相棒に抱かれることになった



「風呂入る?沸かしてきたけど」


行為の余韻が残るベッドの上で、荒い呼吸を整えていた俺の体に、フジの低い声が降ってきた。
雨に濡れて冷え切っていた皮膚と、汗ばんだ身体が、ベッドのシーツに重く沈んでいる。


「ん……」


起き上がろうとした瞬間、腰に抜けたような怠さが走り、小さく声を漏らしてしまう。
フジはそれを見逃さず、俺の身体をひょいと抱き上げた。


「うわっ、びっくりした」
「大人しくしてて。落としたくないから」


頷いてフジに腕を回すと、笑みが溢れた声がする。


「なに?」
「いや、自分で歩ける、とか言わないんだなって」
「……流石に無理。いっぱいしたから」


フジの肩に顔を埋めたまま言うと、フジが俺を抱える力が強くなった。


「……あんま可愛いこと言わないで。またしたくなるじゃん」
「する?もう一回」


顔を上げてうかがうと、フジは首を横に振る。


「んーん。これ以上したらレンの身体に負担がかかるから」
「俺は別にいいけど」
「俺が嫌。レンのことは大事にしたい」
「……そ」
「それに……」


フジは歩みを緩めることなく、俺を抱きかかえたまま声を耳元に降らせてきた。


「もう逃がす気ないんだから、焦らなくても時間はいくらでもあるでしょ」


耳に触れる吐息の熱さにゾクッと背筋が跳ね上がり、俺は慌ててフジの胸元に顔を覆い隠した。
心臓がうるさく鳴り響くのを誤魔化すように、俺はフジの部屋着の布地をぎゅっと掴みしめた。


「……ほんと、調子狂う」
「なにが?」
「なんでもない」


フッとフジが満足そうに鼻で笑う気配が伝わってくる。
そのまま脱衣所へ足を踏み入れると、フジは俺の身体を壊れ物を扱うみたいに慎重に降ろしてくれた。


「立てる?」
「なんとか」


俺の答えに「よかった」と言ってタオルを準備しだすフジの服の裾を引く。


「どしたの、レン」
「……風呂、一緒入る?」
「え?」


フジはきょとんとした後、ニヤリと笑った。


「元々一緒に入る気だったよ?」
「あ……そ」


いらない墓穴を掘ってしまったらしい。
以前は別々に入っていたから、そういうもんだと思ってた。
これは俺悪くないと思う。

フジは楽しそうに目を細めると、俺の髪を撫でて、そのまま首元へと手を伸ばしてきた。


「自分で脱げる?」
「……脱げないって言ったら、脱がしてくれんの?」
「そりゃあもちろん」


フジは満足そうに口元を緩めると、俺のTシャツの裾に手をかけ、ゆっくりと持ち上げて頭から引き抜いてくれた。
素直におねだりしたものの、どこかむず痒いような恥ずかしさが押し寄せてくる。
思わず視線を泳がせていると、フジは俺の下着まで手際よく脱がせてくれた。
そのまま俺の首筋から胸元へ、自分につけられたばかりの赤い痕を指先で優しく撫で上げてくる。


「ほんと可愛いな」
「煽ってる?」
「煽ってないよ。ずっとこういうレンが見たかったから嬉しいだけ」


なにを言っても甘く返されると調子が狂う。
結局、俺は目を逸らして先に浴室に入ることしかできなかった。





身体を洗った後。


「こっちおいで」


伸ばされた長くて温かい手に促されるまま、俺は自分からその手を握り返して浴室へと足を踏み入れた。
二人で入るには少し狭い湯船に先に浸かったフジの間に体を滑り込ませると、後ろからすっぽりと包み込まれる。


「熱くない?」
「うん、ちょうどいい」


お湯の温もりが身体の芯まで染み渡り、さっきまでの緊張や怠さが心地よく解けていく。
フジに完全に身を委ねると、腰に回されたフジの腕がぎゅっと力を強めた。


「そういえばさ」
「ん?」


フジを見上げると、俺の頬を触りながら少し不機嫌そうに口を開く。


「この前レンのこと車で迎えにきてた人、誰?」
「あー……樋口さん。胡太郎の塾の講師の大学生」
「どういう関係?」


俺がその名前を呟くと、フジが眉を顰めた。


「クラブチーム誘ってくれて……あと、色々相談も乗ってくれた」
「その樋口さん、って人とどこまでいったの?」
「えっ……と」


俺が口籠もると、フジは小さくため息をつく。


「家には行ったんでしょ、多分」
「……うん、まあ」
「キスはした?セックスは?」
「してない……けど、抱かれようとはした」
「は?」
「フジのこと、忘れたかったから。抱かれたら忘れるんじゃないかって思ったけど無理だった」


そう言い切って恐る恐るフジの顔色をうかがう。


「怒る?」
「……怒りたいけど、怒れない。そうさせちゃったの俺だから」


腰に回されていた腕にぐっと力が入り、逃げ場をなくすように身体を密着させられる。湯船の水面がゆらりと揺れた。


「……すげー嫌だけどね。そういう時のレン、めちゃくちゃ可愛いし。他の人に見られたの最悪」
「なに言ってんの……」


本気のトーンで言っているのが怖い。
フジはため息をつくと俺の首筋に顔を埋めた。


「他人の記憶消すのってどうすればいいんだっけ……」
「消せないから。変なこと考えんなよ」


俺が呆れ混じりにそう言うと、首筋に押し当てられたフジの唇から、フッと小さな吐息が零れる。


「わかってるよ。でも、それくらい嫉妬してるってこと」


フジは俺の首筋に小さく歯を立てると、吸い付くようにして痕を残した。


「痛っ」
「上書き。レンの身体に触れていいのも、こういう顔見れるのも、俺だけにして。いい?」


逃げようとしても、腰を抱く腕はびくともしない。
そのまま顎を上に向かさせられ、唇を塞がれた。
お湯の熱さとは違う、身体の奥を焦がすようなキス。
喉から漏れた小さな吐息も、すべてフジに吸い上げられていく。


「ん……っ、ふ……」


しばらくしてゆっくりと唇が離れると、フジは俺の額に自分の額をコツンと重ねた。


「顔赤い」


俺の頬に触れたフジがそう言って笑う。


「ん、そう?」
「昔からのぼせやすかったもんね。そろそろ出よ」


多分顔が赤いのはのぼせたせいじゃないと思うけど。
そんなことを考えながら、浴室を出たのだった。





リビングには、ブォー、という機械音が響いていた。
ソファーに座った俺の後ろから、フジがドライヤーで髪を乾かしてくれている。


「服……」
「なに?」


フジがドライヤーを止めて俺の首元に触れる。


「俺のだったらちょっと大きいね。痕隠せてない」


そう言われて顔に熱が集中していくのがわかった。
フジの方が身長が高いので、フジから借りたスウェットは俺からしたら少し大きいのだ。


「フジが見えるところにつけるからじゃん」
「うん。わざと」


フジはいたずらに笑って、再びドライヤーのスイッチを入れた。
なんでそんなことをサラッと言えるんだよ。
耐性のない俺はただ口をつぐむことしかできない。
自分の意識を逸らすためにも話題を変える。


「お腹すいたくね?」
「確かに。乾かすの終わったらなんか作ろうか。なに食べたい?」
「ステーキとか」
「それはちょっと厳しい。材料がない」
「えー……」
「じゃあ次泊まりに来た時作ってあげる」


次があるんだ。
そうか、付き合ってるんだもんな。
ふと頭に浮かんだその事実に、胸の奥が温かい熱でいっぱいになる。
今までの俺たちは、行為が終われば何事もなかったかのように解散する関係だった。
「次」なんて約束は最初から存在しなくて、いつもいつ切れるかわからない細い糸を手繰り寄せていた。
でも今は違う。
当たり前みたいに「次泊まりに来た時」なんて言葉が、フジの口から零れ落ちてくる。


「次、楽しみにしてる」
「ん。期待してて」


ドライヤーの音がパタリと止まり、温かい風がやんだ。


「はい、おわり」
「サンキュ」


フジは手ぐしで俺の髪の毛を軽く整えながら口を開く。


「じゃあ、うどん作るか」
「あ、それいい。食いたい」
「おっけ」


フジはそう微笑むと、キッチンへ向かって手際よく手鍋を火にかけた。
出汁の甘くて優しい香りが、少しずつリビングへ漂いはじめる。

これ食ったら、帰るか。

ソファに腰掛け、キッチンに立つフジを眺めながらぼんやり考える。
フジの他の家族は今日いないらしいが、夜遅くまで長居するのも悪い。
頭の中で帰宅の段取りを組み立てながら、フジの部屋からカバンを取ってくる。
財布や鍵がちゃんと入っているのを確認し、ポケットの中にスマホを押し込んだ。

準備万端、あとは食べて帰るだけ。

そう心の中で頷いた、まさにその瞬間だった。
ポケットの中で、スマホがブブブと短い振動を立て、着信音が鳴り響く。
画面を取り出して見ると、表示されていたのは弟の「胡太郎」の名前だった。
その画面をぼんやり眺めていると、いつの間にかキッチンから戻ってきていたフジが、俺の肩越しに画面を覗き込んできた。


「胡太郎?」
「うん。多分、俺がいつ帰るか連絡してなかったから」


俺がそう答えた瞬間、フジの手がすっと伸びてきて、俺の手からスマホを取り上げる。


「え、ちょっ」


不意を突かれて声を上げたものの、フジは慌てる俺の頭を引き寄せて、自分の肩口に埋めた。
抵抗する隙すら与えない手際で、フジはそのまま俺のスマホの画面を操作して耳に当てる。


「あ、もしもし胡太郎?」
『あれ!?フジくん?これ兄ちゃんのスマホだよね?』
「うん、レン今手が離せなくてさ」
『そーなの?』


「手が離せない」どころか完全に拘束されている状態だ。
身を捩って抵抗しようとすると、腰をギュッと引き寄せられる。
逃げられないと悟って大人しくなると、フジは満足そうに俺の髪を指先で撫で回しながら会話を続ける。


「うん。雨も降ってるし帰るの大変そうだから俺ん家に泊まるって」
『おっけー、わかった!あとさ、フジくん』
「ん?」
『フジくんと仲直りできてよかったね、って兄ちゃんに言っといて!この前フジくんのことでしょげてたから!』


あいつ、いらんこと言うなよ。
一気に顔に熱が集まるのを感じて、フジの肩に顔を埋めた。


「……へー。わかった、言っとくよ」


頭上から聞こえるフジの声はどこかニヤついていた。


『うん、じゃーねー!』


ツイツイと通話終了の電子音が鳴り響き、画面が暗転する。


「……しょげてたんだ?」


耳元に降ってきたフジの声は、呆れるほど楽しそうだった。
逃げることなんて最初から諦めていたけれど、羞恥心で身体が燃えてしまいそうだった。


「言わないでいいって」
「なんで? めちゃくちゃ嬉しいんだけど」
「……胡太郎が勝手に言っただけだし」
「レンが俺のことで落ち込んでたって話でしょ? どんな風にしょげてたの?」


フジは俺の背中に回した手に力を込め、逃がさないように抱きすくめながら、首筋に何度も小さく唇を落としてくる。
擽ったさと熱に背筋がゾクゾクと震え、俺はフジの部屋着をぎゅっと掴みしめた。


「……言わない」
「言わなくても、だいたい想像つくけどね。樋口さんところ行こうとしたくらいだし」


一瞬だけ声から甘さが消え、暗い熱を帯びたトーンが混ざる。
顎をクイッと持ち上げられ、視線が強制的に交わった。


「ねえ、レン」
「なに」
「今日、帰るつもりだったでしょ」


図星を突かれて息を呑むと、フジは不貞腐れたような表情を浮かべる。


「やっぱり。カバンまとめてたしね。……彼氏になったんだから、当たり前に泊まっていけばいいのに」
「……そっか」
「そうだよ。それに、レンを帰す気なんて最初からないから」


そう言ってフジは俺の首筋に触れる。


「レンが帰れないように見えるところに痕つけて、首元開いた服着せてんだよ?」
「……は?」


言われた言葉の意味が瞬時に理解できず、俺は間抜けな声を漏らした。


「だって、そうでもしないとレンすぐ帰ろうとしそうだし。服で隠せないくらい痕つけとけば、人目気にして外出れないでしょ?」


フジは悪びれる様子もなく、むしろ名案だったとでも言いたげな顔で微笑んでいる。


「お前、なんか怖い」
「怖いのはそっちだよ。そんな首元開いた服で帰ろうとしてたじゃん。もっと自覚持ちな」
「なんのだよ」
「俺の彼氏って自覚」


そう言ってフジは顔を近づけた。
フジは俺の唇を塞いだあと、じっと俺の目を見据える。


「わかった?」
「……わかった」
「よし。えらいえらい」


満足そうに目を細めたフジは、ポンポンと優しく頭を撫でてきた。子ども扱いされているような心地がして、俺は小さく口を尖らせる。


「別に、子どもじゃないんだけど」
「わかってるよ。可愛いから触りたいの」


当たり前のように甘い言葉を吐かれ、俺はぐうの音も出なくなって視線を泳がせた。
どこまでもフジのペースに巻き込まれている気がする。


「あ、やば。うどん伸びちゃう」


ふと何かに気づいたようにフジが身体を離すと、キッチンから立ち上る湯気に駆け寄る。
急に温もりが消えて少し寂しさを覚えたものの、胸の奥には変わらず温かい熱が居座っている。


「はい、お待たせ。冷めないうちに食べて」


運ばれてきた深皿からは、優しい出汁の香りが漂っていた。
ダイニングテーブルに対面で座り、熱々のうどんを口に運ぶ。出汁の旨味と温もりが、身体の隅々にまでじんわりと染み渡っていく。


「ん、うまい」
「よかった」


フジはそんな俺を見て嬉しそうに口を綻ばせた。

うどんを口に運んでいると、ふと胸の奥に引っかかっていた引っかき傷のような記憶が芽を吹く。


「……あのさ、フジ」
「ん? なに?」


前で自分の分のうどんを啜っていたフジが、首を傾げてこちらを見る。


「佐々木には、どうすんの」


その名前を口にした瞬間、フジの箸がぴたりと止まった。
多分佐々木はもうすぐフジに告白するだろう。
明日の佐々木の誘いは断ったらしいけど、告白するタイミングなんて他にはいくらでもある。


「ちゃんと期待させちゃったこと謝って断るよ」
「ふーん……」


うどんを口に運びながら、努めて平然を装って返事をする。
喉を通る熱さが、少しだけ苦く感じられた。


「なに、嫉妬してんの?」


フジは俺の表情をうかがうように覗き込んでくる。


「……嫉妬してなかったら、こんな話しない。佐々木と仲良さそうだったし」


ボソボソと本音が漏れてしまう。
あの頃、二人が楽しそうに話しているのを見るたび、胸が張り裂けそうなくらい苦しかった。


「フジも、俺の彼氏って自覚持った方がいーよ。俺は、多分フジが思ってるよりもフジが好きだから」


フジを見つめてそう呟くと、フジは片手で顔を覆った。


「ずるいんだけど……」
「さっきの仕返し」


笑いながら言うと、熱を帯びた視線が俺を見つめる。


「やばい、また抱きたくなってきた」
「いいけど」
「いや、俺がダメ」
「さっきからそれなに」
「ブレーキ利かなくなるから。レン、明日歩けなくなるよ」


呆れたように言うと、フジは覆っていた手を退け、深く息を吐き出した。
その瞳の奥には、冗談では済まない暗い熱が渦巻いている。


「俺はいいよ。明日歩けなくなっても」


うどんを口に運びながら言うと、フジが固まった。
俺としては嘘でもなんでもなく、フジとならこのあとどうなってもいいし、むしろいくらでもしてほしい。


「……ねえ、レン」
「なに?」
「樋口さんにも、そうやって軽々しく『いいよ』とか言ってなかった? めちゃくちゃ心配になってきた」


じとーっとした視線を向けられ、慌てて口を開く。


「言ってないって。樋口さんには『抱いて』って自分から言ったから」
「余計最悪なんだけど」


頭を抱えて頭上を仰ぐフジを見て、胸の奥が少しすっとした。
散々振り回されてきたんだから、これくらい困らせてもバチは当たらないはずだ。


「とにかく、今日はもうダメ。レンの身体も心配だし、俺の理性が本当に死ぬ」


フジは自分に言い聞かせるように大きく溜息をつくと、俺から視線を逸らして強引にうどんを啜り始めた。

フジにだったらなにされてもいいよ、っていうのは怒られそうだから、また今度にしよう。





うどんを食べ終え、食器を洗っていると後ろからギュッと抱きしめられる。


「なあ、フジ」
「ん?」


後ろから首筋に顔を埋めてくるフジに、俺は少し思い切って口を開いた。


「明日空いてる?」


俺が尋ねると、フジは少し驚いたように身体を離し、俺の顔を覗き込んできた。


「空いてるけど……なんで?」
「なんでって……明日、どっか行かね? 二人で」


照れくささを隠すように手元に視線を落としながら言うと、フジは嬉しそうに目を細めた。


「それって、デートの誘い?」
「うん、そう。嫌ならいいよ」
「嫌なわけないじゃん。めちゃくちゃ嬉しい」


フジは満足そうに口元を緩めると、俺の首筋に額をぐりぐりと押し付けてきた。髪の毛が肌を擦って擽ったい。


「よかった。予定空いてないかと思った」
「なんで?」
「明日って……もともと佐々木に誘われてて断ってた日じゃん。だから他に予定あるのかと」


俺がそう言うと、フジは「あー」と納得したような声を上げる。


「別にないよ。佐々木さんと休みの日まで遊ぶ必要ないから断っただけ」
「お前酷くね」
「本命いるのに遊んで気持たせるほうが酷いでしょ」
「同じようなことしてたくせに」
「それは……ごめん」


フジは降参するように溜息をつくと、俺の首筋に顔を埋めた。


「ちゃんと断るよ。『好きな奴がいるから付き合えない』って」
「最初からそうしとけバーカ」


俺がそう吐き捨てると同時に、首筋にチクッとした痛みが走った。
フジが俺の皮膚を軽く噛みちぎるみたいに小突き、そのまま満足そうに吸い付いてくる。


「バーカは余計でしょ」
「だって本当のことじゃん」


洗い終えた器を水切りかごに置き、俺はタオルで手先を拭きながら振り向くと、フジは困ったように笑って俺の顔を覗き込んできた。
その余裕そうな態度が、なんだか無性に気に食わない。


「……ばかなフジがキスしてくれないと、俺、口寂しくてまた余計なこと言っちゃうかも」


挑発するように囁くと、フジの瞳の奥が一瞬で揺らめき、暗い熱が宿るのが分かった。


「……ねえ、それ本気で言ってる?」
「逆に、本気じゃないと思う?」


俺はフジの腕を掴んで引き寄せ、その目を見つめる。


「ほら、早く」
「……ほんと、そういうのどこで身につけてるの」
「んー、樋口さん?」
「……ちょっと」
「うそうそ、冗談」
「……冗談でもその名前出さないで。本気で凹む」
「凹めばいいよ」


困ったように眉を下げつつも、フジの眼差しは捉えた獲物を逃さない肉食動物みたいに鋭かった。
フジが俺の腰をグッと引き寄せる。


「ん……っ」


重なった唇は、さっきまでの甘さを欠片も残していなかった。
容赦なく体温を奪われ、思考が真っ白に染まっていく。 俺が挑発したはずなのに、あっという間に主導権を握り返されて、胸の奥が甘い痺れで満たされた。


「んっ……ぁ……」


呼吸が苦しくなってフジの背中の服をぎゅっと掴むと、少しだけ隙間が空く。
でも、離れるのはほんの数ミリで、お互いの荒い吐息が唇に触れ合う距離のままだった。


「余計なこと言う口、これで塞げた?」
「……っ、全然。足りない」


強がって見上げると、フジはハッと鼻で笑い、どこか意地悪な笑みを浮かべた。


「そ。じゃあ朝までこうやって塞いでおかないとね」


そう言って、フジは再び容赦なく唇を覆いかぶせてきた。
熱い舌が口内を這い回り、頭の芯まで溶かされていく。
身体を支えるフジの腕の強さが、首筋に触れる指先の熱さが、嬉しくてたまらない。

キッチンの灯りの下、俺たちは何度も言葉を飲み込むようにキスを重ね続けた。





「……ん」


重い瞼を開くと、カーテンの隙間から差し込む日差しが眩しく視界を刺した。
ぼんやりとした頭のまま上体を起こそうとする。だが、腰から下にずっしりとした重みが走り、思わず痛みに顔を顰めてベッドに倒れ込んだ。
全身を包む疲労感と、腰の抜けたような怠さ。
昨夜の記憶が頭の中に一気に押し寄せてくる。
「キスだけでいい」なんて言いながら、キッチンでおねだりして、ベッドに入ってからもフジの首元にしがみついて離さなかったのは、紛れもなく俺自身だ。
フジの体温も、与えられる熱も、全部が心地よくて自分からねだった自覚はある。


「……やりすぎた」


枕に顔を埋めて小さく呟く。
手元にあったスマホを引き寄せて画面をつけると、表示された時刻は『12:42』だった。
昼どころか、もう完全に午後だ。
あんなに「明日どこか行こう」と話していたのに、二人して完全に沈没していたらしい。


「起きた?」


カチャリとドアが開き、シャワーと着替えを済ませたであろうフジが部屋に入ってきた。
俺の身体はさっぱりしてるし、服も着せられている。多分俺が寝ている間にフジがしてくれたのだろう。


「おきた……」


さっきは気づかなかったが、ちゃんと発声してみると声が掠れていた。


「うわ、声ガサガサ」


フジが申し訳なさそうに眉を下げて、ベッドの端に腰を下ろした。
そのままサイドテーブルにあったペットボトルの水をとり、キャップを開けて俺の口元に差し出してくる。


「はい、これ飲みな」
「……ありがと」


怠い体をゆっくりと起こしてペットボトルを受け取る。


「ごめんね、レン」


フジは俺が水を飲んだのを確認すると、落ち込んだように俺の頬を撫でてきた。


「昨日、これ以上したら負担かかるからしないって言ったのに……結局理性が持たなくて」


ストレートな言葉に一気に顔が熱くなり、俺はペットボトルを持ったまま固まる。
本気で反省している顔を見て、俺は少し拍子抜けしてしまうと同時に、気恥ずかしさが込み上げてきた。
フジを責める気なんて、最初からサラサラなかった。
「理性が持たない」と言っていたフジを煽って、その気にさせたのは俺の方だ。フジの体温も、向けられる強い熱も、全部心地よくて離したくなかったのは俺も一緒だったのだから。


「別にフジのせいじゃないよ。俺が、したくなったから」


俺がそう呟くと、フジは一瞬だけ呆けたように目を丸くした。
次の瞬間、目元をくしゃりと歪めて、感情を抑えきれないといった様子で俺の体にすっぽりと覆いかぶさってきた。


「ちょっと、重いって」
「無理、可愛すぎる。ほんとずるい」


抱きすくめる腕の力があまりにも強くて、俺は身動きが取れなくなる。
首筋に埋められたフジの顔から、熱い吐息が零れて肌をくすぐった。


「身体、大丈夫? 今日は出かけんのやめる?」


心配そうに顔を上げて俺の顔を覗き込んでくるフジに、俺は首を横に振る。


「行く。初めてのデートだし。俺から誘ったから」


そう言ってまっすぐ見上げると、フジは嬉しさに耐えかねたように目を細め、俺の額に優しく唇を押し当てた。


「じゃあ、準備しよ」


俺はベッドから這い出ると、フジの服の中から首元の詰まった服を借りて着込んだ。これで首元の痕も全部隠せる。


「んー、次はもっと隠せないところにつけるね」


俺の服装を見ながらフジが呟く。


「お前は俺を外に出したいのか出したくないのかどっちなの」
「もちろん、出したくないよ」


悪びれる様子もなく即答したフジは、俺の首元に手を伸ばすと、服の襟ぐりを少し引っ張って痕を指先で優しく撫で上げた。


「俺だけのものにして、ずっと閉じ込めておきたい。でも、レンが『デート行きたい』って言ってくれたのが嬉しすぎるから、今日は特別に外に出してあげる」
「言い方……」


完全に独占欲の塊みたいな言い草に呆れつつも、真っ直ぐすぎる熱量に胸の奥が熱くなる。


「どこ行く?」
「んー、腹減ったからなんか食べたい。ラーメンとか」
「お、いいね。とんこつラーメン?」
「え、なんで?」
「とんこつラーメンって喉に良いんだって」
「……誰のせいで喉痛めてると思ってんの」


じとーっと睨みつけると、フジは「ごめんって」と言いながら、悪びれもせず嬉しそうに俺の頭をぽんぽんと撫で回した。


「よし、じゃあガッツリ美味いとこ探そ」


フジは俺のカバンを持ち、先に玄関へと向かった。
靴を履き、鍵を手にしたフジの後に続いて玄関へと足を踏み出す。
扉の鍵を開け、フジがドアノブに手をかけた、まさにその時だった。


「あ、忘れ物」


フジがピタリと動きを止め、振り返る。


「え? なに忘れたの」


財布か鍵でも忘れたのかと思って顔を上げると、目の前にフジの顔が迫ってきた。
逃げる間もなく、唇を柔らかく塞がれる。
不意を突かれて固まっていると、フジはゆっくりと唇を離し、満足そうに目元を緩めた。


「よし、これで完璧」
「……お前、そんなことするんだ」
「するよ。彼氏だからね」


フジは悪びれる様子もなくニッと笑い、玄関のドアを押し開けた。
外の眩しい日光が目に刺さる。


「……てか、これ今思ったけどいつもと変わらなくね?」
「変わるよ。付き合ってるから」
「……そ」


昨日までの土砂降りが嘘みたいに上がり、澄み渡った秋の空から、眩しいくらいの陽光が降り注いでいた。
押し開けたドアの隙間から、どこか冷たさを帯びた新しい風が吹き抜けて、俺たちの頬を優しく撫でる。
これまで何度も同じ景色を見てきたはずなのに。
世界ごと塗り替えられたみたいに眩しくて、胸の奥がぎゅっと甘く締め付けられた。

俺たちの間に流れる空気がほんの少しだけ形を変えたのを感じながら、俺は陽だまりの中に伸びる二つの影を静かに踏みしめた。


おわり