「お疲れ様でした!」
「お、お疲れさまでした」
意気揚々と掲げられた緑川さんのハイボールのグラスに、私も同じくハイボールのグラスを合わせた。からん、氷が音を立てる。店内は仕事帰りの人たちでにぎわっていて、あちこちから笑い声やグラスの触れ合う音が聞こえてきた。
仕事を終えた私たちはバルに入った。今度ご飯でもどう? と誘ったのに対して、今日の今日で行くことになるとは。緑川さんの行動力の高さには舌を巻く。
「いやあ、まさか原口さんがレズだとは。私と二人で、IT担当課の女性社員のレズ率は百パーセントですよ」
「ホントだねえ……」
世の中に私以外のレズビアンがいることは理解していたけど、こんなに身近に現れるとは思っていなかった。
「あの、さっそくで悪いけど、彼女さんのこととか聞いてもいい?」
「どうぞどうぞ。恋バナは話すのも聞くのも大好きです」
緑川さんは小鉢のお浸しをつつきながら楽しそうに言った。
「じゃあ、どこで出会ったの?」
「マチアプです」
「やっぱり。今はみんなマッチングアプリをやってるよね」
「原口さんはやらないんですか?」
「うん、ちょっと、気が引けるんだよねえ……」
恋人には憧れるけど、出会いの場に首を突っ込むのはちょっと怖い。こんなんだから、いつまで経っても恋人ができないってのはわかってるんだけどね。
それから、緑川さんの恋愛遍歴やノロケ話などを聞かせてもらった。真面目そうな見た目の割に、これまでに七人の女性との交際経験があるという緑川さん。恋愛猛者のリアルなエピソードの数々に、私は年甲斐もなく興奮した。
すると、緑川さんの眼鏡がきらりと光り、こちらに鋭い視線がよこされた。
「じゃあ今度は原口さんの番です」
「え」
話を振られると思っていなかったので、私は間抜けな顔で固まってしまった。
「今は恋人は?」
「いやあ……実は私、こんな年齢で恥ずかしいんだけど、誰かと付き合ったりした経験がなくて……」
「あら、そうなんですね。好きな人とかは?」
好きな、人。
即答できなくて、グラスに視線を落とす。炭酸の泡が静かに上がっていくのを見ながら、自分の考えを整理しようとした。頭の中には真っ先に葵ちゃんの姿が浮かんでいた。でも、私が葵ちゃんを好きだと言ってしまうのはなんとなくおこがましい気がして、代わりにあうあうと情けない声が漏れた。
「んふふ、今考えていたのはどなたなんですかあ?」
心を見透かしたようにニヤリと笑う緑川さん。私は肩を落として、諦めの息を吐いた。
「あのね……私の同居人」
「へえ、同居! なんだ、やり手じゃないですか」
同居というワードに強く反応した緑川さんは、ハイボールを一口飲んでからこちらを熱い目で見た。
「いやいや! そういうのじゃなくて。上京した大学生の親戚なの。下宿みたいな感じ」
「なるほど。でもいいですねえ。好きな人と同居なんて、うらやましい」
「まあ、確かに、いつもご飯を作ってくれたり、他愛のない話をしたり、日々楽しくてしょうがないんだけど……この想いは叶わないんだなって思うと、こう、ずんと気が落ちるっていうか」
「その子はノンケなんですね」
緑川さんは同情の眼差しを向けてきた。
「うん……いや、本人がそう言ったわけじゃないけど、多分そう。それに、私よりも二十歳も年下なの。そんな子どもみたいな子を好きになるなんて、ダメだよね……」
「まあ、ノンケの人はそれが当たり前だから、わざわざ説明しないですよね。でも、年齢は理由にならないと思いますよ。私の今の彼女もまあまあ年上だし」
SNSに投稿されていた写真を思い出す。私ほどではないけど、確かに年上っぽかった。
「それで、どんなところが好きなんですか?」
「そ、そうねえ……」
葵ちゃんのことをイメージすると、好きな理由はいくらでも出てきた。
「まず、可愛い。私のことを気にかけてくれて、すごく優しい。作ってくれる料理がおいしい。読書が好きで、真剣に本を読む姿が素敵。あと、笑った顔とか、綺麗な肌とか、ちょっと細めの手足とか。毎朝すごい寝ぐせで起きてくるところも可愛い。料理してるときの後ろ姿なんかもたまらなく尊くて……。まあでも、とにかく……」
「とにかく?」
私は自分の胸に手を当てて、小さく息を吸ってからしゃべった。
「こう、一緒にいてくれるだけで、胸の中が温かくなるの」
言い終えたら恥ずかしくなり、私はハイボールをグッと飲んだ。
「ガチですねこれは。ごちそうさまでした」
緑川さんはまたニヤけだした。
「もう恋を通り越しちゃってますね。目がハートの状態で最高でしたよ」
「へ、変なこと言わないで!」
「あーあ、いいなあ。私もそのくらい本気で誰かを好きになりたいなあ」
「でもね……向こうは私のことを親戚のおばさん程度にしか思ってないよ。恋人になりたいなんて高望みだし、今の関係が壊れるのが一番怖い」
すると、緑川さんはグラスを置き、少しだけ真顔になった。
「原口さん、恋に高いも低いもないですよ。当たって砕けろとは言いませんが、言い訳ばっかりしていると、何にも変わりませんよ」
「うう……」
課長といい緑川さんといい、どうしてみんな私の言い訳をはじき返してくるんだ。でも、緑川さんの言うことにも一理あるとは思った。
「あと、一つ屋根の下で仲良く暮らしてるっていう時点で、決してノーチャンスではないと思いますよ。料理まで振る舞ってくれて」
「そ、そうかなあ」
「ちなみに私は昔、自称ノンケだった人とも付き合ったことがあります。最初はただの友達だったんですけど、いい感じになったんですよね。そういうこともあるんで、性的指向だけで最初から諦めなくてもいいと思います。だから原口さんもファイトです!」
その話を聞いたら、目の前がぱあっと明るくなった。それが本当なら、少しは希望があるのかもしれない。
「それはすごいね。でも……別れたんでしょう?」
緑川さんは決まりの悪そうな顔をした。
「いやあその……あれは完全に私が悪くて……。バレちゃったんですよね、レズ風俗に通っていたことが」
「ふっ⁉ ふふっ風俗⁉」
うっかり大きな声を上げてしまい、隣のテーブルの若い男性にちらりと見られた。
そりゃ別れ話にもなるよ! 緑川さんって、恋愛面でも割とポンコツなのでは……? 交際経験七人って、最低でも六人と破局したってことだし……。
それにしても。
「そんなのあるんだね……」
「お、興味あります?」
緑川さんは目を大きく見開いた。
「行かない! 私は行かない、けど……ちょっとだけどんな感じなのか聞かせて……?」
緑川さんとの話はすっかり盛り上がってしまい、私は遅い時間に帰宅した。夜風に当たるうちに、酔いはすっかり覚めていた。
初めてのレズ友達。いやあ、仲間の存在というのがこんなにいいものだとは知らなかった。
葵ちゃんがもう寝ているかもしれないと思った私は、そうっと家のドアを開けた。でも、まだリビングの明かりは付いていた。
「ただいまー」
待っていてくれたことが嬉しくて、思わず顔がにやける。
「……お帰りなさい」
なんとなくいつもよりも片付いた部屋で、葵ちゃんは静かに挨拶を返した。
おや。いつも元気な葵ちゃんだけど、今日はなんだか疲れているみたいだった。
「あたし、もう寝ますね」
「うん、しっかり寝て体を休めなよ」
すうっと寝室に向かう葵ちゃんの後ろ姿を見送る間、私の胸はキュンと鳴り続けていた。
「お、お疲れさまでした」
意気揚々と掲げられた緑川さんのハイボールのグラスに、私も同じくハイボールのグラスを合わせた。からん、氷が音を立てる。店内は仕事帰りの人たちでにぎわっていて、あちこちから笑い声やグラスの触れ合う音が聞こえてきた。
仕事を終えた私たちはバルに入った。今度ご飯でもどう? と誘ったのに対して、今日の今日で行くことになるとは。緑川さんの行動力の高さには舌を巻く。
「いやあ、まさか原口さんがレズだとは。私と二人で、IT担当課の女性社員のレズ率は百パーセントですよ」
「ホントだねえ……」
世の中に私以外のレズビアンがいることは理解していたけど、こんなに身近に現れるとは思っていなかった。
「あの、さっそくで悪いけど、彼女さんのこととか聞いてもいい?」
「どうぞどうぞ。恋バナは話すのも聞くのも大好きです」
緑川さんは小鉢のお浸しをつつきながら楽しそうに言った。
「じゃあ、どこで出会ったの?」
「マチアプです」
「やっぱり。今はみんなマッチングアプリをやってるよね」
「原口さんはやらないんですか?」
「うん、ちょっと、気が引けるんだよねえ……」
恋人には憧れるけど、出会いの場に首を突っ込むのはちょっと怖い。こんなんだから、いつまで経っても恋人ができないってのはわかってるんだけどね。
それから、緑川さんの恋愛遍歴やノロケ話などを聞かせてもらった。真面目そうな見た目の割に、これまでに七人の女性との交際経験があるという緑川さん。恋愛猛者のリアルなエピソードの数々に、私は年甲斐もなく興奮した。
すると、緑川さんの眼鏡がきらりと光り、こちらに鋭い視線がよこされた。
「じゃあ今度は原口さんの番です」
「え」
話を振られると思っていなかったので、私は間抜けな顔で固まってしまった。
「今は恋人は?」
「いやあ……実は私、こんな年齢で恥ずかしいんだけど、誰かと付き合ったりした経験がなくて……」
「あら、そうなんですね。好きな人とかは?」
好きな、人。
即答できなくて、グラスに視線を落とす。炭酸の泡が静かに上がっていくのを見ながら、自分の考えを整理しようとした。頭の中には真っ先に葵ちゃんの姿が浮かんでいた。でも、私が葵ちゃんを好きだと言ってしまうのはなんとなくおこがましい気がして、代わりにあうあうと情けない声が漏れた。
「んふふ、今考えていたのはどなたなんですかあ?」
心を見透かしたようにニヤリと笑う緑川さん。私は肩を落として、諦めの息を吐いた。
「あのね……私の同居人」
「へえ、同居! なんだ、やり手じゃないですか」
同居というワードに強く反応した緑川さんは、ハイボールを一口飲んでからこちらを熱い目で見た。
「いやいや! そういうのじゃなくて。上京した大学生の親戚なの。下宿みたいな感じ」
「なるほど。でもいいですねえ。好きな人と同居なんて、うらやましい」
「まあ、確かに、いつもご飯を作ってくれたり、他愛のない話をしたり、日々楽しくてしょうがないんだけど……この想いは叶わないんだなって思うと、こう、ずんと気が落ちるっていうか」
「その子はノンケなんですね」
緑川さんは同情の眼差しを向けてきた。
「うん……いや、本人がそう言ったわけじゃないけど、多分そう。それに、私よりも二十歳も年下なの。そんな子どもみたいな子を好きになるなんて、ダメだよね……」
「まあ、ノンケの人はそれが当たり前だから、わざわざ説明しないですよね。でも、年齢は理由にならないと思いますよ。私の今の彼女もまあまあ年上だし」
SNSに投稿されていた写真を思い出す。私ほどではないけど、確かに年上っぽかった。
「それで、どんなところが好きなんですか?」
「そ、そうねえ……」
葵ちゃんのことをイメージすると、好きな理由はいくらでも出てきた。
「まず、可愛い。私のことを気にかけてくれて、すごく優しい。作ってくれる料理がおいしい。読書が好きで、真剣に本を読む姿が素敵。あと、笑った顔とか、綺麗な肌とか、ちょっと細めの手足とか。毎朝すごい寝ぐせで起きてくるところも可愛い。料理してるときの後ろ姿なんかもたまらなく尊くて……。まあでも、とにかく……」
「とにかく?」
私は自分の胸に手を当てて、小さく息を吸ってからしゃべった。
「こう、一緒にいてくれるだけで、胸の中が温かくなるの」
言い終えたら恥ずかしくなり、私はハイボールをグッと飲んだ。
「ガチですねこれは。ごちそうさまでした」
緑川さんはまたニヤけだした。
「もう恋を通り越しちゃってますね。目がハートの状態で最高でしたよ」
「へ、変なこと言わないで!」
「あーあ、いいなあ。私もそのくらい本気で誰かを好きになりたいなあ」
「でもね……向こうは私のことを親戚のおばさん程度にしか思ってないよ。恋人になりたいなんて高望みだし、今の関係が壊れるのが一番怖い」
すると、緑川さんはグラスを置き、少しだけ真顔になった。
「原口さん、恋に高いも低いもないですよ。当たって砕けろとは言いませんが、言い訳ばっかりしていると、何にも変わりませんよ」
「うう……」
課長といい緑川さんといい、どうしてみんな私の言い訳をはじき返してくるんだ。でも、緑川さんの言うことにも一理あるとは思った。
「あと、一つ屋根の下で仲良く暮らしてるっていう時点で、決してノーチャンスではないと思いますよ。料理まで振る舞ってくれて」
「そ、そうかなあ」
「ちなみに私は昔、自称ノンケだった人とも付き合ったことがあります。最初はただの友達だったんですけど、いい感じになったんですよね。そういうこともあるんで、性的指向だけで最初から諦めなくてもいいと思います。だから原口さんもファイトです!」
その話を聞いたら、目の前がぱあっと明るくなった。それが本当なら、少しは希望があるのかもしれない。
「それはすごいね。でも……別れたんでしょう?」
緑川さんは決まりの悪そうな顔をした。
「いやあその……あれは完全に私が悪くて……。バレちゃったんですよね、レズ風俗に通っていたことが」
「ふっ⁉ ふふっ風俗⁉」
うっかり大きな声を上げてしまい、隣のテーブルの若い男性にちらりと見られた。
そりゃ別れ話にもなるよ! 緑川さんって、恋愛面でも割とポンコツなのでは……? 交際経験七人って、最低でも六人と破局したってことだし……。
それにしても。
「そんなのあるんだね……」
「お、興味あります?」
緑川さんは目を大きく見開いた。
「行かない! 私は行かない、けど……ちょっとだけどんな感じなのか聞かせて……?」
緑川さんとの話はすっかり盛り上がってしまい、私は遅い時間に帰宅した。夜風に当たるうちに、酔いはすっかり覚めていた。
初めてのレズ友達。いやあ、仲間の存在というのがこんなにいいものだとは知らなかった。
葵ちゃんがもう寝ているかもしれないと思った私は、そうっと家のドアを開けた。でも、まだリビングの明かりは付いていた。
「ただいまー」
待っていてくれたことが嬉しくて、思わず顔がにやける。
「……お帰りなさい」
なんとなくいつもよりも片付いた部屋で、葵ちゃんは静かに挨拶を返した。
おや。いつも元気な葵ちゃんだけど、今日はなんだか疲れているみたいだった。
「あたし、もう寝ますね」
「うん、しっかり寝て体を休めなよ」
すうっと寝室に向かう葵ちゃんの後ろ姿を見送る間、私の胸はキュンと鳴り続けていた。



