さよなら、ブラック

その帰り道。
突然、歩が切り出した。
「俺んち、寄っていかない?」
その言葉に、わたしは立ち止まってしまった。
目が泳いでしまう。
のどの奥に何かがつかえて、言葉が出てこない。

そんなわたしを見て、歩はそっとわたしの手を取った。
「ただ、抱きしめたいだけ。それ以上は、なにもしないよ」
そう言って、優しく微笑んだ。
わたしは、はっとして歩の目を見た。
「怖い?」
眉を下げてわたしを見つめている。

そんなことはない。
信じてる、多分。
だけど。
歩だって、男だから。
男の人は、ああいう欲望ってあるんでしょ?

わたしがうつむいたまま、黙っていると、
「下手にみちるに触れたら、壊れてしまいそうだ」
と言って、やわらかい笑みを浮かべた。
そして、
「俺は、大切な人を壊したくはない」
と。
わたしは、歩の手をぎゅっと握りしめた。
そして、こくりとうなずいた。

歩のアパートへ向かう途中、わたしの鼓動はいつもより大きく波打っていた。
きっと、歩にも伝わっている。
つないだこの手を伝って。
歩は、歩。
あいつじゃない。
そう、何度も自分に言い聞かせた。

歩は部屋の戸を開け、どうぞ、とわたしを先に部屋へ入れてくれた。
歩の部屋。
男性の部屋。
歩は今日は、病人じゃない。
わたしはテーブルの前に座ると、穴が開いてしまうくらいテーブルの縁をじっと見つめていた。

「なにか飲む?」
歩は、冷蔵庫をのぞいている。
「麦茶、ほうじ茶、緑茶……」
その選択肢に思わず笑ってしまった。
「麦茶でお願いします」
「OK」
そう言うと、コップに麦茶を注いでテーブルの上に置いてくれた。
わたしが一口飲んで、コップをテーブルに戻した時、歩がそっと手を重ねた。
わたしの心臓が、一瞬小さくなった。

「おいで」
そう言って、わたしを引き寄せた。
わたしは、顔を歩の広い胸にうずめた。
歩の鼓動が聞こえる。
わたしと同じように、波打っている。
歩はぎゅっと抱きしめて、
「こうしたかったんだ」
と、わたしの耳元で囁いた。
耳にかかる歩の吐息が、こそばゆかった。
「好きだよ。大好き」
歩は大きな手でわたしの顔を包んだ。
優しい目で、わたしを見つめている。
わたしはどこを見ればいいのかわからなくて、目が泳いでしまった。

「キスしても、大丈夫?」
そう言って、親指でわたしの唇をそっと撫でた。
わたしは視線を合わせられないまま、小さくうなずいた。
すると歩は顔を傾けて、わたしの唇にかすかに触れただけのキスをした。
「大丈夫?」
わたしの顔をのぞきこんで、優しく微笑む。
わたしは、うん、とうなずいた。
「もう一度、してもいい?」
黙ってうなずくと、今度は少し長く唇が重なった。
わたしは歩の服をきゅっとつかんだ。
唇が重なっている間、息をするのを忘れた。
歩の唇が離れた時、大きく深呼吸してしまった。
歩はもう一度、わたしを強く抱きしめた。
「かわいい。大好き」
そう言って、わたしの髪をいつまでも撫でてくれた。