしかしたらすごく運がいいのかもしれない。
◇



