途中、鈴村君が釣り銭を落とし、コインがカランと床を転がった。
「す、すみません! こちらの通貨、滑りやすいんです! ギザギザつけたほうが良いですよ!」
「焦らないでください、計算より心を落ち着かせる方が先ですよ」
榊原の渋い助言に客席が笑った。鈴村君は真っ赤になりながらも作業を再開し、列は乱れず進む。
昼を過ぎた頃、用意していた指南書はほぼ完売。
最後尾の客に羽ペンで署名を書き終えた私は、深い息を吐いた。
もう温泉でも浸かってのんびりしたいよ。
会場の片づけが始まる中、アレクシスがそっと近づいてきた。
「本日の賑わいを見て、俺の旅は少し延期しようと思った。ここで得た声を、もう少し胸に留めておきたくてな」
彼のまなざしは穏やかで、さっきの炎が内に沈んでいる。
「理解者を探す旅は続く。しかし急ぐ必要はないのだろう。愛の料理も、じっくり煮込むほど深い味になるからな」
控えめな語尾に、先ほどより強い決意が滲んでいた。
「そうですね。焦げつかないよう、火加減には気をつけて」
「火加減……覚えておこう」
短い会話の後、彼は机の端を拭き、鈴村君をねぎらい、シリルに礼を述べた。
その動作ひとつひとつに、王族として身に付いた礼節が漂う。
熱狂の余韻が漂う会場で、積み上げられた空の木箱に榊原が腕を伸ばした。
「おかげさまで黒字でございます」
「鈴村君もシリルさんもありがとう」
「お役に立てて光栄です! あの、妹が絵師アヤノ様のご署名を欲しがっておりまして、良ければご一筆いただけますか?」
もじもじとしながら、シリルが「これ経費じゃないですから! 自費ですから!」と背に隠していた冊子を私に手渡す。
榊原は盛大にため息を吐き、鈴村君は「僕はこの似姿絵ポストカードにサインください! すごいホロですよね? これも魔法なんですか?」と能天気に言う。
私はひどく充足感に包まれていて、ふわふわした気持ちのまま、言われるがまま羽ペンを躍らせる。
出口の近くで、アレクシスが最後に振り返った。
「俺の旅の道標は、君の絵に託された物語だ。次の章を共に紡げるよう、俺も腕を磨いておくよ」
彼は微笑む――驚くほど静かな笑みだった。
感情を抑え、言葉を選び、しかし核心だけは揺るがせない。
その姿に、観客のいない会場でも拍手を送りたくなった。
こうして波乱の一日は幕を閉じた。
異世界より参った絵師と、王位継承権を持つ王子。
大賢者に担当編集者、護衛。
腕を競った料理人たちと沢山のお客さん。
誰一人欠けても成り立たなかった一日が、確かにそこにあった。
家に帰ったら、まずはなにしようか。
頭のプロット帳は飽和寸前。
――旅立ちを延期した王子が、次はどんなレシピで世界を驚かせるのか。
物語はまだ、泡立つ鍋のように音を立てている。



