さよなら、ブラック

その辺りからだと思う。
どちらからも、
「付き合ってください」
なんてことは一度も言ったことはなかったけれど、わたしたちは、おそらく付き合っていた。
ある日突然、「彼氏彼女」になったわけじゃなくて、日を重ねるごとにそうなっていった感じ。
一緒に買い物に行ったり、お茶したり、マイナーな映画を観たり、図書館へ行ったり。

ただ、わたしが他の女性たちと少し違っていたところは、できるだけムードのある雰囲気を作り出そうとしなかったことと、夜は早々に帰宅するようにしていたことだった。
関係が一歩前進するのが、たまらなくおそろしかった。
歩のことを好きになればなるほど、自分の首を絞めているような、そんな気持ちになった。

ある日、わたしたちは大学のすぐそばを流れている川原を散歩していた。
夕日がきらきらと水面を照らして、ゆらゆらと揺れている。
辺りが全部オレンジ色に染まっているのを見ると、ああ今日もいい一日だったなぁ、なんてことを思う。
だけど、少し前を歩いている、わたしには理解できないぶっ飛んだ服を着ている歩を見ると、詩情漂う風景にUFOが不時着しているみたいでごちゃまぜで、なんだか変な気分になった。

ごろごろとした石の上を歩いて、水辺まで行こうとしている時に、わたしは石に足をとられてバランスを崩してしまった。
それにすぐ気がついた歩は、すかさずわたしの腕をつかんで、小さな危機を救ってくれた。
「大丈夫?」
腕をつかんだまま、優しいまなざしを向ける。
目が合った。
その視線を受け止められなくて、わたしはうつむいたまま小さくうなずいた。
歩はわたしの手をぎゅっと握り、水辺まで連れて行ってくれた。

「あ」
歩は何かを見つけたのか、突然その場にしゃがんだ。
「よし。つかまえた」
そう言って、わたしに見せたのはサワガニだった。
まるで子供のように、つかまえたサワガニをあちらこちらから眺め回している。
「持ってみる?」
そう言って、わたしの目の前にサワガニをかざすので、わたしは丁重にお断りした。
「子供のころさ、よくつかまえたよ」
「家の近くにサワガニがいたんだ」
「うん。たまに道路とか横断してるんだよ」
なんてことを言うので、
「うっそだぁ」
と言うと、わざわざわたしに向き直って。
「本当だって!犬の散歩してる時に見つけたんだもん。しかもそのカニったらさ、犬の鼻を挟んじゃって、大変だったんだよ」

その時、歩の手からサワガニが落ちた。
「あ」
サワガニは、チャンス!とばかりにその場から逃げていった。
わたしは、サワガニの行方を目で追った。
「わんちゃん、かわいそう。痛かっただろうね」
「そりゃあもう。悲鳴あげてたもん」

歩もサワガニを目で追った。
サワガニは、石の影に隠れてしまった。
川に目を戻すと、金色の水面の上をはねる魚を見つけた。
「今、魚、飛んだね!」
「うん」
わたしが興奮しているのを見て、歩は目を細めた。

しばらく水面を眺めていた。
魚たちは、自由気ままにはねているように見えた。
生ぬるい初夏の風が通り抜けていく。
せせらぎが、いやに大きく聞こえた。
「ねえ、みちる」
「なに?」
歩にちらりと顔を向ける。
それは本当に唐突だった。

「キスしても、いい?」
そう言って、わたしの頬に触れようとするので、わたしは無意識に一歩下がってしまった。
歩は、わたしに触れようとしたその手をゆっくり下ろし、
「ごめん」
と呟いた。
落胆しているのが、わかった。

やってしまった。
わたしは、歩を落胆させたいなんて思っていないのに。
体が勝手に逃げてしまう。
わたしだって、歩のこと、好きなのに。
なんで、できない?
歩は、あいつじゃないのに。
あいつじゃないのに……。

少し息苦しくなった。
体が思うように動かない。
どうしたらいいか、わからない。
わたしは、小刻みに何度も首を横に振っていた。
呼吸が少し荒くなった。
「みちる?」
歩は心配そうに、わたしの顔をのぞき込んだ。

「……さい」
「ん?なんて?」
歩は、穏やかにゆっくりと聞き返す。
「……ごめんなさい」
消えそうな声で呟いた。
歩は大きく首を横に振って、
「俺の方こそ、ごめん」
と言って、後ろからわたしを包み込むようにそっと腕を回した。

温かかった。
背中に、歩の鼓動を感じた。
ほっとした。
ほっとしたら、胸の奥につかえていたものが溢れ出てきて、わたしは思わず歩の腕をぎゅっとつかんだ。
涙が溢れて、止まらなかった。
ぽたり、ぽたりと、歩の腕にわたしの涙が落ちた。
歩は何も言わず、ただわたしを包んでくれていた。