相棒に抱かれることになった



あの日から、俺は部活をサボり気味になっていた。
フジが佐々木と仲良くし始めてからというもの、俺の調子は右肩下がりに落ちていたし、それに何より、フジと顔を合わせられる気がしなかった。

でも、キャプテンのくせに部活をサボっている俺を、顧問が見過ごすわけもなく。
昼休み、職員室に呼び出された。


「おい、お前いい加減にしろ」
「何度言ったらわかる?キャプテンの自覚がないんじゃないか?」
「自分の調子が悪いからって、部活を休んでいいって理由にはならないぞ」


顧問が言ってることはごもっともだ。反論する余地もない。
言葉を返す気力すら湧かず、俺はただ黙って顧問の胸元あたりをぼんやりと見つめていた。

耳の奥で怒声が響いているが、それはまるで分厚い水壁の向こうから聞こえてくるみたいに、どんどん遠くぼやけていく。

俺だってわかってるよ。
こんなことで、調子落としてやけになって部活に行かないのなんてバカのすることだって。

頭の中でぐるぐるとそれがこだまして、やがて痛みを伴っていく。
視界の端から色が失われていくのがわかった。


「……っ」


あ、やば。
息を吸い込もうとした瞬間、視界がぐにゃりと大きく歪んだ。
顧問の机も、窓から差し込む日光が落ちる床も、職員室の風景すべてがぐらりと斜めに傾いて、まるでぐちゃぐちゃに混ざり合う絵の具みたいに渦を巻き始める。
立っているはずの足元が頼りなく沈み込み、自分が宙に浮いているのか地に足がついているのかさえ分からなくなった。
頭の奥で、甲高くて嫌な耳鳴りがキーンと鳴り響く。


「……京原? おい、聞いてんのか」


苛立ちを深めた顧問の声が届くが、もう言葉として意味を結ばない。
急激に体中の血の気が引いていき、指先から冷たくなっていくのが分かった。
胸の奥から押し寄せる強烈な吐き気と、頭を締め付けるような重い締め付け感。
呼吸のやり方が分からなくなって、視界が一面の真っ白なノイズに覆われていく。

やばい、倒れる────

そう思った時には、もう自分の体を支える筋力すら残っていなかった。
顧問の机の端にすがりつこうと手を伸ばしたが、指先は摩擦を失って虚しく空を切る。
世界がぐらりと一回転したような錯覚のあと、重力に逆らえず、そのまま横倒しに床へと落ちていった。


「おい! 京原!?」


膝と肩が床に叩きつけられる鈍い衝撃。
でも痛みを感じるよりも早く、急激に落ちてきた底なしの暗闇が、俺の意識を丸ごと呑み込んでいった。





キーンコーンカーンコーン。
遠くでチャイムが鳴っているのが聞こえる。
重い瞼をうっすらと開けると、白っぽい天井と独特の消毒液の匂いが視界と鼻腔を満たした。
保健室のベッドの上だと理解するのに少し時間がかかる。


「京原くん、起きた?」
「あ……はい」


保健室の先生の問いに答えながら、のそりと身体を起こすと、体温計を手渡された。
指示通り脇に挟みながら、ふと壁の掛け時計に目をやる。長針と短針が指す時刻を見て、思わず眉をひそめた。


「もしかして、もう授業終わりました?」
「うん、ちょうど今終わったよ。今から放課後」


どうやら昼休みからずっと眠っていたらしい。
ピピピッと体温計が鳴って取り出すと、そこには36.2度と表示されている。
先生に渡すと、「熱はないね」と確認した後、「そういえば」と話を切り出した。


「顧問の加藤先生が、当分部活は休んでいいって言ってたよ」


どうやら目の前で派手に倒れたことが、予想以上に効いたらしい。
俺が最近部活をサボっていたのも、サボりではなく「体調不良」が原因だったと勝手に解釈されたようだ。
罪悪感が皆無と言えば嘘になるが、わざわざ否定する気力もない。今は好都合な免罪符として、大人しく休ませてもらうことにした。

そんなことを考えていると、廊下から足音が近づき、保健室の引き戸がガラガラと開いた。


「京原ー。あ、起きてる」
「おいおい大丈夫かよ。荷物届けに来たぞ」


部屋に入って来たのはこれから部活に行くであろう渡辺と岩井だった。
岩井は「ありがと」と鞄を受け取った俺を見て、「うわ」と声を漏らした。


「顔白すぎだろ。ザ・貧血みたいな顔面」
「なにそれ」


岩井の軽口に苦笑交じりの返事を返すと、二人はどこか安心したように息を吐く。


「加藤の前でぶっ倒れたって聞いた時はビビったわ」
「それな。焦ってる加藤の顔面まじ爆笑もんだった」


どうやらその瞬間を思い出したらしく、二人して思い出し笑いをしている。
一応病人が隣にいるんだから静かにしてほしい。


「藤野も心配してたぞ」


ポロッと付け加えられた岩井の一言に、心臓が跳ね上がった。
「……そ」とそっけなく短く返すと、渡辺が不思議そうに俺の顔を覗き込んできた。


「でも珍しくね?藤野が京原のとこ行かないとか」
「確かに。最近お前らあんま一緒にいないしな。なんかあった?」
「や……別に」
「そうか?」


問い詰められ、俺は視線をベッドのシーツへと落とした。
俺が保健室で寝ていると知っていながら、フジはここへ来なかったのだ。
その事実が、胸の奥を冷たく絞り上げていく。

俺のぎこちない雰囲気を察したのか察していないのか、渡辺が思い出したように手を打った。


「てかさ、藤野といえば」
「佐々木な!」
「最近結構いい感じだよな」
「ついに藤野にも初彼女かー。なんか感慨深い」
「親戚のおっさんかよ」


二人で顔を見合わせながら楽しそうに笑い合っている。
────初彼女。
その言葉が、耳の奥で嫌な残響を残して何度も反響した。
フジが俺のところに来なかった理由も、様子を見にすら現れなかった理由も、全部そこに繋がってしまう。

フジの隣にはもう、佐々木がいるのだ。
俺が勝手に傷ついて逃げ回っている間に、あいつの視線は俺以外の誰かに向いていた。
拒絶して避けているのは俺なのに。勝手に追い詰められて、勝手に悲しくなって、身勝手な嫉妬を燃やしている。
そんな自分がどうしようもなく惨めで、汚くて、反吐が出そうだった。

大きく息をついた俺を見て、岩井と渡辺が立ち上がる。


「まあ、部活のことは気にすんな。藤野が回してくれてるし」
「早く元気になれよ。寄せ書き書いてやるからさ」
「……いらねー」


二人は手を振ると、賑やかに部屋を出て行った。
二人の足音が遠ざかり、静まり返った保健室に夕暮れの橙色の光だけが落ちている。

俺はパイプ椅子の上に置かれた自分の鞄を引き寄せた。

帰ろう。
これ以上、この冷たい部屋で一人でいても惨めになるだけだ。

鞄からスマホを取り出し、ぼんやりする頭のまま画面をタップする。
指先が勝手に馴染み切ったトーク画面を開いていた。
昔から、俺が体調を崩した時はいつだってそうだった。
部活を早退する時も、熱を出して保健室で休んだ時も、フジは当たり前みたいに俺の荷物を持って、一緒に歩幅を合わせて家まで帰ってくれたのだ。
10年間かけて身体に染み付いた癖のまま、迷いもなく文字を打ち込む。


『体調悪くて帰る。一緒に帰ろ』


送信ボタンを押す直前、画面に並んだ文字を見て、俺はハッと息を呑んだ。
指先がピタリと止まり、全身の血の気が一気に引いていく。

……何やってんだ、俺。

画面の上に表示された「フジ」の名前が、猛烈な勢いで胸を抉ってくる。
送信ボタンのすぐ上で固まった自分の親指が、恐ろしいほど惨めに見えた。

伝える必要なんて、もうどこにもない。

俺が職員室で倒れたことも知っていて、それでもここに来なかったフジに、今更こんな甘えた連絡をしてどうするつもりだったのか。

もし送信してしまったら。「ごめん、今佐々木といるから」なんて返信が来たら。あるいは、既読すらつかずに無視されたら。

想像しただけで、心臓が潰れそうなほどの恐怖と痛みが襲いかかってきた。


「……っ」


俺は指先で、打ちかけた『一緒に帰ろ』の文字を荒々しくバックスペースキーで消去した。
一文字ずつ消えていく言葉と一緒に、あいつと重ねてきた十数年間の温もりまで消え去っていくような気がした。
画面を伏せ、ポケットに突っ込む。

拒絶して避けたのは俺のくせに。
勝手に期待して、勝手に裏切られた気になって、一人で勝手に傷ついている。
自分がいかにフジという存在に依存しきっていたかを突きつけられ、溢れそうになる涙を必死でこらえた。

俺は沈みかける夕日の中を、ただ一人で歩いて帰った。

俺の隣にはもう、何の温もりも存在しなかった。
病人にする仕打ちにしては、いくらなんでもやりすぎだと思った。