自分探しの香りトラベラー


 香水は、自分を誤魔化す匂いだと思う――

 私、生田 郁子(いくた いくこ)、28歳。
 大手携帯ショップを取り扱う中小企業で、エリアマネージャーをしている。
 携帯を触るのは、子供の頃から好きだった。操作もすぐに慣れたし、新しい機能にはワクワクした。
 だから大学を卒業して、携帯を扱う会社に就職した。迷いはなかった。

 はずだった――

「お疲れ様です、生田です」
「あ、エリアマネージャー。お疲れ様です」

 私が任されているのは、中国地方の広島県と岡山県だ。
 このエリアに存在うる店舗の業績が上がるように、私という役職が存在する。

「さっそくだけど、在庫の確認させてもらっていい?」
「はい、こちらで保管しています」

 エリアマネージャーの業務は多岐に渡る。
 一口に「業績が上がるように」と言っても、業績不振になる理由は様々にあるからだ。

「この機種は、型落ちして随分になるけど……売るの難しい?」
「あの手この手でお客様を誘導してはいるのですが、やはり最新機種が人気で」
「でも、携帯を求める方の皆が、最新機種を求めているわけじゃないわよね?」

 そう言うと、私と話す二十代の男性――店長の森下くんは、顔をこわばらせた。
 彼は広島県三原市にある店舗で、25歳という若さで店長になった優秀な部下だ。
 柔和な物腰しはお客様を警戒させないし、人懐こい笑顔もいい。それ故に人気があり、リピート客が多いのだ。
 欠点を上げるとすれば、場所だ。
 三原市は歴史的遺産が数多くあり魅力的な土地だが、もともとの人口はさほど多くない。
 人口は多ければ多いほど、比例して利用客も上がる。反対に、人口が少なければ利用客も落ちる。
 何気ない来店で入ったお客様を誘導して、機種変更させるなり二台目として持たせるなり、家族を巻き込むなどして業績を上げなければならないのだ。

 25歳という若さで店長になった森下くんはすごい。
 だけど、若いが故に経験値が足らないのだ。

「不良在庫は残せば残すほど売れなくなるから、モデム機を店頭に出してポップを貼るなりしないとね。まずはお客様の目に触れるところから」
「はい、そうします!」
「……」

 森下くんのやる気は、ある。
 しかし、このやり取りを三ヶ月も前もしたとなると、言い切れぬ徒労感を覚える。

 チラリと森下くんを見る。
 笑みを浮かべた彼から、罪悪感は……感じない。

「あとは売上だけど、この店舗は目標台数に大きく届いていないの。
 毎月、目標台数に達成した他店舗が、この店舗を補填しているのだけど……」
「はい、知っています!」

 笑顔だ。
「申し訳ない」って気持ちは、微塵もないのだろうか。

 仕事は、見るからにやる気がない社員を叱咤激励するほうが、実はやりやすい。困るのは、森下くんのような罪悪感を一切覚えない社員だ。

 どうヤル気を起こすべきか、店長としての自覚は足りているか、など。店舗の売り上げだけでなく、社員のことにまで頭を悩ませないといけない。

「まずはお客様の来店数を増やすことね。外にあるのぼりを……」

 こうして、一日かけて森下くんに営業のノウハウを教えていく。
 相変わらず彼は笑顔を絶やさなかったけど……本当の所は、どう思っているのだろう――

「では、私は失礼しますね」
「はい、今日はたくさんのことを教えて下さりありがとうございました!」

 最後まで笑顔だった彼へ「頑張ってね」と声掛けした後。
 12月のツンとした空気を一瞬浴び、かび臭い営業車へ乗り込む。

「あ」

 全て揃えて店舗を出たと思ったけど、パソコンの充電器を忘れてしまったことに気づいた。

「危ない。明日、もう一度ここに来なければいけないところだったわ」

 車を降りて、もう一度店舗のドアを開ける。閉店時間はすぎているから、手動だ。ゆえに音もなく、薄暗くなった店の中へ、一歩また一歩と歩を進める。
 その時だった。

「生田さんって、若いのにエリアマネージャーになってすごいよなぁ」
「!」

 森下くんが、誰かと話している声が聞こえる。閉店後に他の社員は先に帰したから、恐らく電話だろう。
 そういえば森下くんは、近隣の店舗と仲がいいと聞く。人数が足りない時などはヘルプに行き、日ごろ会えない社員と交流を図れるのだ。となると、電話の相手は他店舗の社員だろう。時間は八時半。どの店舗も営業を終え、閉め作業に入っている時間だ。

「今日も色んなこと教えてもらってさー。そうそう、どんな客にも新規の携帯をこぎつけてすごいんだよ」

「こぎつける」と言い方は、どうなのかと思ったけど。
 素直に褒めてくれているから驚いた。こういう時は、悪口を言われるのがセオリーだと思ったからだ。
 あまり拘束するのも悪いと思いさっさと帰ったが、彼をご飯に誘うというのはどうだろう? 今日は私ばかり話してしまって、あまり彼の意見を聞くことが出来なかった。

 もし思い悩んでいることがあり、それ故の業績不振であるなら――
 そんな彼の不安を引き出すのも、私の仕事のような気がした。

 目と鼻の先にある充電器を一瞥した後。換気扇の下で、タバコを吸いながら電話をする森下くんに近づく。
 いや、近づこうとした、その時だった。

「でもあの年でエリアマネージャーってさぁ……そうそう。なんか嫌だよな。もう仕事に人生を捧げてる感じ? 今日だって、ニコリともしないんだ。あんまり目も合わないしさ。俺はロボットと話してるのかって、ずっと思ってたわ」
「……」

 伸ばし掛けた手を、急いで引っ込めた。充電器に触れないまま、急いで店の出口を目指す。
 その間も、私の背中には彼のストレートな声が容赦なくぶつかった。

「あとは香水? ちょっとキツめでさー。換気したかったから『今日は温かいから開けときますね』って言ったら、『ここは海が近く潮が入って来るから、携帯が痛む可能性があるのでドアは閉めてください』って言うんだ。参ったよ」

 電話相手が、私の真似をしたのだろう。森下くんは「そうそう」と笑った。

「でも、気の毒だよ。あぁやって店舗を回っては、敵を作っていくんだろ? 俺だったら頑張れないわ」

 その言葉を最後に、私は入って来た時と同じように、静かに店の外に出た。そうして音もなくドアを閉める。

「あ、充電器……まぁいいか」

 仕方がない。これから電気屋に行って、新しい充電器を買おう。まだ八時だから、開いているはず。
 私はかび臭い営業車に乗り込み、エンジンをかける。
 するとエアコンの吹き出し口から、さっき森下くんが吐いたタバコの煙に似た匂いが車内に広がった。時間が経つごとに、私がつける香水の匂いと混じり、不快なものになっていく。

「換気しよ」

 ウィンドウボタンを押そうと、サイドドアに手を伸ばす。
 だけど思い出してしまった。

 ――『ここは海が近いので潮が入って来るから、携帯が痛む可能性があるのでドアは閉めてください』って言うんだ。参ったよ

「……」

 もしかして今私が感じた同じ不快感を、森下店長も抱いたのだろうか。反対に、私の匂いって、これほど人の気分を悪くするもの?

 自分の服をクンと嗅ぐ。
 朝つけて以来、香水は、一度も追加でつけてない。それなのに、香水の香りが色濃く残っている……ような気がする。

 気のせい?
 森下店長に、あぁ言われたから?
 無意識の内に、脳内で匂いを再生しているのだろうか?
 それとも、本当に匂ってる?

 匂ってる、匂ってないを、花占いように繰り返す。そんなことを考えている内に、電気屋に着いてしまった。車から降りて吸った空気はどこか新鮮に感じて、少しだけ恨めしい。香水をつけた私とは違い、濁ってない気がしたのだ。

「香水をつける自分を、まさか悲観する日が来るなんて……」

 そんなモヤモヤとも落胆ともとれる気持ちを抱えたまま、買い物を終えてホテルに戻る。
 腕時計を見ると、夜の九時。ため息をつきながら、机の上に置いたビニール袋に視線を移す。

 「ご飯は……もういいか」

 今日は疲れた、色々と。
 フラフラ歩いて、ベッドに倒れ込む。ずっと立っていたから足がクタクタ。
 それに……空腹よりも堪えているのは、さっき聞いた言葉の方だ。

 ――でも、気の毒だよ。あぁやって店舗を回っては、敵を作っていくんだろ? 俺だったら頑張れないわ

 明日は別の店舗を回る。
 そうしたら私は、また敵を増やすのだろうか?

 そんなことを思っていたら、胸やけがしてご飯どころではない。
 しばらく動く気がおきなくて、夜中の変な時間まで、そのままの状態で寝てしまった。

 ◇

 翌朝、七時。
 携帯のアラームで目を覚ます。鳴るまで起きなかったが、そうかといってグッスリ寝られたわけじゃない。むしろ寝不足だ。夜中の変な時間に起きて、それから森下くんの言葉を思い出し、気持ちが濁ってなかなか寝付けなかった。途中、お風呂に入って目が冴えたせいもあるが、二度寝できたのは今から30分前だ。

「今日は、ここから三十分かかる店舗に行って、わざわざ敵を作るのか」

 なんて。
 昨日の自虐ネタを、自分で言って自分で冷笑するのだから世話ない。可愛げのない私は、確かに、敵を作りやすいのかもしれない。

「……さて」

 どれほど心に暗雲が立ち込めようとも、仕事の時間はやって来る。準備をしなければならない。
 ため息一つ零した後、のそりとベッドから降りる。
 第一関門、突破。あとは毎日のルーティンに従うだけだ。

 私は髪を一つくくりにするせいか、身支度にさほど時間がかからない。一昨日訪れた店舗では、ボブの髪をした社員が「今日は雨だから上手くきまらない」と、何度もバックヤードへ鏡をのぞきに行った。さすがに目を瞑っていることはできなくて、店長に「ほどほどにするように伝えて」と言ったけど……あれも敵を作る言動の一つだろう。

 昨日とは別のスーツに着替える。
 店舗の視察、という名の出張は、今日で終わりだ。一度本部へ戻り、報告書を作らないといけない。それが終わってひと段落したら、またこうして出張が入る。その繰り返しだ。

「あ……このホテル朝食がないから、どこかで買わないと」

 エリアマネージャーになってから、とにかく出張が増えた。「現場の声は現場に行かないと分からない」という会社の方針だ。
 私もこの考えにはおおむね賛成で、各店舗から送られてくる売り上げデータからは読み解けない事実が、実際に店舗へ行けば易々と判明することがある。
 だから出張は、利益を追究する上では有意義だ。
 私の心を削りながら行う点を除けば、だが。

「よし。これで終わり、っと」

 着替えが終わり、化粧も終わり、最後の仕上げにかかる。
 仕上げといっても簡単なもので、香水を一噴きするだけだ。
 蓋をきゅぽんと開ける。まるで魔法瓶のような入れ物は、見ただけで気分が上がる。中は上品なローズの香りで、私の一番好きな匂いだ。

「高かったけど、お金を出す価値はあったなぁ」

 この香水とデパートで出会った時の感動を、今でもハッキリ覚えている。

 私はあまりお金を使う方ではない。それなのに、この高級香水は「買う」と即断した。それには理由がある。
 この若さでエリアマネージャーに抜擢され、「どうしよう、私に務まるかな」と悩んでいた時期があった。その時に、この香水と出会ったのだ。高価だったけど、この匂いをかげば心が元気になって、頑張れる気がしたのだ。

 だから、この半年。
 私は仕事前に、必ずこの香水をつけている。

 「いい匂い……のはずなのに」

 手の甲に噴きかけようとして、躊躇した。
 思いとどまったのは、もちろん、昨日の森下くんの言葉を思い出したからだ。

 ――あとは香水? ちょっとキツめでさ

 そんなにキツイ?
 最近はスメハラなんて言葉もあるし、周りの迷惑にならないように気を付けていた。それなのに、まさか、そんなことを言われるとは。

 試しに、クンと自分の体を嗅いでみる。腕や足に鼻を近づけると、不思議なことに、確かに香水の香りがした。……昨日の帰社時と同じで「気のせい」かもしれないけど。

 今日はまだ噴きかけていないのに、どうしてだろう。
 大体、朝つけた香水なんて、夜には匂いが消えているものだ。それに、ちゃんと深夜にシャワーを浴びた。香りが残っている、ワケがない。

 だけど……やっぱり何度かいでも匂いがするのだ。
 これを「気のせい」にすることは、今の私にはできなかった。

 「今日は、やめておこう」

 念のため、ということもあり、噴きかけないまま蓋を閉める。
 というのは建前で――本当は怖かったのかもしれない。これ以上に敵を作ることが。

 エリアマネージャーという立場上、店舗についてあれこれ言わざるを得ない。だから「口うるさい」と嫌われるのも、仕方がない。だけどそれ以外の……例えば、私個人のことで嫌われる理由を作るのは嫌だった。

 「くさい上司、なんて言われたくないもんね」

 私は香水をしまった後。昨日の失態を再び起こさぬよう、忘れ物がないか、グルリと部屋を見渡す。
 そうしてスーツケースを引きながら、電気のスイッチを押した。
 最後に一瞥した「カーテンが閉められたままの部屋」は、心細くなるほどもの寂しかった。

 ◇

 車を走らせ、広島県尾道市に到着した。もっと混むかと思ったが、意外にも渋滞は免れた。故に、運転は短時間で済んだ。
 でも、どうしてか足が疲れている。30分ほどしか運転していないのに、足が重いのだ。
 やっぱり昨日の森下くんの言葉を気にして……いやいや、もう考えるのはやめだ。私はもう「今日を始めている」のだから。向き合うのは過去じゃなく、これからのことにしよう。

「そうだ、差し入れを持って行こう」

 それに、自分の朝ごはんがまだだ。昨日の夜も食べていないから、さすがに空腹が限界を超えている。早く着いちゃった分、店舗に行くまで、まだ時間はある。尾道市はグルメでも有名だし、ここからは自分の朝ごはんと店舗への差し入れを調達するとしよう。……決して、自分の株を上げようと思っているわけではない。ましてや嫌われないよう予防線を張っているわけでもない。上司が部下に差し入れをするのは、普通のことだ。

 言い訳がましいことを心の中で唱えながら、適当な所で駐車する。道を歩く人が多くなってきたから、近くに何かあるだろうと踏んだのだ。
 出張に慣れない間は、いったん車をコンビニに止めて「この辺りで有名なスポット」など検索した。でも何度も出張を重ねると慣れてくるもので、人の流動具合で観光スポットがあることを把握できる。

 目の前に線路が走る駐車場。そこへ慣れた手つきでバック駐車する。
 私は元から運転が得意だったわけじゃない。むしろ「下手」という自覚があっただけに、どこやかしこへ車を走らせるのは苦痛だった。
 しかし両方の手じゃ足りないほど出張を重ねれば、運転も慣れてくるというもの。この前久しぶりに母を乗せたら「上手ねぇ」と褒められた。私の中で運転イコール出張が結びついているから、その時は苦笑しか返せなかったけど。出張は、やっぱり疲れるものだから。

「わ、さすがにちょっと寒いな」

 車外へ出ると、キンと冷たい風が頬に当たった。
 12月は秋から冬へ、季節が足早に移動している時期だ。
 コートを羽織っているけど、髪をくくっているせいか首元が寒い。しかも、昨日と変わらず海が近いらしい。海風は寒く感じるというが、本当だ。

「あ、商店街がある。風をしのげそうだし、入ってみよう」

 現在、朝の八時すぎ。時間が時間のせいか、商店街を歩く人は疎らだった。
 ここは、日ごろ観光地として賑わっているんだろう。小人数だけどウキウキした表情の人たちが、軽い足取りで歩いている。

「私、浮いてるかも……」

 道行く人たちがオシャレをしている中、私一人がスーツ姿だ。仕事前に寄った私も悪いが、どうにも居心地が悪い。
 足も重たいし、やっぱり出ようか――なんて思っていると、すごくラフな格好をしたおじさんが前から歩いて来た。恐らく地元民だろう。見ると、商店街の外にはたくさんの家が並んでいる。どうやらここは観光客だけじゃなく、地元の人たちからも人気の商店街らしい。
 それによく見ると、私の他にもスーツ姿の人がチラホラいた。どうやら、ここが出勤ルートらしい。
「なんだ、私だけじゃないんだ」と思ったら、お腹がグゥと鳴った。安心して、再び足を動かす。

「朝ごはん、それに差し入れは何にしよう」

 見る限り、食べ歩きに適した場所だ。屋台で出るようなリンゴ飴や、老舗の雰囲気を漂わせるかまぼこの店がある。
 どれも美味しそう。だが、どれも差し入れには適さない。それに、まだ営業時間じゃない。さすがに朝の八時は早すぎた。
 商店街に入ったのは失敗だったかも――なんて思っていると、目と鼻の先にレトロなお店を発見した。

「へぇ、珈琲店」

 昔ながらの雰囲気を残しつつもオシャレを意識した、しっかりした店構えだ。ショーウィンドウにいくつかのメニューが展示されている。モーニングもあるらしい。中を見ると、既に灯りがついていた。このお店、もう開いてるんだ。
 だけど昨日の夜から何も食べていない胃に、いきなりガツンとモーニングを落とし込むのはよくない気がした。というのも、出張の疲れがたまってきたのか(はたまた昨日のストレスか)、お腹は鳴るけれども、胃がやさぐれ気味なのだ。

「あ、テイクアウトやってるんだ」

 メニューの端っこに「ドリンク テイクアウトOK」の文字を発見する。……いいかも。でも万全じゃない空腹の胃に、カフェインを入れていいものか。
 終わらない堂々巡りをしていると、お客さんが店から出てきた。手には今日の新聞を持っている。朝の珈琲タイムだったのだろうか。そうだとしたら、絵に描いたような老後だ。「私も早く退職したい」と、おじさんの背中をうらめしく見つめる。

 だけど、おじさんと一緒に出てきた珈琲の匂いに、すぐさま意識が店に戻る。
 ツンとしない珈琲の上質な香りを嗅げば、さっき悩んでいた胃のことなどさっさと忘れてしまった。
 気づいた時には、木製のドアを押し開いていた。

「いらっしゃいませ」

 カランカランとベルが鳴り、気づいた店員さんがすぐ声を掛けてくれる。店員さんが来ている制服も、モダンを感じるオシャレな白黒カラーだ。

「おひとり様ですね、ご案内します」
「いえ、あの……テイクアウトってお願いできますか?」
「もちろんです。こちらからお選びください」

 店員さんは入口近くのイスに私を座らせた後、メニュー表を持って来てくれた。
 ブレンドコーヒーやアメリカンコーヒーがある。どんな味がするんだろう? ミルクを入れずに、そのままの味を楽しみたい。だけどマイルドな気分にもなりたいな。一応、胃には気を遣って……。
 よし。ここでの正解は、カフェオレだ。

「カフェオレで」
「かしこまりました。少々お待ちください」

 店員さんは奥へ行き、まるで理科の実験室に置かれているかのような装置の前に立つ。
 あれは――サイフォンだ。

 丸いビーカーのような容器に水を入れ、その上に、既にひいた珈琲粉が入った筒をとりつける。一番下には、アルコールランプをセットするようだ。店員さんはランプに火を点けた後、水が入ったガラスの下へ、そのままスライドさせる。丸いビーカーのようなガラスに、直接火があたっている。割れないのかな……。

 ヒヤヒヤしながら見守っていると、不思議なことにだんだん心が落ち着いてくる。温度が高くなり、水が沸騰してきたのだ。コポコポと、耳障りの良い音が耳管を通って体に浸透していく。目を瞑ると、そのまま眠ってしまいそうな心地よさだ。

 沸騰した水は、やがて珈琲粉と融合を始める。
 まっさらなお湯に、茶色の珈琲がじわりと色を落として染めていく。そうしてしばらくも経たない内に、全てのお湯を茶色に染めあげた。

 透明は、茶色に勝てないんだな――そんなことを思う。
 結局、力が強い方が「目立つ」のだ。

「……」

 私の話をする、昨日の森下くんを思い出す。
 言ったもん勝ち、という言葉は好きじゃない。だけど世の中、その通りな気がした。言われてしまった昨日の私は、確かに「負けた」のだ。

「お待たせしました、カフェオレです。熱いのでお気をつけください」
「え、あ」

 ボーッとしている間に、カフェオレが完成してしまった。
 しまった、呆け過ぎた。口もパッカリ、無様に開いていた気がする。
 恥ずかしくなった私は「ありがとうございます」と、店員さんの目を見られないまま受け取った。

「わ、すごくいい匂い……」

 珈琲の濃い香りが、蓋をしたカップから漂ってくる。サイフォンで淹れるからこそ出る香りなんだろう。
 スーッと鼻で吸い、ホッと息を吐く。

 あぁ、癒される……。
 体に入った珈琲の香りが、隅々まで私を鼓舞してくれているみたいだ。

「ありがとうございました。またのお越しをお待ちしております」
「ごちそうさまでした」

 いや、「これからごちそうになります」と言った方が、正しいかもしれない。退店する時の、いつもの調子で挨拶してしまった。
 最後まで店員さんに恥ずかしい姿を見せてしまったような気がしたけど、「また来たいな」と思った。退職までしなくとも、休日の朝、ここでモーニングを食べることは出来るはずだから。その時は新聞の代わりに、お気に入りの小説を持って行こう。できれば明るい物語がいい。終わりはハッピーエンド、一択だ。

「よし、次は食べ物を買おう」

 さっきより軽い足取りで、再び商店街を歩く。
 カフェオレを持つ手を、胸の高さまで持ち上げているからだろう。いい香りが私から離れない。そのおかげで、私の気分はずっと良かった。さっきのサイフォンのように、コポコポと、ゆっくり満たされていくのが分かる。

「ん、濃くて苦い。だけど美味しい」

 我慢できなくて、立ち止まってカフェオレを飲む。今まで飲んだ中で、間違いなく一番おいしかった。細胞の全てに、この美味しさが染み込んでいってるような気がする。
 匂いだけでなく味にも満たされて、いい意味で頭が真っ白になっていく。

「はー……、うん」

 目をギュッとつむり、静かに喜びを表現する。
 寒空の下、この珈琲に出会えた私は、もしかしたらすごく運がいいのかもしれない。

 ◇

 しばらく歩くと、ある香りが鼻孔をくすぐった。

「パン屋さんって、やっぱり朝が早いんだ」

 バターのいい香りが、ここら一帯に漂っている。まるで匂いに手を引かれるように、パンのマークが書かれてある店に入った。
 少し苦みのあるカフェオレに、甘いパンはちょうどいいかもしれない。きっと相性抜群だろうし、このパン屋で朝ご飯を調達するとしよう。

「いらっしゃいませー」

 ちょっと優雅な気分でいる私とは反対に、店内は驚くほど狭かった。入る前に「狭そうだな」とは思っていたけど、入ってみると想像以上だ。
 人が向きを変えるのも精いっぱいな店内。そこでは一つでも多くのパンがお客の目に留まるように、工夫して陳列されている。

「あ、この置き方いいなぁ」

 頭の中に、携帯ショップの内装が蘇る。
 ショップはこのパン屋より広いが、そうかといって無限に面積があるわけではない。故に、ディスプレイには気を遣う。一台でも多くのモデム機を展示することで、機種の魅力をアピールし、お客に「欲しい」と思ってもらわなくてはならない。
 しかし、すし詰め状態になっても、それはそれで見えにくい。余白があってこそ、オシャレは生まれるのだ。

 展示は高級感が漂うように、且つ、一台でも多くの機種をアピールできるように――

 昨日、自分が言ったことではあるが、現実化の難しさを噛み締める。
 森下くんの言葉に傷ついた私だけども、私こそ無理難題を言って、彼を傷つけたのではないだろうか。
 
「おっと、失礼」

 店内は狭いというのに、お客の数は多かった。皆が皆、パントレーを持つ手の置き場に困っている。
 他のお客さんに当たらないように、もちろんパンにも当たらないように――そうやって、それぞれが気を配っているのがよく分かる。
 店内は窮屈に感じるが、そんな配慮が交差する店は、なんだか居心地がよかった。

「ありがとうございましたー」

 お客は皆さっさとパンを選んで、素早く店を出た。店員さんも回転率を意識しているのか、客を待たせることがない。全てのパンの値段を覚えているようで、レジスターさばきも見事だ。ここに就いて、もう長いのだろう。残像を終えないほどの早打ちに、つい目が釘付けになる。

 って、そうじゃない。
 私も早くパンを選んで、他のお客さんの邪魔にならないよう、すぐ店を出ないと。

 グルリと店内を見回す。一番多く積まれているのは、クロワッサンだった。これなら空っぽの胃にいれても負担は少ないだろう。
 クロワッサンを一つ、トングで優しく挟み込み、レジへ持って行く。その時、カウンターに置かれてあった「切れ端ラスク」も、ちゃっかり会計に加えてもらった。

「ありがとうございましたー」

 ホカホカのクロワッサンが入った紙袋。追加でビニール袋をもらい、腕に引っ提げる。
 クロワッサン一つだけだから、袋からは重さという重さを感じない。が、しいて言うなら心が重くなった。ホクホクした気持ちになっている。これが「満たされる」というやつだろうか。はたまた、幸せというやつ?

「そういえば食べ物に関心を寄せるなんて、いつぶりだっけ」

 ご飯を食べる時は、とにかく時短重視だ。コンビニで食べやすいおにぎりを買い、営業車の中でさっさと食べる。
 スピードが命のご飯は、食べ物の見た目も、味も、匂いも、さして重要ではない。そもそも眼中にないのだ。食べている時でさえ、パソコンと睨み合っているから。抱える店舗数が多ければ多いほど、ひっきりなしに連絡が来る。

「あ」

 そんなことを考えていたら、ちょうど携帯が鳴った。本部からのメールだった。
 近くのベンチに座り、珈琲とパンを隣に置く。
 燃え上がる炎に一気に冷水をかけるような心持ちで、携帯のスリープを解除した。

【昨日の尾道店の売り上げが極端に悪い。今日訪問するなら、しっかり分析し営業のノウハウを教えてくるように】

 一方的な文面を見て、思わずため息が声に出た。言い方は優しいが、これはつまり「叱ってこい」という意味だ。

 どうして分かるかというと、初めて出張に行った時も、同じメールをもらったからだ。
 あの時は【初めての出張先は、ちょうど業績の悪い店舗だ。売上アップにつながるよう叱咤激励するように】という文面だった気がする。

 額面通りに受け取った私は、店舗に赴き、社員を励まし奮い立たせた。「働いている場所は違うけど、互いの目標は同じ。だから頑張ろう」ということを言った。そしてそれを本部に報告した。そうしたら「誰が仲良しこよしをしてこいと言った」と私が𠮟咤激励されてしまった、というわけだ。……いや、この場合「叱られただけ」で励まされてはいないか。

「はぁ……」

 当時のことを思い出し、心臓にポツポツと穴が開いていく気分になった。せっかく珈琲店とパン屋で積み上げた幸せが、その穴から零れ落ちていくようだ。
 上と下に挟まれる中間管理職が、まさかこれほど神経をすり減らすものだったなんて。内示を受けたあの時の私は、全く予想していなかったな。

 もう一度ため息をついた時。隣に置いたビニール袋が、風を受けてガサリと音をたてた。
 袋は、そのまま私にもたれかかる。すると風に乗って、パンの甘い香りが漂ってきた。

 あぁ、癒される。幸せの匂いだ。
 さっき穴が開いた心臓が、まるで修復されていくよう――

 こらえきれなくなって、パンの袋を開ける。途端に、ふわりとバターの香りが漂う。すると幸せを感じた心臓は、また修復し、頑丈になった気がした。

「もう、ここで食べちゃおう」

 いつも常備している消毒用アルコールを、両手にシュッシュッと振りかける。ツンとした匂いが立ち込めたけど、本当に消毒できたのか疑ってしまうほどすぐ消えた。私が持つパンの匂いにかき消されたからだ。
 私は形を崩さないように、クロワッサンを弱い力で持ち上げる。焦げ茶色に焼けた皮が、パリパリとくすぐったそうに音を立てる。匂いも一段と濃くなり、口の中は既によだれでいっぱい。パンは、もう目の前だ。

「いただきます……っ」

 買ってからさほど時間が経っていないのに、すごく待ちくたびれた気分だった。そのせいか、クロワッサンを頬張ろうとする唇が小刻みに震える。
 えいやと勢いをつけ、そのままカプリとかじりつく。クロワッサンはまず私の唇に当たって皮が砕け、次に私の口に入って中身まで砕けた。

「ん~っ!」

 柔らかい、だけどパリッとした硬い食感もある。クロワッサンの中と外で、こうも食感の違いがあるなんて。
 焼きたてだから出来ることなんだろう。パン屋の人たちは、きっと私が起きるよりもずっと早く、このクロワッサンを作ってくれていたのだ。

 まだ夜が明けきらない中、店員さんが大きな生地を力強くこねる姿を想像する。
 すると鼻の奥がツンと痛くなった。
 頑張っているのは私一人じゃない――そんな勇気を、クロワッサンからもらえた気がした。

「ごちそうさまでした」

 涙目になりながら、感無量で完食する。気がつけばカフェオレもパンも、きれいさっぱりなくなっていた。そうだというのに私の周りには、二つの匂いが残っている。もう食べ物はないのに、まだ幸せが続いていた。

「今日、香水をつけなくて良かったなぁ」

 いつも自分を奮い立たせるためにつける香水。もちろん匂いが好きで買った香水だったけど、今この時ばかりは「つけていなくて良かった」と心から思った。今朝いつも通りつけていたら、カフェオレやクロワッサンの残り香を楽しむことは出来なかっただろう。
 森下くんにあぁ言われた時は深く傷ついたけど……結果オーライだ。
 あ――

 「そっか……。私は『傷ついて』いたんだ」

 よく考えれば、部下からあんな風に言われて傷つかないわけがない。それなのに「香水をつけないこと」や「差し入れを持って行くこと」に意識を向け、傷つくことから逃げていた。昨日のことを考えないようにしていた。自分を守るように、体の奥底へ心を沈めていたのだ。
 だから今日、朝から足が重かったんだ。やりきれない思いを、ちゃんと昇華しなかったから。

 昨日――わざわざ店舗へ充電器を取りに戻ったのに、そのまま引き返した自分を思い出す。
 あの時に彼と話し合えば、はたまた飲みにでも誘えば違ったのだろうか。……いや、迷惑なだけか。好きでもない上司と飲みなんて、それこそ嫌われる。

 もしかしたら今から足を運ぶ店舗の社員からも、同じように嫌われるのだろうか。それは、嫌だな――

 そう思うと無意識の内に、カバンの中へ手が入り込む。不安に染まった心はもう、いつもの香水を求めていた。
 だけどそれが指先に触れた時。ビニール袋の中に、まだ何か入っているのが見えた。会計の時に、とっさに買ったラスクだ。

 キレイにラッピングされた袋を解き、カリカリに焼けたパンの耳をつかむ。まんべんなく砂糖がかけられており、キラキラ光っている。まるで宝石をつけてもらい嬉しそうに笑っているみたいだ。
 私はそれを、鼻先へ持って行く。するとクロワッサンとは違う甘い香りが、鼻孔をスーッと通り抜けた。さっきかいだ「幸せの匂い」を、瞬時に思い出す。すると重くなっていた心が、ヘリウムを入れて貰った風船みたいにフワリと浮いて軽くなった。
 私はえいや、とラスクを口に運ぶ。ゴリゴリ音を立て咀嚼していると、いい意味で頭が空っぽになってきた。

 香水をつければ、仕事が上手くいくような気がした。人間関係が円満になる気がした。その時に不安に思っていることを、香水の力をかりて「私はできる、大丈夫」って強気に変換した。ようは願掛けしていたのだ。自分の心を、香水に委ねていた。

「そうしている内に、自分の気持ちが見えなくなってしまったのかも」

 だから自分が傷ついたことにも、一日遅れで気づいた。そもそも自分の心に、目を向けようとさえしなかった。「また香水をつけて頑張ればいい」って、そう思っていたから。あの匂いを嗅げば、私は頑張れるのだから。
 でも、違った。

「私がつける香水は、自分を誤魔化す匂いだったんだ」

 心が傷ついたなら、ちゃんと修復しないといけない。
 傷ついたまま放置していると、いつか心は穴だらけになって限界がくる。
 だから、ちゃんと労う。自分に目を向ける。
 香水の匂いに紛れて、自分に鈍感になったらダメなのだ。

「鎧のように香水をまとっていたらダメだよね。――よし」

 雨雲が晴れていくような心持ちの中、自分のスーツをクンとかぐ。すると香水ではなく、クロワッサンとカフェオレの匂いが香った。ちゃんとご飯を食べたという、「生」を実感する匂いだ。私の心が、再び動き出した匂い。

 私は一笑し、もう一度パン屋へ向かう。他のお客に配慮しながら、複数選んだ。確か六個もあれば足りるはず。
 再び店員さんの「ありがとうございましたー」を聞き、パン屋を出る。そうして元来た道を戻って行く。

 私が車を降りてから今までの間に、わずかに客足が増えたらしい。まるで眠りから覚めたように、商店街が賑やかになってきた。
 屋根のある商店街は、通りゆく人々の声を拾う。大きな声は、ことさらモワンと反響した。屋根がアーチ形だから、まるでトランポリンみたいだ。楽しそうな声が、何度もはずんで響く。

 さっきより日が高くのぼってきた。屋根の向こうから、温かな陽気を感じる。
 ぽかぽかと温かい。私が持っているパンと同じ。

 今私は、温かい物たちに包まれている――
 そんな事実をこうして実感できることに、すごく幸せを感じた。
 匂いや温度を感じる心の余裕を、私は今、手にしているのだ。

 次に手をかけたのは、あの木製のドアだ。

「いらっしゃいませ」

 さっきと同じく、珈琲店の店員さんが迎えてくれた。私のことを覚えてくれていたのか「あ」と、笑みを浮かべてくれる。

「テイクアウトですね、こちらをどうぞ」

 さっきと同じく入り口近くのイスに私を案内し、メニュー表を見せてくれる。ここでも私は、六個の珈琲を注文した。すると店員さんはお辞儀をした後、キレイな動作できびすを返す。
 だけど、もう一度。なぜか私の方を振り返った。

「そちら、とてもいい匂いのするパンですね」
「!」

 まさか、そんなこと言われるとは思わなかった。驚きだ。
 だけど、私が「自分を取り戻した匂い」を褒めてくれて嬉しかった。今の私すごくいいじゃん、って。そう言われた気がする。

「私、このパンと、こちらの珈琲が大好きなんです。だから職場の皆にもあげたいなと思って」
「ありがとうございます、嬉しいです。では、少々お待ちくださいね」

 珍しく自分の気持ちを素直に口にすると、店員さんは満面の笑みを浮かべた。
 その顔を見ると、いつも笑顔の森下くんを思い出す。

 昨日の今日だけど……連絡してみようかな。
 私が鎧を脱いで自分を見せれば、彼も笑顔だけでなく、本音を見せてくれるかもしれないし。

 失敗するかもしれない。だけど出来ることをやってみよう。
 自分を誤魔化すことなく、体当たりで接するんだ。
 彼に背を向けたまま帰るなんて、もうしたくないから。

「あ、社内カレンダーが更新された」

 珈琲を待っていると、社内携帯から通知がくる。
 私の欄を見ると、二週間後に「岡山県笠岡市に出張」と新たな予定が入っていた。
 こんな風に急に出張が決まるのは、もう慣れっこだ。気持ちがついていかなくて、「行きたくないなぁ」って独り言ちるまでがセット。
 だけど、今は違う。

「岡山県と言えば、きびだんごが有名だよね。でも笠岡市は海が近いから、団子よりも海産物かなぁ?」

 あれだけ気が重かった出張も、「幸せな食べ物と出会えるかも」と思うと苦にならない。それに今日みたいに、今まで気付けなかった自分を知っていくのは楽しい。まるで食べ物を通して、私が私を研究しているようだ。

 でも、それも悪くない。
 自分を誤魔化していた昨日より、今日の私の方が生き生きしているから。
 これが食べ物の力なのだろう。美味しい食事をすれば、想像以上に心が満たされる。その重さを、きっと人は幸せと呼んでいる。

「次は、何の差し入れを持っていこうか」

 すると店員さんが戻ってくる。その手には、持ちやすいように包んでくれた珈琲たち。私は鼻から息を吸いこんだ後、お礼を言って木製のドアから出る。
 そうして来た時とは考えられないほどの軽い足取りで、駐車場を目指した。

【完】