さよなら、ブラック

唇を離すと、歩は少し驚いた表情をしていた。
わたしはそれに微笑んで返した。
すると、今度は歩の唇がわたしの口をふさいだ。
熱をおびた熱いキス。
そしてそれは次第に激しくなり、わたしは彼の吐息に溺れていった。

唇を離した歩は、憂いをおびた目でわたしを見つめた。
そして。

「触れたい」

と、かすれた声で囁いた。
わたしの心臓が膨れあがった。
鼓動が部屋中に響き渡っているような気がした。

少し目が赤くなっている歩の目を見つめた。
わたしの愛しい人。
かわいい人。
わたしは、もう一度彼の頬を手で包み、キスをした。

大丈夫。
歩となら、きっと乗り越えられる。

「こっちにきて」
部屋の明かりを消した歩は、わたしをベッドに寝かせた。
上からわたしを見つめ、指を絡める。
優しいキスが何度も降ってきた。
まるで、五月雨のよう。
「大好きだよ」
そう言って、その唇はわたしの耳を甘噛みしたり、首筋を通って遊んだり。
「くすぐったい」
「かわいいよ」
わたしの鼻にキスをした。

歩はゆっくりとブラウスのボタンを外していく。
わたしの肌があらわになった。
恥ずかしくて、思わず目をそむけた。
彼の手と唇が、わたしの体を優しく包む。
体が浮かび上がりそうな感覚になる。

温かい手。
熱い唇。
穏やかな瞳。
すべてが愛しい。
満たされていく。
このまま、彼の胸の中で溺れていきたい。
ところが。

「入れてもいい?」

歩のその一言で、わたしのやわらかいところがコンクリートのようになった。
津波のように押し寄せる記憶。
抑えつけられたわたしの体。
激しい痛み。
血がにじんだ、あいつの顔。

わたしの体は、一瞬にして黒くなった。
その時、上から見つめている歩の顔が歪んで見えた。
この男は誰!?
わたしは目の前にいる男を、両手で思いきり突き飛ばし、
「やめて!」
と叫んでいた。
「こわいこわいこわいこわい…」
わたしは頭を抱えて、髪をつかんだ。
あの日の残像がまだ頭から消えてくれない。
わたしは頭をかき混ぜた。
呼吸が荒くなる。
苦しい胸の痛みを紛らわせるために、自分の手の甲や指を何度も噛んだ。

突き飛ばされた歩は、豹変したわたしに戸惑いながらも、すぐに後ろからわたしを抱きしめてくれた。
そしてわたしの手を口からはがして、噛むのをやめさせた。
歯形だらけになってしまったわたしの手をぎゅっと握り、
「大丈夫大丈夫」
と何度も耳元で囁いた。

「ごめんなさい、ごめんなさい……」
途中でやめたりしたら、また怖い目に合う。
抑えつけられる。
お願い、許して。
いつの間にか、頬に涙が伝っていた。

「どうして謝るの」
歩はわたしを抱きしめたまま、穏やかに尋ねる。
「怒られるから。こわいから」
「こわくない。大丈夫」
「だけど、怒られる……こわい……」
わたしは何度も頭を振った。
「俺は、怒らない。大丈夫」
そう言って、歩は抱きしめている腕に力を入れた。
「ほんとに?」
わたしのその問いかけに、歩は優しく微笑んだ。
「怒らないよ。そんなことで」
わたしの髪を、ゆっくり撫でてくれた。
ずっとずっと。

歩の優しさに包まれて、堰を切ったように涙が溢れた。
「わたしはね、真っ黒なの。汚いの……」
歩の腕の中で、呟いた。
「汚くなんかないよ」
そう言ってくれたけれど、わたしにはそうは思えなかった。
「ううん。汚れてる。真っ黒」
「そんなことない。みちるは汚れてない。真っ黒じゃない」
「だけど……」
「信じて?」
歩のことは信じたい。
だけど。
自分が真っ黒じゃないって、どうしても思えない。

「ねえ」
歩はわたしにタオルケットをかけてくれた。
「俺は、みちるを傷つけるようなことはしないよ」
手を伸ばして、わたしの頬をそっと包む。
温かい手。
いつもわたしを包んでくれる大きな手。
この手にずっと包まれていたい。

わたしはそっと手を重ねた。
歩の大きな優しさに触れた。
わたしの涙が温かいものに変わった。
この温かい涙といっしょに、わたしの中の黒いものが全部流れてしまえばいいのに。

歩の胸に寄りかかると、彼はそっと抱きしめてくれた。
「ねえ、みちる」
甘い声が降ってくる。
「なに?」
「俺たちってね。出会うべくして出会ったんだと思うんだよね」
そう言って、歩はわたしの髪を優しく撫でた。
「ふたりでゆっくり歩めば、愛、みちる。……なんてね」
にんまり笑った歩を見て、わたしも思わず笑みがこぼれた。
「……だからさ」
歩はわたしを優しく包み込みながら言った。
「みちるをもっと、知りたいんだ。みちるの痛みを、俺にもわけてほしい」

歩の優しい言葉が体に染みわたる。
だけど、痛みという言葉に、体が反応した。
まるで連想ゲームのように、あの時の痛みが蘇る。
わたしの体に力が入っているのがわかったのか、歩は抱きしめる腕に力を入れた。
「……ごめん。嫌なら、話さなくていいよ。無理はしなくていいから」
そう言った歩の声は、とても寂しそうだった。
歩は、黙ったままわたしの髪をずっと撫でている。
涙が止まらなかった。
わたしはこんなに大切にされているのに。
……。
このままじゃ、いけない。
歩を悲しませたくない。
だけど。
話すのが、怖い。
時計の秒針が進む音だけが、部屋の中で響いていた。