相棒に抱かれることになった



最寄り駅のホームに滑り込んだものの、掲示板に表示された次の電車の到着時刻は20分後だった。
スカスカな時刻表を見上げ、俺はぎゅっと拳を握りしめる。
20分なんて待っていられない。俺は今すぐにでも、一刻も早くフジに会いたいのに。
フジの家の最寄りまでは、たったの一駅だ。


「……走った方が早いか」


そう呟くと同時に、俺は駅の階段を駆け下り、夜の街へと飛び出した。

早く、伝えないと。
明日になって、フジが誰かのものになってしまう前に。

その一心だけで、重い足を前に動かす。
部活をずっとサボっていたせいで驚くほど早く息が上がり、肺が焼き付くように痛んだが、立ち止まる気なんてサラサラなかった。

夜風を切って走り続けていると、ポツ、ポツ、と肌を刺す冷たい感覚が伝わってきた。
あっという間に雨粒は大きくなり、容赦なく俺の頭上から降り注いでくる。


「最悪……」


なんでこんな時に雨なんて降ってくるんだ。
まるで神様が、これ以上フジのところへ行くなと言っているみたいじゃんか。
例えそうだとしても、この想いを伝えるくらいは許してよ。

雨水が制服を濡らし、髪から雫が伝って視界を遮る。
冷たさに身ぶるいしながらも、俺は泥水を跳ね返してがむしゃらに地面を蹴り続けた。





フジの家があるマンションに着く。
エレベーターを待ってる時間すら惜しくて、階段を駆け上がる。

雨と自分の息と足音が、不協和音を響かせてうるさい。
心臓がそれに呼応するように拍動し始めた。

フジに会ったらなんて言おうか。

その問いは頭の中でぐるぐると渦巻くだけで、答えは出なかった。

階段を上がって行くたび、記憶が蘇る。

肌に直接伝わる体温も、
俺を呼ぶ声も、
心臓の音も、
俺を抱きしめた時の匂いも、
全てを包みこむ優しさも全部。

全部、全部──絶対に忘れたくない。
せめて、他の誰かに上書きされる前にもう一度だけ触れたかった。

いつの間にか、目元を濡らしているのが雨水なのか、溢れ出してきた涙なのかも分からなくなっていた。

息を吐き出し、階段を登り切る。
濡れて重くなった体を引きずるようにして廊下を進み、俺はフジの家のドアの前で足を止めた。

震えた手でインターホンを押す。
全身を濡らした雨は、俺の体温を奪っていったらしかった。
ガチャリ、と解錠の音がしてドアが開く。
私服姿のフジが、俺を見て驚いたように目を見開いた。


「……レン? 」


声を聞いた瞬間、自分の中で耐えていたすべての堤防が決壊する。
俺は言葉よりも先にフジの胸の中へ倒れ込むように飛び込んでいた。


「うわっ……!?」
「っ、ごめん……ふじ……っ」


フジの部屋着の胸元をぎゅっと掴みしめる。
溢れ出してきた感情は全部、ボロボロと溢れる大量の涙に変わって俺の視界を奪っていった。
叫びたいほどの苦しみなのに喉が絞れて、出てくるのは途切れ途切れの、掠れた情けない声だけだった。


「レン、急にどうしたの」
「……ふじ、」
「うん」


フジは俺に腕を回してその背中を撫でる。
その優しさが懐かしくて、離れたくなくて。
今だけでも、それを自分のものにしたいと思った。


「────さいごにする、か、らっ、だいてよ」


言いたいことはいっぱいあった。
好きだとか、行くなとか、俺だけを見てくれとか。
言うべきことだって、数えきれないほどあった。

なのに、今さら「好き」なんて言って拒絶されるのが怖くて。
本命になんてなれないと分かっているのに、あいつの体温を諦めきれなくて。
喉を押し通して口を突いて出たのは、あまりにも惨めで身勝手な乞いだった。


「は?」


俺の背中に添えられていた手が固まったのがわかった。
フジの顔を見るのが怖くて、俺はその胸に顔を埋めながら続ける。


「これで最後にするから……っ。佐々木と、付き合う前に……俺、他の人じゃダメなんだよ。フジじゃなきゃ」
「……さっきから何言ってんの?」


頭上から聞こえたフジの声は、驚くほど静かで、冷やかだった。


「ごめ……」
「いいから入って。身体冷える」


フジは俺の手首を掴むと、力任せに家の中へと引き入れた。
パタン、と背後で重いドアが閉まり、カチャリと鍵の開閉音が響く。
外の雨音が遠のき、二人きりの狭い玄関に静寂が満ちた。


「ちょっと待ってて」


フジは溜息をつきながら脱衣所へ向かい、すぐに大きめのバスタオルを持って戻ってきた。
それを俺の頭からかぶせると、頭や濡れた首筋を拭いていく。
触れる指先の温度は昔と変わらず優しくて、俺の目頭はまた熱くなった。


「服も濡れてるでしょ。こっちに着替えな」
「あ……ありがと」


拒絶されると思っていたのに、変わらず優しいことに驚く。
差し出された服を受け取ったまま呆然と突っ立っていると、フジはため息をついてこちらに近づいてきた。


「……脱げないなら、脱がすよ」


フジは俺の首元のボタンにクイと指を引っ掛ける。
触れた瞬間、体がビクッと跳ねた。


「じ、自分で脱げる」
「じゃあ早くしな。風邪ひかれたら困る」


そう言って、フジは狭い玄関の壁に背中を預けて腕を組んだ。
手元を震わせながら、雨で張り付いた制服を脱ぎ捨てる。
フジから渡された大きめのTシャツとスウェットを身にまとうと、あいつの部屋の匂いが全身を包み込んで、また泣きそうになった。


「……着替えた」
「ん。俺の部屋おいで」


フジの部屋に通され、ベッドに座らされる。
ホッと一息つくと、フジが口を開いた。


「で?さっきの、どういう意味」


フジは向かいに置いた学習椅子を引き寄せて座ると、肘をついて俺を正面から見据える。


「佐々木と付き合う前にって何。なんでここで佐々木さんの名前が出てくるわけ」
「だって、告白するって……明日、二人で出かける時に……」
「はぁ」


フジは深々とため息をつくと、心底呆れたように額を押さえた。


「出かけるなんて一言も言ってないんだけど。『明日暇?』って聞かれたのは事実だけど、普通に断ったし」


思考が真っ白になる。
涙で腫れた目を瞬かせると、フジはため息交じりに立ち上がり、俺の前に屈み込んだ。
逃がさないように、俺の雨で冷え切った両頬を熱い手で包み込んでくる。


「あとさ、俺が佐々木さんと親しくしてたのは、佐々木さんがお前に気があったから」
「……え?」
「お前が俺以外の奴に取られるのが嫌だったから、俺に興味向けさせただけ。俺はハナからレン以外とどうにかなる気はないよ」


フジは驚きで声が出ない俺の顔をうかがうと、眉を顰めた。


「信じてない?」
「だ、だって、前に岩井たちにセフレはいないとか、俺が誰かと付き合っても関係ないとか言ってたじゃん」
「レンは俺にとってセフレなんかじゃないし。それに、関係ないって言わないと、レンに重いって思われそうだったから。……本当は、今までレンが女子と付き合ってたのも、めちゃくちゃ嫌だった」
「は……」


冷々とした声で告げられたその言葉の重さに、心臓が跳ね上がった。


「俺がどんな気持ちで『抱かれてみる?』って言ったと思ってんの。 ずっと、レンが俺だけを見るのを待ってたよ」


フジの手が、俺の首筋を包み込む。
いつも冷静で、隙を見せない相棒の瞳の奥に、暗く、底知れない熱が揺らめいていた。


「レン。俺は昔からずっと、レンのことが好きだよ」


真っ白になった思考の隙間に、その言葉がゆっくりと染み渡っていく。


「好き……?」


掠れた声で呟くと、フジは俺の髪の毛をサラッと撫で上げた。


「そう。レンのことが好き。レンは?俺のこと好き?」
「俺は────俺も、フジのこと、すき」
「そっか。よかった」


フジは優しく笑うと、俺の肩に顎を乗せるようにして俺を抱きしめる。
俺の頭を撫でながら、小さく呟く。


「まあ、こうして泣きつかれたらそうとしか思えないけどね」
「……お前、性格悪」
「悪くていいよ。レンが俺のものになったんだから」


そう言って俺の髪を梳くフジの手つきは、どこまでも愛おしそうなくらい優しかった。
けれど、背中に回された腕の力は強くて、もう二度と俺を逃がさないという確固たる強情さが籠もっている。


「……ほんと、酷い」


ぽろぽろと、また目元から熱いものが溢れ出してきた。
こんなにあっさり「俺のもの」だなんて宣言されて、何事もなかったみたいに抱きしめられているのが、夢みたいで信じられない。


「ごめん。自分でもバカだって思うよ」


フジは体を離すと、親指で俺の頬を伝う涙をゆっくりと拭った。


「ねえ、レン。さっき『最後にするから』って言ったよね」
「うん……」
「最後じゃなくて、最初にしよ」
「最初?」
「彼氏になって、最初の」


彼氏。
今まで一度も自分たちの関係に当てはめたことのない響きに、胸の奥が痛いほど跳ね上がる。

俺がゆっくり頷くと、フジは優しく笑って顔を近づける。
拒む気なんて、最初から微塵もなかった。

重なる唇は雨の味がして、少しだけしょっぱくて、でもフジの体温でどこまでも熱かった。
頭の後ろを強く抱え込まれ、息が止まるほど深く、貪るようなキスを落とされる。

気持ち良くて、そのまま身を預けようとすると、フジの手がシャツの中へと入ってくる。


「……っ、」
「冷た……雨に濡れたの寒かったでしょ」


フジの手が触れて身体を震わすと、フジは俺から少し離れて眉を顰めた。

離れないでほしい。せっかく気持ちよかったのに。
早く、フジが欲しい。


「ん、寒かった……から、フジがあっためて」
「……お前、自分が何言ってんのか分かってる?」


呆れたような、けれどどこか呑み込まれそうなほど低い声が耳元に降ってくる。
離れた距離を詰めるように、フジは俺の腰を抱き寄せてベッドの上に倒し込んだ。
シャツの中に差し込まれた手が、俺の脇腹から背中へと這い上がり、直に肌を撫でていく。
冷え切っていた皮膚が、フジの手のひらの熱を吸い上げて熱狂していくのが分かった。


「……俺がわかってないと思ってんの?」
「わかんないんじゃない?勘違いしてたんだから」
「それはフジのせいじゃん……」
「まあね。でも勘違いして泣いてたレンも可愛かったよ」


フジは可笑しそうにクスッと笑うと、俺の濡れた目元を指先で優しく拭った。


「……嬉しくないし、いらねーんだけど。その情報」
「俺にとっては大事だから。レンが俺を好きだって証拠でしょ?」
「……調子乗んな」
「乗るよ。ずっと我慢してたんだから、これくらい許して」


俺を見つめるその眼差しに耐えきれなくなって、俺はフジの首元を強く抱きしめ直す。


「……もういいから、はやく」


恥ずかしさを誤魔化すように囁くと、フジは降参するように深く息を吐いた。


「はいはい」


口元を緩めたフジの顔が近づき、焦らすように優しく唇が重ねられる。
フジの親指が俺の下唇をぐっと押し開き、滑り込むように舌が入り込んでくる。
深く、絡みつくようなキス。
呼吸がうまくできなくなって、俺はフジの背中に必死で腕を回した。

唇が離れると、フジは試すような視線で俺を見つめる。


「温まった?」
「……全然。まだ寒い」
「じゃあ、もっと温めてあげないとね」


フジはそう笑って俺の身体を隙間なく抱きすくめて、もう一度唇にキスを落とした。

「相棒」という安全な場所に逃げ込んでいた俺たちは、もう二度と元の関係には戻れない。
でも、それも悪くない。

外で降り続く雨の音は、もう俺たちの耳には一切届いていなかった。