さかのぼること30分前。
わたしは大学の中庭にいた。
雲ひとつない真っ青な空に、まるで特大の定規をあてて描いたような飛行機雲を見つけ、それが伸びるのを眺めながら歩いていた。
次第に自分の視界に、青々とした桜の若葉が入ってきて、きらきらとした木漏れ日に見とれそうになった時。
自分のつま先が、何かにぶつかった。
「痛っ!」
足元を見るのと同時くらいに、足元から男の声がした。
そこには、耳を抑えて顔を歪めている男がいた。
男のすぐそばに、ハードカバーの本が転がっている。
どうやらここで寝転んで本を読んでいたらしい。
そこへ、わたしのローキックが彼の耳を直撃したようだ。
「すみません」
わたしは膝に顔がつくくらい頭を下げて謝ると、その男は、
「ああ、痛かったぁ。耳がめり込むかと思った」
と言って、ゆっくり体を起こした。
「本当にごめんなさい」
わたしはもう一度、頭を下げた。
その男は、耳を気にしながら立ち上がり、ビンテージ風のジーパンについた草を払った。
「キミ、なかなかの荒技持ってるね」
そう言うと、男はにんまり笑った。
立ち上がったその男は背が高く、子供を見下ろすようにわたしを見た。
「ごめんなさい」
木を仰ぐように男を見上げると、目が合ってしまった。
思わず目をそらし、彼の紫色のスニーカーに視線を落とした。
「じゃあ、おわびにさ。お茶でもおごってよ」
その一言で、わたしは今、その男とこのカフェにいる。
髪の色こそ変えていないが、グリーンの幾何学模様のカーディガンに、指にはシルバーのリング。
多分、この人アート系。
彼を前にしてそんなことを考えていた。
そして、レモンティを優雅に飲む男を見て、だんだん冷静になってきて思った。
結局あれって、ナンパみたいなものだった?
素直におわびしようと思っていたのに、なんだか虚しくなってしまった。
「さっきさ、何考えてたの?」
突然、男が口を開いた。
「え、っと……何も考えてませんでした」
わたしがそう言うと、男は小さく笑った。
テーブルに頬づえをつき、わたしに顔を近づける。
「キミ、おもしろいね」
そう言って、くすりと笑った。
褒めてもらっているとは到底思えず、わたしは顔がひきつった。
「あなたは、さっきなにを読んでたんですか?」
「俺?官能小説」
男のその言葉にドン引きした。
それを男も察したのか、
「うそうそ。デンドロカカリヤ読んでた」
と、何かの呪文のような言葉を唱えた。
「デンデン、カナリヤ?」
わたしがそう言うと、男は吹き出した。
「それじゃあ、でんでん虫とカナリヤの話みたいじゃない。デ、ン、ド、ロ、カ、カ、リ、ヤ」
と言って、まだ笑っている。
「ふ~ん」
まったくわからないという顔をしていると、
「けっこうおもしろいんだよ」
と言って、微笑んだ。
アート系だと思ったその男は、文芸サークル所属で、しかも工学部情報工学科の人間だった。
あの服のセンスとあの軽さ、そして文芸サークルと工学部がどれもミスマッチで、わけのわからない人だと思った。
「じゃあ、ここはキミのおごりね」
そう言って、男は伝票をわたしに差し出した。
「は、はい」
本当にこれはおわびだったんだ、と伝票を受け取りながら思った。
レジを済ませて店の外に出ると、男は「ごちそうさまでした」と言って合掌した。
「いえ」
わたしは首を横に振りながら、財布をバッグに入れた。
「じゃ、またね」男は軽く手を上げ、あっさりとその場を去ろうとするので、
「あの!」
わたしは思わず呼びとめてしまった。
「なに?」
男は首を傾げる。
「名前、なんていうんですか」
わたしのその問いに、男はにんまり笑った。
「大木歩。キミは?」
「わたしは、久我みちる」
「みちるちゃんね。OK、覚えた」
そう言って、その場を去ろうとした歩は、もう一度振り返り、
「俺、あそこによくいるから」
と言って、軽く手を上げ去っていった。
わたしは大学の中庭にいた。
雲ひとつない真っ青な空に、まるで特大の定規をあてて描いたような飛行機雲を見つけ、それが伸びるのを眺めながら歩いていた。
次第に自分の視界に、青々とした桜の若葉が入ってきて、きらきらとした木漏れ日に見とれそうになった時。
自分のつま先が、何かにぶつかった。
「痛っ!」
足元を見るのと同時くらいに、足元から男の声がした。
そこには、耳を抑えて顔を歪めている男がいた。
男のすぐそばに、ハードカバーの本が転がっている。
どうやらここで寝転んで本を読んでいたらしい。
そこへ、わたしのローキックが彼の耳を直撃したようだ。
「すみません」
わたしは膝に顔がつくくらい頭を下げて謝ると、その男は、
「ああ、痛かったぁ。耳がめり込むかと思った」
と言って、ゆっくり体を起こした。
「本当にごめんなさい」
わたしはもう一度、頭を下げた。
その男は、耳を気にしながら立ち上がり、ビンテージ風のジーパンについた草を払った。
「キミ、なかなかの荒技持ってるね」
そう言うと、男はにんまり笑った。
立ち上がったその男は背が高く、子供を見下ろすようにわたしを見た。
「ごめんなさい」
木を仰ぐように男を見上げると、目が合ってしまった。
思わず目をそらし、彼の紫色のスニーカーに視線を落とした。
「じゃあ、おわびにさ。お茶でもおごってよ」
その一言で、わたしは今、その男とこのカフェにいる。
髪の色こそ変えていないが、グリーンの幾何学模様のカーディガンに、指にはシルバーのリング。
多分、この人アート系。
彼を前にしてそんなことを考えていた。
そして、レモンティを優雅に飲む男を見て、だんだん冷静になってきて思った。
結局あれって、ナンパみたいなものだった?
素直におわびしようと思っていたのに、なんだか虚しくなってしまった。
「さっきさ、何考えてたの?」
突然、男が口を開いた。
「え、っと……何も考えてませんでした」
わたしがそう言うと、男は小さく笑った。
テーブルに頬づえをつき、わたしに顔を近づける。
「キミ、おもしろいね」
そう言って、くすりと笑った。
褒めてもらっているとは到底思えず、わたしは顔がひきつった。
「あなたは、さっきなにを読んでたんですか?」
「俺?官能小説」
男のその言葉にドン引きした。
それを男も察したのか、
「うそうそ。デンドロカカリヤ読んでた」
と、何かの呪文のような言葉を唱えた。
「デンデン、カナリヤ?」
わたしがそう言うと、男は吹き出した。
「それじゃあ、でんでん虫とカナリヤの話みたいじゃない。デ、ン、ド、ロ、カ、カ、リ、ヤ」
と言って、まだ笑っている。
「ふ~ん」
まったくわからないという顔をしていると、
「けっこうおもしろいんだよ」
と言って、微笑んだ。
アート系だと思ったその男は、文芸サークル所属で、しかも工学部情報工学科の人間だった。
あの服のセンスとあの軽さ、そして文芸サークルと工学部がどれもミスマッチで、わけのわからない人だと思った。
「じゃあ、ここはキミのおごりね」
そう言って、男は伝票をわたしに差し出した。
「は、はい」
本当にこれはおわびだったんだ、と伝票を受け取りながら思った。
レジを済ませて店の外に出ると、男は「ごちそうさまでした」と言って合掌した。
「いえ」
わたしは首を横に振りながら、財布をバッグに入れた。
「じゃ、またね」男は軽く手を上げ、あっさりとその場を去ろうとするので、
「あの!」
わたしは思わず呼びとめてしまった。
「なに?」
男は首を傾げる。
「名前、なんていうんですか」
わたしのその問いに、男はにんまり笑った。
「大木歩。キミは?」
「わたしは、久我みちる」
「みちるちゃんね。OK、覚えた」
そう言って、その場を去ろうとした歩は、もう一度振り返り、
「俺、あそこによくいるから」
と言って、軽く手を上げ去っていった。

