『俺のことは気にしなくていいよ。またいつでもバスケしに来な』
樋口さんとのトーク画面に送信されたメッセージに、返信しないまま数日が経った。
放課後の教室。
クラスの人たちは、帰宅したり部活に行ったりしている中、俺は机の上に突っ伏しながらその画面を見つめていた。
「……はぁ」
俺はため息をついて側面の電源ボタンを押す。
部活は最近全く行ってないし、その代わりに行っていた地域のクラブチームにも行きづらくなってしまった。
自分の頭の悪さに嫌気がさす。
今までならバスケに打ち込んで気を紛らわせていたが、もうそれもできない。
残ったのは惨めさだけだった。
「……帰ろ」
席を立ち、カバンを肩にかけたその時、後ろからトンと肩を叩かれた。
「……ん、なに?佐々木」
「あのさ、ちょっと相談したいことあって。藤野のことなんだけど」
佐々木は顔を赤らめて俺を見据える。
佐々木の後ろには彼女の取り巻きの女子が控えていた。
「……フジがどうかした?」
本当は断りたかったが、ここで断ってしまうと面倒なことになるだろう。
女子の集団には逆らわないほうがいい、というのは経験上間違いなかった。
「藤野の好きな人、誰だか知ってる?」
「は?」
抑えようとしたのに、思わず素の声が跳ね上がってしまった。
女子たちが一瞬だけ顔を見合わせる。
俺は急いで口をつぐみ、動揺を悟られないように平然を装いながら続きを促した。
「この前好きな人いるか聞いたら、『いる』って言ってて。藤野と仲いい京原だったら知ってるかなって思って!」
「しかも、同じクラスだって言ってたし!!」
後ろに控えていた女子の一人が、興奮気味に横から口を挟む。
脳を直接殴られたような衝撃が全身を走り抜けた。
好きな人がいる。
しかも、同じクラス。
多分、いや絶対、佐々木だろうな。
胸の奥が冷たく凍りついていくと同時に、ドロドロとした黒い感情がドッと溢れ出してきそうになる。必死で奥歯を噛み締め、声が震えないように喉を整えた。
「……いや、知らねーわ。そういう話あんましないし」
「じゃあじゃあ、好きなタイプとか!聞いてない?」
佐々木は身を乗り出すようにして、目を輝かせながら聞いてくる。
逃げ出したい。
なんで俺が、フジの恋路の相談なんて乗らなきゃいけないんだ。
俺は自分の心を刃物で削り取るような感覚を覚えながら、適当な言葉を口から吐き出した。
「……覚えてない」
嘘だ。覚えてないわけない。
顔が良くて、わりとよく笑って、普段はちょっと強がってるくせに、二人きりになると急に素直になって、自分にだけめちゃくちゃ甘えてくるような子。あと、一緒にいて気兼ねしない子。
一言一句覚えてるよ。
でも、言いたくなかった。
言ってしまえば、俺だけが知ってることが一つ減ってしまうから。
「そっか〜!実はね、明日土曜日だし、藤野を遊びに誘おうと思ってて!それで脈アリそうなら告白しようかなって!」
「そ……頑張って」
佐々木は頬を真っ赤にして嬉しそうに言った。
俺は引きつった笑みを浮かべ、かすれた声で答えるのが精一杯だった。
俺が俯いたその時、腕がクイと引かれる。
顔を上げるとどこか焦った様子の部活ジャージ姿のフジが俺を見つめていた。
「レン。佐々木さんとなに話してんの?」
「……別に、なんでもない」
そんなに佐々木が俺と話すのが嫌なのか。
心配しなくても取らないよ、俺が好きなのはフジなんだから。
そう心の中で呟いて、また惨めな気分になる。
フジのことが好きな気持ちも、明日で全部塵になるんだ。
明日、佐々木がフジに告白してしまえば。
「……じゃ、俺帰るわ」
これ以上ここにいたら、息ができなくなってしまう。
俺はフジの手を振り払い、逃げるように教室内を通り抜けて廊下へ飛び出した。
引き止めるフジの声が聞こえた気がしたが、振り返る余裕なんてなかった。
早歩きで廊下を急ぐ俺の背後で、教室から甲高い佐々木の声が響く。
「藤野!あのさ、明日って時間ある?よかったら、一緒に遊びに行かない?」
胸を突くその声に、俺は耳を塞ぎたくなった。
追ってくる足音はない。
フジはきっと、その誘いに応じるんだろう。
視界が歪んで滲んでいく。
俺はカバンのベルトを強く握りしめ、逃げ出すように校舎を駆け下りた。
何もかもが終わってしまった。
明日になれば、フジは誰かのものになる。
もう二度と、あの特別な温度を俺には向けないんだ。
そう思うと、胸が痛いほど軋んだ。
*
気づけば俺は、自分の家とは違う方角へ走っていた。
辿り着いたのは、樋口さんの住むマンションの前だった。
連絡も返さず逃げ出した癖に、他に逃げ場所なんてなかった。一人でいたら、フジの残像に押し潰されそうだった。
エントランスに入る勇気もなく、駐車場のスロープ脇にあるベンチにただ座っていた。
「……なにやってんの」
突然、上から呆れたような声が降ってきた。
肩をビクッと跳ねさせて顔を上げる。
そこには、ビニール袋を下げた樋口さんが立っていた。コンビニからの帰りなのだろうか。ラフな部屋着に羽織りを重ねた姿で、俺を見下ろしている。
「……樋口、さん」
「連絡も返さないで放置しておいてさ。急に押しかけてくるとか、ほんと都合のいい男だよね、蓮介くん」
樋口さんは溜息をつき、手に持っていた缶コーヒーを俺の頬にぽんと押し当てた。
熱いと温かいの間くらいの温度が頬に広がっていく。
「あげる」
樋口さんはそう言って俺の手に缶コーヒーを押し付けた後、隣に腰を下ろした。
以前のような甘さはそこにはない。
どこかサバサバとしていて、それが逆にかえって救いだった。
「……すみません」
「いいよ別に。減るもんじゃないし。それで、 今度は何? また俺のこと利用しに来たの?」
「違っ……ただ、もう……どこに行けばいいか、分かんなくて」
「ふーん。で、藤野くんとはどうなったの」
名前を出された瞬間、胸の奥がキュッと引き絞られる。
俺は、ぽつぽつと放課後の出来事を話し始めた。佐々木に相談されたこと。フジに好きな人がいると知ったこと。明日、佐々木がフジに告白すること。
話し終えると、樋口さんはなぜか可笑しそうに口元を歪めた。
「同じクラスの子が好き、ねぇ……俺は大体想像つくな。藤野くんがどんなこと考えてんのか」
「え……」
思わず顔を上げると、樋口さんはこちらに視線を移した後、いたずらな表情を浮かべた。
「でも、教えてあげない」
「……なんでですか」
「俺を振った仕返し」
意地悪く囁く樋口さんに、俺は言葉を詰まらせた。
樋口さんはどこか楽しそうな目で見下ろしてくる。
「蓮介くんの頭の中がその男でいっぱいだったから諦めて引き下がったのにさ。当事者の君がそんな半端な覚悟で逃げ回って、教えて助けてあげるほど俺お人好しじゃないんだよね。……だから一回、藤野くんにちゃんとぶつかってきなよ」
樋口さんはゆっくりと立ち上がると、ベンチの横から俺を見下ろした。
夜風が彼の髪を揺らす。
「──そんで、もし失恋したら、俺が抱いて慰めてあげる」
「は……」
「次は泣いても、やめてあげないからね」
低く耳元に落とされた言葉に、背筋がゾクッと跳ね上がった。
「……樋口さんって、もっと優しい人だと思ってました」
「俺は自分の男にしか優しくしない主義だから」
樋口さんはそう笑うと、ポンと俺の頭を雑に撫でた。
「ほら、さっさと立ちな。今日は送ってあげないからね」
「……はい、ありがとうございました」
俺がベンチから立ち上がって見上げると、樋口さんは一瞬間を置いた。
意地悪く細められていた彼の目が、ほんの少しだけ柔らかく揺れる。
「気をつけて帰りなよ」
樋口さんは乱暴に俺の前髪をもう一度くしゃりと散らすと、マンションのエントランスへ歩き出した。
その耳の先が、夜風のせいだけではない熱で少し赤くなっているように見えた。
手のひらに残る缶コーヒーの温もりが、冷え切っていた胸の奥にじんわりと広がっていく。
明日、佐々木がフジに告白する。
もしフジがその想いを受け入れたら、俺は今度こそ本当に失恋する。
嫌だ。
胸の奥から、ずっと押し殺していた本音が溢れ出してくる。
他の誰かのものになるフジなんて見たくない。
あいつの隣で笑うのも、声を聞くのも、視線を向けられるのも、その温かさに触れるのも全部、俺だけがいい。
ぬるくなったコーヒーを飲み干して立ち上がる。
そのままゴミ箱へ空き缶を投げ入れると、ゴミ箱の中で缶がぶつかった音が夜の静寂に響いた。
明日になって二人が出会ってからじゃ遅い。
フジが佐々木の気持ちを知る前に、俺の口から直接、この汚い独占欲も恋心も全部ぶつけなきゃ意味がない。
行かないと。
深く息を吸い込み、俺は夜道へ足を踏み出した。
一歩、二歩と踏み出すごとに、身体の中に熱が満ちていく。気づけば、俺の足は走り出していた。
夜風が顔を叩き、冷たい空気が肺を満たす。
怖くないわけじゃない。振られて惨めに傷つく可能性なんていくらでもある。
でも、何も伝えないままフジを諦める恐怖に比べたら、そんな傷なんてどうだってよかった。
息を荒らし、前だけを見据えて地面を蹴る。
今夜、全部終わらせる。
断られても、拒絶されてもいい。
これが最後になってもいいから、あいつの身体も心も、俺の手で確かめに行く。



