おれとぼくの恋愛事情

 マンションのエントランスを出ると人影があったが、そのまま通り過ぎようとしたら、「陽向」と名前を呼ばれた。
 声のした方を振り返ると、そこには沙羅がいた。
「沙羅……なんで……」
「そんなに驚いた顔しないでよ」
「だって沙羅がここにいるなんておかしいじゃないか」
「おかしくないわよ」
 沙羅は笑っていた。
 でも、その目だけは少しも笑っていなかった。
 彼女はずっと腕組みをしている。怒っている時の癖だ。
「だって、私はずっと陽向の後をつけていたんだから」
 一瞬、言葉の意味が分からなかった。
「……いつから?」
やっと出た声は、自分でも驚くほどかすれていた。
「去年の秋くらい。陽向、何かと理由をつけて私と帰らなくなったでしょ。それで後をつけることにしたの。そしたら、毎週ここに立ち寄ってることが分かった」
「何度も後をつけたの?」
 沙羅の驚くべき執着心と行動力は、よくも悪くも並外れている。
「一回じゃ偶然かもしれないから、何度かね」
「何のために……」
「それは陽向が一番わかってるじゃない?」
 沙羅はそれ以上、何も言わなかった。
 だから、僕の方から言うしかなかった。
「僕の心が沙羅以外に向いているから?」
 沙羅に、嘘やごまかしは通じない。
 するとうつむいている沙羅から鼻をすする音が聞こえてきた。
「絵を描くこと以外、陽向は興味がないと思ってた。だから、隣にいれば絵の次には私に興味を持ってくれると思ったのに。何で?何で清水琉生なの?」
 沙羅の目から涙がこぼれ、頬を伝った。彼女は顔を歪ませた。
 背中を丸め、お腹を抱えるような姿勢で「痛っ」と小さく言ったが、僕には聞こえなかった。
「ごめん」
「ごめんって何?答えになってない」
「沙羅はずっと子どもの頃から僕を見守ってくれた。本当に感謝している……でも、琉生は、琉生は大事な人なんだ。好きとか恋とかそういうのを越えて、僕の人生の一部なんだ」
 それでも、泣いている沙羅を置いていくことはできなかった。
 涙目になっている沙羅の手を取り、自宅まで送り届けた。
 手を取った瞬間、沙羅の指先がひどく冷たいことに気づいた。
 けれど、泣いていたせいだと、その時の僕は思ってしまった。
 僕たちは……一言も話すことなく歩いた。