相棒に抱かれることになった



「……変なの見せて、すみません」


隣でハンドルを握る樋口さんに、俺は深く頭を下げる。
せっかく来てくれたのに、高校生のよくわからない揉め事に巻き込んでしまう形になって申し訳ない。


「ううん。全然いいよ」


樋口さんは怒る様子もなく、いつもの柔らかく落ち着いた声で短く返した。
フロントガラスの向こうで信号が赤に変わり、車が静かに停車する。
サイドブレーキを引く音のあと、樋口さんは前方の赤信号を見つめたまま、ポツリと呟くように言った。


「蓮介くん、うち来る?」
「……えっ?」


不意を突かれて声を詰まらせると、樋口さんは信号から俺へと視線を移した。
すっと伸びてきた長い指先が、俺の目元にやさしく触れる。


「こんな泣きそうな顔してる子そのまま連れてったら、俺がチームの人に怒られちゃうからね」


必死で涙を堪えて、必死で平気を装っていたのに。
そんな風に優しくされたら、余計に感情が決壊してしまうじゃないか。
樋口さんの手はそのまま俺の頭へと移動し、子どもを撫でるようにゆっくりと、愛おしそうに動く。


「どうする?」


問いかける声はどこまでも穏やかだった。
きっとこの人は、俺が首を横に振っても、縦に振っても、同じように笑って「そっか」と受け入れてくれるのだろう。
今の俺には、その条件のない優しさが痛いほど恋しかった。
誰でもいいから温もりに触れて、胸の穴を埋めていたかった。

俺が小さく頷くと、樋口さんは俺の想像通り、「そっか」と満足そうに目を細めた。





滑らかに走る車内の静寂を破ったのは、樋口さんの唐突な問いだった。


「蓮介くんが部活行ってないのって、あの子が原因?」 「……はい」


ちょうどいい揺れに身を任せながら、俺は流れていく窓の外の景色を見つめたまま頷いた。


「元カレとか?」
「そ、んなんじゃないです」
「へぇ」


焦って言葉を詰まらせた俺の反応に、樋口さんは興味深そうに短く相槌を打つ。
一瞬の沈黙。
気まずさを紛らわせるように、俺は喉の奥から言葉を拾い集めた。


「ていうか……樋口さんは、そういうの大丈夫な人なんですか」
「そういうのって?」
「一応……男同士だから」
「あぁ」


樋口さんは合点がいったように小さく笑うと、ちらりとこちらに視線を向けた。


「──俺、男が好きなんだよね」
「そう、なんですか」
「うん。だから今日の蓮介くんとあの子のやり取りを見て、話を聞いてあげられるんじゃないかって思ったんだよ」


さらりと告げられた告白に驚きつつも、その言葉の裏にある優しさに、俺はまた毒気を抜かれていた。


「驚いた?」
「……ちょっとだけ。でも、なんか……樋口さんらしい気もします」
「なにそれ。俺、そんなにわかりやすい?」


可笑しそうにクスリと笑う樋口さんの横顔は、どこか艶っぽく見えた。
膝の上で重ねた自分の手元を見つめながら、俺はぽつりと呟く。


「樋口さんって、誰にでもそうやって優しいんですか」
「んー……どうだろ。少なくとも、興味のない子をわざわざ車に乗せたりはしないかな」


さらりと返された言葉の意味に胸が跳ねて、俺は思わず息を呑んだ。
樋口さんはフロントガラスに視線を戻したまま、ハンドルを握る手に少しだけ力を込める。


「──それでも、うち来る?」


試すような、けれどどこまでも甘い響き。
冷え切った俺の心には、その温もりが毒だと分かっていても心地よかった。


「……はい」


喉の奥がキュッと絞られるような感覚を覚えながら、俺は静かに車のシートへ深く身を沈めた。





そのまま車は静かな住宅街へと入り、マンションの地下駐車場に滑り込んだ。
エンジンが切れると、重苦しい沈黙が一気に車内を包み込む。


「着いたよ。行こうか」


樋口さんに促され、俺は助手席のドアを開けた。
整然としたマンションのエレベーターに乗り込み、数階上の部屋へ向かう。
カチリと鍵の開く音がしてドアが開くと、そこには樋口さん一人分の生活感と、どことなく甘くて品のある匂いが漂っていた。


「足元気をつけてね。適当に座って」


電気をつけた樋口さんが、リビングのソファを指さす。
俺はお邪魔しますと小さく呟き、ソファの端へと腰を下ろした。


「はい、温かいお茶」


湯気の立つマグカップを差し出され、両手で受け取る。
樋口さんは俺のすぐ隣に腰を下ろすと、長い足を組んで深くソファーに背を預けた。


「で? さっきのあの子……名前、なんて言うの?」
「……フジ。藤野です」
「その藤野くんと、どういう関係だったの?」


マグカップを口元へ運ぼうとしていた手が、ぴたりと止まった。


「……ただの幼馴染です。10年くらいずっと一緒にいて……でも、俺が自分でそれを壊しました」


必死に自分を突き放すような言い方をする俺を、樋口さんは何も言わずにただ見つめていた。
その温かい眼差しに耐えきれなくなって俯くと、膝の上で握りしめた拳の上に、ポツリと温かい雫が落ちた。
一度溢れ出した涙は、もう止められなかった。


「あいつ、いい感じの女子がいて。もう……俺の隣にはいてくれないのに。離れたのは俺のくせに……あいつが他の奴と笑ってるの見るだけで、心ぐちゃぐちゃになって……っ」


声にならなくなって顔を覆うと、ふっと身体が横から引き寄せられた。
樋口さんは片手で、俺の手から優しくマグカップを取って机に置き、もう一方の手で俺を引き寄せる。
服越しに伝わる、樋口さんの体温。
大きな手が、俺の背中を包み込むようにゆっくりと撫で下ろす。


「いいよ。全部吐き出しちゃいな」


耳元で囁かれる言葉はどこまでも甘く、優しかった。
この温もりに身を委ねてしまえば楽になれると分かっている。
誰でもいい。
俺だけを見てくれるなら、もう誰だってよかった。
樋口さんの肩に顔を埋めながら、俺は必死に目を閉じた。
呼吸を乱しながら俺を抱き締める樋口さんの腕の中で、頭の奥にへばりついて離れないフジの残像を、俺は力任せに消し去ろうとしていた。





「落ち着いた?」


俺を抱きしめる腕を少し緩めて、樋口さんが柔らかく微笑む。
俺は俯いたまま小さく頷いた。


「フジのこと……あんなに一気に話したの、初めてでした」
「そっか。良かった」


樋口さんは優しく目を細めると、再び腕の力を強めてオレを抱きしめる。
その鼓動を聞きながら、俺は口を開いた。

「……樋口さん」
「ん?」
「フジのこと忘れるの、どうしたらいいですか」

「──樋口さんなら、フジのこと忘れさせてくれますか」


早く忘れたい。
終わりにしたはずなのに、どうしても思い出してしまって、その度に苦しくなる。
樋口さんにこの家に連れて来られた意味も、こうして抱きしめられている意味も、全部わかっていた。
わかっていて、俺はここにきたのだ。

縋り付くような俺の問いに、樋口さんは一瞬だけ目を見張り、それから意地悪く、けれど甘く目を細めた。


「……本気? 俺、遠慮しないよ」


樋口さんは静かに身を乗り出し、俺の肩を押し倒した。
背中が柔らかなソファーのクッションに沈み込む。
見上げる視界を樋口さんの大きな影が覆い尽くし、そのまま手首を優しく掴まれて頭の上に固定された。

誰でもいい。
誰でもいいから俺をぐちゃぐちゃにして、フジの影を消し去って忘れさせてほしかった。

元々、誰だって良かったんだ。
「誰でもいいから抱かれてみたい」って、そんな俺の欲望にたまたま呼応したのが、フジだっただけで。

これでいい。
むしろ、これがいい。


「怖くない?」


耳元に落ちる温かな吐息と、首筋を滑る指先。
その手つきはどこまでも慣れていて、俺を安心させるように丁寧だった。シャツのボタンがひとつずつ外され、冷たい空気が肌を撫でる。

楽になれる。
誰でもいいから、この温もりに全部を預ければ。

そう自分に言い聞かせ、俺は静かに目を閉じた。
樋口さんの体温を受け入れようと、脱力して身を預ける。
樋口さんの唇が、俺の鎖骨のあたりにゆっくりと落ちた。生ぬるい感触が肌を伝う。

その瞬間だった。
胸の奥を刺すような、猛烈な違和感が全身を駆け抜ける。
肌に触れる手つきも、体に覆いかぶさる重みも、髪の匂いも。

────全部、違う。

どんなに優しく触れられても、頭の中に浮かんでくるのは、甘くて、優しくて、焦ったいフジの指先だった。

樋口さんに抱かれようとすればするほど、白く塗りつぶされるどころか、フジの体温や声が鮮烈なほど胸の中に溢れ返っていく。

逃げ出したかった。でも、逃げ出したいのは樋口さんからじゃなく、「フジじゃないとダメだ」と突きつけられているこの現実からだった。


「フジっ……」


喉の奥から掠れた声が漏れ出し、気がついた時には視界が完全に歪んでいた。
ボロボロと溢れ出した涙が頬を伝い、俺の服を脱がせようとしていた樋口さんの手の甲にポタリと落ちる。一度決壊した感情はもう止められず、俺は子供のように泣きじゃくった。
心が完全にぐちゃぐちゃになって、自分でもどうしようもなかった。


「……っ……ごめ、なさっ……ひぐ、ちさん」


樋口さんの手がぴたりと止まった。
静まり返った部屋の中で、俺の情けない泣き声だけが響く。
俺の目から次々と零れ落ちる涙を見て、樋口さんはふっと自虐的な笑みを漏らした。


「……ダメだな。俺、完全に勝ち目ないじゃん」


大きな手が俺の頬に触れ、親指で零れる涙を優しく拭い去る。
掴まれていた手首が解放され、樋口さんはゆっくりと身体を離した。そして、肌の露出した俺のシャツを、そっと元通りに整えてくれる。


「俺のこと利用して忘れるつもりだったんでしょ? 乗っかって奪ってやろうと思ったんだけど……ダメだったか」


涙で視界がぐしゃぐしゃのまま見上げると、樋口さんは苦笑いを浮かべながら、俺の頭の上にぽんと手を置いた。


「好きな子に他の男の名前呼んで泣かれるの、男として一番堪えるんだけどな」
「……すみ、ません……」
「いーよ。泣かせるつもりで手を出したわけじゃないし」


呆然と彼を見上げる俺の目元を、親指の腹が優しく撫でる。
そこに滲む熱に、胸が痛いほど締め付けられた。


「『どうしたら忘れられるか』なんて言っておきながらさ」


一瞬だけ愛おしそうに目を細め、諭すような声で静かに紡ぐ。


「そんな顔して泣かれたら……もう最初から、身体開いて忘れられるような恋じゃないって、自分で言ってるようなもんだよ」


胸の破片をひとつずつ拾い集められるような言葉だった。言い返す言葉なんて見つからず、俺はただ落としそうになる涙を必死に堪えることしかできない。
大きな手のひらが頭をひと撫でして、名残惜しそうに離れていく。
樋口さんは静かに立ち上がると、車の鍵を手にして俺を見下ろした。


「ほら、立って。家まで送ってあげるから」
「……はい」
「いつか、ちゃんと本命の子のとこ行きなよ」


諭すようなその声はどこまでもあたたかく、そして容赦なく俺に本当の気持ちを突きつけていた。