樋口さんと出会ったあの日から、放課後は彼の所属するクラブチームへ顔を出すのが日常になった。
部活には顔を出していないが、顧問は何ひとつ口出ししてこない。あのとき倒れた一件が、相当堪えたのだろう。
今日も終業とともに電車へ飛び乗り、二十分ほどの場所にある体育館へ直行した。
「あ、蓮介くん。お疲れ様」
「お疲れ様です」
コートの脇で、すでに来ていた樋口さんがひらひらと手を振る。
会釈して駆け寄ると、彼は目尻を緩めて微笑んだ。
「最近結構来てくれてるよね。嬉しいよ」
「まあ、バスケは好きなんで」
返事をしながら視線をコートへ向ける。放たれたボールがネットを揺らし、ゴールがかすかに揺れていた。
最近の俺は、胸にぽっかりと開いた穴を誤魔化すようにバスケへ打ち込んでいる。
そんな俺の横顔を、樋口さんが覗き込むように見つめていた。
「蓮介くん、ここまでどうやって来てるの?」
「電車っすね。20分くらい?」
「大変じゃない?俺が学校まで車で迎えに行ってあげようか」
「いや、悪いですよ。樋口さんに迷惑かけちゃう」
首を振る俺の頭に、ぽんとあたたかい手が乗る。
「ううん、俺がそうしたいんだよ。蓮介くんがいいなら」
「蓮介くん誘ったの俺だし」と笑う樋口さんを見上げる。
この優しさが、妙に心地いい。
この感覚を俺は覚えてる。
それは紛れもなくフジのそれだ。
あーあ、やだな。まだフジが頭に残ってる。
全部終わりにしたはずなのに。
苦虫を噛み潰したような顔をしていたのだろう。樋口さんが心配そうに顔を覗き込んできた。
「蓮介くん?」
「あぁ……いえ。じゃ、お言葉に甘えて」
そう頭を下げると、樋口さんは「うん」と嬉しそうに目尻を下げた。
*
授業終了のチャイムと同時に席を立つ。
部活のある体育館には向かわず、そのまま昇降口を目指す。
廊下の静けさに足音を響かせていると、ポケットの中でスマホが短く震える。
『着いたよ。校門で待ってるね』
樋口さんからのメッセージに『了解』のスタンプを返し、スマホをポケットにしまった。
昇降口を抜け、校門脇の駐車場に目を向けると、車を停めた樋口さんが窓から手を振っているのが見えた。
会釈を返して走り出そうとした、その瞬間。
ガシッ、と強い力で腕を掴まれた。
「レン」
「……フ、ジ」
「どこ行くの」
そこには俺を走って追ってきたのであろうフジが、息を切らして真剣な目で俺を見据えていた。
「あの人、知り合い?」
フジの冷ややかな視線が、車から降りてきた樋口さんへと向けられる。
俺は拘束されたままの自分の腕に視線を落とした。
「……フジに関係ないじゃん」
──レンに彼女ができようがどうなろうが、俺には関係ないし。
──レンが良いならいいんじゃない? 俺が口出すことでもないでしょ。
あの時の言葉が、頭の中で嫌な響きを残しながらこだまする。
「関係ある。俺は──」
「蓮介くん」
フジが何かを言いかけたところで、樋口さんが俺の隣に立った。
「友達?」
俯いている俺を気遣うような優しい声色の樋口さんに、俺はどう答えることもできない。
樋口さんは小さく息をつくと、静かに俺たちの間へ一歩割り込んできた。
「蓮介くん、行こう」
「待って、レン」
樋口さんが俺の腕を解こうと手を伸ばした瞬間、フジがさらに強い力で俺を引き寄せる。
掴まれた腕を、今すぐにでも振り払いたかった。
触れられるたび、フジの優しさも、温度も、全部鮮やかに蘇ってしまう。
そして、それがもう二度と俺に向けられることはないのだという現実も。
息が詰まる。胸が張り裂けそうだ。
もう、全部終わりにしたい。
「……もうやだ」
溢れ出しそうな感情を喉の奥で押し殺す。
「……おわりにしよ、フジ」
俺の口から漏れたその一言に、フジの表情が凍りついた。
腕を掴む指先の力が、波が引くようにすっと緩む。
強引に腕を振り払う必要すらなく、俺の腕はフジの手から滑り落ちた。
「蓮介くん」
樋口さんが静かに俺の肩に手を添え、車の方へと促す。
俺は一瞬たりとも振り向かず、引き寄せられるように助手席へ乗り込んだ。
バタン、と重いドアが閉まり、静寂が訪れる。
滑らかに加速する車の中で、俺は膝の上で固く拳を握りしめ、視界が滲んでしまわないようにじっと目を閉じた。



