さよなら、ブラック

本当に、歩はあの桜の木の下によくいた。
授業をちゃんと受けているのだろうか、とこちらが心配してしまうくらい、しょっちゅう見かけた。
彼はそこで、大半は本を読んで過ごしているようだった。
わたしは中庭で歩に会うたび、声をかけたり、目だけであいさつをしたりした。
彼はそれに優しく応じてくれた。

「こんにちは」
と声をかければ、
「こんにちは、元気?」
と。
わたしが目だけで微笑めば、彼もにっこり笑って返してくれた。
日に日に彼にひかれていく自分に気がついていた。
そして、それと同時にむくむくと不安も大きくなった。

ある日、いつものように桜の木の下で歩に声をかけたら、突然、
「今から映画、見に行く?」
と誘われた。
体の中の何かが、固まったのがわかった。

「それは、つまり、デートのお誘いなんでしょうか」
わたしのその直球の問いに、歩は少し照れくさそうにして、
「一応、そのつもりなんですけど」
と言って、こめかみを人差し指でかいた。
これは嬉しい出来事のはず。
間違いなく嬉しい出来事のはずなのに、素直に喜べない。

この関係の先には、何があるの?
何が起こる?
それを考えると、頭の中にどす黒いものがたち込める。
映画鑑賞用彼女じゃだめかな。
もしくは、茶飲み彼女。
うまく相づちだって入れるよ。

そんなことを考えていたわたしの顔は、きっとよほど沈んでいたのだろう。
歩は、
「無理なら、いいよ」
と優しく言ってくれたけれど、少し残念そうなのが見てとれた。
彼を悲しませるつもりなんてまったくないのに、そんなことを言わせてしまった自分が嫌になった。
「行くよ」
そう言って、わたしは精一杯笑顔を作った。

「何か見たいの、ある?」
歩は芝生の上にあぐらをかく。
「突然言われても……」
わたしが考えを巡らせていると、
「じゃ、俺が見たいのでもいい?」
と言うので、わたしはうなずいた。

一緒に映画を観に行くことはもちろん緊張感を高めたが、魚のウロコのような模様のカットソーと、レンガ色のパンツを履いている歩の隣を歩くことも、わたしにはかなりの勇気がいった。
顔だって端整だし、清潔感もあるのに、この服のセンスだけは受け入れられなかった。
これはこれで、いいのだろうか。
わたしが無難な服が好きなだけで、見る人が見れば、これはイケているんだろうか。
そんなことを考えているわたしをよそに、
「じゃ、行こっか」
と言って歩は立ち上がり、そのパンツについた芝生を払った。

歩に連れていかれたのは、シネコンではなくて、昔からある小さな映画館だった。
上映されている映画は、テレビのCMではお目にかかったこともないようなマイナーなものだった。
わたしはこのような映画館には来たことがなかったので、きょろきょろと辺りを見渡した。
そして、重大なことに気づいた。

「ポップコーンが売ってない!」
わたしが、まるでまちがいさがしの間違いを見つけ出したかのようなノリでそう言うと、歩は吹き出した。
「みちるちゃん、おもしろい」
いやいや、ちっともおもしろいことなんて言っていない。
わたしにとっては大発見だ。

まだ、さっき吹き出したのが収まりきれてない歩が、
「みちるちゃん、上映中にポップコーン食べる派?」
と言うので、
「お腹が空いてる時は、食べる派」
と答えると、
「俺は、いかなる時も食べない派」
と言って、にやりとした。

歩と観たその映画は、わたしには理解不能だった。
わけがわからなかった。
そういう意味では、とても印象に残る映画ではあったけれども。
これを彼は、おもしろいと感じるのだろうか。

エンドロールを眺めながら、そんなことを思った。
他の客はそろそろと外へ出ていくのに、歩はいっこうに動こうとせず、ただじっとエンドロールを見つめている。
この人は、エンドロールを最後まで見る派。
心の中でひとりごとを呟いた。
そして、館内にぼんやりと明かりが戻ると、歩は立ちあがって伸びをした。
細長い体が、ますます細長く見えた。

「さ、行こうか」
そう促されて外へ出ると、歩は、
「どうだった?おもしろかった?」
と尋ねるので、
「う~ん……わたしには、ちょっと難しかった、かな」
と正直に告げた。

すると、歩は、
「うん。わけわかんなかったね」
と、さらりと言って笑った。
自分が観たいって言ったくせに。
なんなんだ、この人は。
と思った。