保健室からそのまま重い足をひきずりながら家へと帰ってきた。
鍵を開けて玄関に入ると、リビングからガタゴトと鞄を漁るような音が聞こえてくる。
「あれ、兄ちゃんなんでいんの?部活は?」
リビングに入ると、塾のテキストを鞄に詰め込んでいた弟の胡太郎が、不思議そうな顔でこちらを振り返った。
「んー、サボり?っていうか早退した」
鞄を床にドサリと落とし、倒れ込むようにソファーへ身体を預ける。
胡太郎は作業する手を止め、眉をひそめてじっと俺の顔を覗き込んできた。
「うわ、顔色わる。熱は?」
「ない」
「ほんとに? 顧問に怒られすぎて知恵熱でも出た?」
「出てないって……お前一言余計なんだよ」
弱々しく睨み返すと、胡太郎は溜め息をつきながら近づいてきた。
そのまま俺の目の前にしゃがみ込むと、ヒヤッとする指先で俺の額にそっと手を当ててくる。
「ふーん。まあ、熱はなさそうだけど」
額から手を離した胡太郎は、立ち上がりながら俺の制服の胸元あたりに視線を落とした。
「なんかあったの? フジくんと喧嘩でもした?」
「……なんでそこでフジが出てくんの」
思わず心臓が跳ね、声を詰まらせる。
胡太郎は鞄を肩にかけ直すと、どこか呆れたような目つきで俺を見下ろした。
「だって兄ちゃんがそんなわかりやすく落ち込んでるの、フジくん絡みくらいじゃん。昔からそうだし」
「……お前、ほんと余計なことばっか言うな」
図星を突かれて顔を背けると、胡太郎はそれ以上深く追及してくることもなく、鼻で小さく笑った。
「じゃあおれ、塾行ってくる。ポカリ冷蔵庫にあるから飲めば」
「ん。気をつけて」
「うん。鍵閉めてね」
パタン、と玄関のドアが閉まる音が響き、家の中に静寂が戻る。
生意気な口を利きつつも、ポカリの場所を教えていくあたりが胡太郎らしい。
ソファーに深く身体を沈めると、全身の骨が抜け落ちたみたいに重かった。
重い瞼を閉じると、俺はそのまま吸い込まれるように浅い眠りへと落ちていった。
*
どれくらい経っただろうか。
カチャン、とドアが開く音と同時に、バタバタとした足音が近づいてくる。
「蓮介? こんなところで寝てたら風邪引くよ」
母親の声で目が覚め、重い瞼を開ける。
リビングの窓の外を見ると、いつの間か空はどんよりとした鉛色に染まっていて、激しい雨音が窓ガラスを打ちつけていた。
「おかえり」
「ただいま。ねえ蓮介、胡太郎傘持って行ってないでしょ。雨降ってきたから胡太郎迎えに行ってあげて」
「……あー、了解」
ぼんやりとした頭のまま身体を起こす。
休みたい気持ちもあったけど、弟を濡らすわけにもいかない。
重い体を引きずって立ち上がり、玄関に並ぶビニール傘を二本手に取った。
外に出ると、ぬるい湿気と強い雨が体にまとわりついてくる。
一本の傘を差し、もう一本を抱えながら、俺は胡太郎の通う塾へと歩き出した。
*
雨音を突き抜けるように塾の終了を告げるチャイムが鳴り、自動ドアからポツポツと生徒たちが出てきた。
軒下で待っていると、鞄を担いだ胡太郎が建物の奥から姿を現す。
その隣には、背が高く、どこか余裕のある雰囲気を纏った大学生くらいの男性が歩いていた。
「え、兄ちゃん?なんでいんの」
「傘。お前どうせ折りたたみも持ってきてないだろ」
俺に気づいた胡太郎が歩み寄ってくる。
隣の男性も一緒にこちらへやってくると、柔らかい笑みを浮かべた。
「胡太郎くんのお兄さん? 初めまして、胡太郎くんの担当講師の樋口です」
「あ、どうも……弟がいつもお世話になってます。ほら、傘」
持ってきた予備の傘を胡太郎に渡しながら、樋口という男に軽く頭を下げる。
樋口さんは俺の顔をまじまじと見つめると、「ふーん」と面白そうに目を細めた。
「胡太郎くんからよくお兄さんのこと聞いてるよ。高校でバスケ部のキャプテンやってるんだって?」
「まあ、一応」
返事を濁すと、胡太郎が横から「今日は兄ちゃんサボりだけどね」と余計な口を挟んできた。
「こたろー、お前……」
「はは、まあ高校生ならそういう日もあるよ」
樋口さんは責める様子もなく、気さくに笑う。
そして、降らせ続ける雨の向こうを眺めるようにしながら、ふと思い立ったように口を開いた。
「そういえばさ、俺、地域の社会人クラブチームでバスケやっててさ。指導も手伝ってるんだけど」
樋口さんはポケットからスマホを取り出し、画面をこちらに向けて見せてきた。そこには体育館で楽しそうにボールを追う大人たちの姿が写っている。
「部活とはまた違った雰囲気で、いろんな年代の奴らが集まって気楽にやってるんだよね。もしよかったら、息抜きにでも今度遊びに来なよ」
ニコニコと言う樋口さんに毒気が抜かれる。
「……俺なんかが行って、大丈夫なんですか」
「もちろん。高校生も何人か来てるし、歓迎するよ」
名刺の裏にメモ書きで連絡先と体育館の場所をササッと書いた樋口さんは、それを俺の手元に押し付けるように手渡した。
「じゃ、雨強いから気をつけて帰りなね。胡太郎くん、また次回」
「はーい。ありがとうございましたー」
手を振って塾の中へ戻っていく樋口さんの背中を、俺は手に残された紙片を見つめたまま見送っていた。
「……兄ちゃん、行くの?」
「……さあ。分かんね」
傘に当たる雨音を聞きながら、俺は紙片を制服のポケットに押し込んだ。



