さよなら、ブラック

ホテルに着く頃には日が傾いていた。
小高い丘の上に建つその小さなホテルの部屋からは、海が一望できた。
「すごい」
わたしは荷物を置いて、ベランダへ出た。

目の前に広がる水平線。
ぽっかりと浮かんでいる夕日。
オレンジ色に染まった海がきらめいていた。
「きれい」
「本当だね」
わたしの隣に、歩がそっと寄りそった。

時折、心地よい潮風が吹く。
少しずつ、太陽が海に沈んでいく。
地球が動いていることを実感する。
「なんだか、切なくなるね」
夕日を見つめたまま、ぽつりと呟いた。
「それはきっと、みちるがきれいな目を持っているからだよ」

歩の顔をちらりと見た。
夕日に照らされたその顔は、とても大人びて見えた。
胸が熱くなる。
夢幻的な光景に包まれて、透明ななにかがじんわりと胸に染みわたった。

『みちるの痛みを、俺にもわけてほしい』

ねえ、歩。
あなたを、信じたい。
あなたを、傷つけたくない。
わたしは、前に進みたい。
だから。
あなたが差し出してくれたその手を、つかんでもいいですか。

わたしは夕日を見つめながら、ベランダの手すりをぎゅっと握った。
それに気づいた歩は、わたしを後ろからふわりと包んでくれた。
背中に歩の鼓動を感じる。
それはまるで、母親のお腹にいる胎児のような感覚だった。

「……わたしは、コンプレックスのかたまりだった」

独り言のように、わたしはぽつりと呟いた。

「……高2の夏、中学時代の友だちに彼を紹介してもらったの。わたしは自分に自信のない子だったから、彼がわたしのことを気に入ってくれたことが信じられなくて……だけど、とても嬉しかったの」

「うん」

「だけど……付きあっていくうちに、体を求められるようになった。わたしはまだそんな気にはなれなくて、ずっと拒み続けていたの。……だけど、拒み続けていたら……嫌われるんじゃないかって思って。わたし、自分に自信がなかったから……この人を失ったら、この先わたしのことを好きになってくれる男の人なんて、現れないんじゃないかって思って……。だから……本当は嫌だったけど、体を許してしまったの。だけど……」

そこまで話すと、また、あの日の記憶が押し寄せてきた。
手すりを握る手に力が入る。
「大丈夫。俺はここにいる」
歩が耳元で優しく囁いた。
胸にナイフが刺さったまま鼓動を続ける心臓の痛みを、少しでもやわらげるために、わたしは大きく息を吐き出した。
「……彼の行為はとても身勝手で。……とても……つらかっ……」
言い終わらないうちに、歩は抱きしめる腕に力を入れた。

わたしの頬に、静かに涙が伝う。
「……ありがとう。教えてくれて、ありがとう」
そう言った歩の声は、少し上ずっていた。
歩?
泣いているの?
振り返ると、歩の目は真っ赤になっていた。

どうして。
どうしてあなたは、そんなに優しいの?
どうして真っ黒なわたしのために、そんなにきれいな涙が流せるの?
そっと歩の頬に触れると、彼はやわらかい笑みを浮かべた。
その表情を見て、わたしの体の芯が熱をおびた。

「好きよ」
溢れた思いが、口からこぼれた。
「俺もだよ」
歩はわたしの肩を抱いて、頭にキスをした。
「大好きだから」
「俺もだよ」

どうしよう。
体から溢れてくるこの気持ちは、なに?
どれだけ好きと伝えても、伝えきれない感じ。
むしろ、言葉にすると思いが軽くなってしまいそう。
だけど、伝えずにはいられない。
好きで好きでたまらない。
こんな気持ちはじめて。
苦しい。
「歩…」
わたしが顔を上げると、歩は穏やかに微笑んだ。

「おいで」

歩はわたしをひょいと抱き上げ、ダブルベッドの上にふわっと乗せた。