「原口さん、ちょっと」
キーボードがカタカタと鳴る音をかいくぐるようにして、どこかから課長の声が聞こえてきた。パソコンの画面とにらめっこしていた私はモニターから目を離した。すると、いつの間にか私の真横に立っていた課長が、首をわずかに傾けながら静かに私を見下ろしていたことに気が付いた。
「はい、なんでしょう」
「実は、今年の新入社員から一人、うちに配属する予定なんですよ」
「え、そうなんですか。それはよかった」
私の職場である総務部IT担当課は、万年人手不足だった。これまでは派遣社員でまかなっていたけど、ある派遣社員によるデータ持ち出しという重大インシデントが発生してしまったことがきっかけで、久々に正社員を補充する運びになったらしい。
「それで、原口さんに新入社員の教育係をお願いします」
「え」
私は固まってしまった。なんで、私が。
一人暮らしを寂しがるくせに、対人コミュニケーションが決して得意ではない私は、職場でのそれを極力避けている。仕事とプライベートは別だ。
「わ、私よりも適任がいると思いますけど……」
「原口さんも割とベテランだし、人材育成能力を上げるいい機会かなと思ってね。これは原口さんのためでもあるんです」
「……はい、わかりました」
課長はズルい。いかにもそれらしいことを言って私の逃げ道をふさいできた。まあ、そうでなくとも、私が課長に強く抵抗することなんてないけど。
「ちなみに、新入社員は女の子です。うちの正社員で女性は原口さんだけだし、それもちょうどいいかなって」
「はあ……」
「じゃあ、よろしくお願いしますね」
去っていく課長の背中を見送った私はため息をついてから、パソコンの画面に向き直した。
「うえ……」
ちょっと目を離した隙に、話しかけられる前から流れ続けていたパケットキャプチャ結果が膨れあがっていた。スクロールバーが豆粒みたいに小さくなっている。私はキャプチャを止めてから、もう一度ため息をついた。
でも、最近は面倒な仕事もそこまで気にならない。
なんたって、家に帰れば葵ちゃんが米を炊いて待っていてくれるのだ。太陽が料理当番だったときよりもずっと楽しみ、なんて言ったら怒られるだろうけど。
仕事をそこそこで切り上げた私は、ルンルン気分で家路についた。
家のドアを開けると、夜道に慣れた私の目に照明が差し込んできた。動画を見ている音が聞こえてくる。同居人の存在を感じて、胸が温かくなる。
「ただいまー」
「お帰りなさい」
ソファに座った葵ちゃんが、こちらを振り向いて手を振った。ああ、癒される……。
「すぐにご飯にします?」
「うん、お腹ぺこぺこ」
ジャケットを脱いでスウェットに着替えると、一気に肩の力が抜けた。リビングに戻ると、テーブルに夕飯が並んでいた。ワカメの味噌汁や茶碗のお米からは湯気が立ち上る。千切りキャベツが添えられたコロッケはほんのりと油の香りがする。
「おかずは出来合いです。すみませんね」
「ううん、用意してくれるだけでも大助かりだよ。お米は炊いたし、味噌汁は作ったんでしょ? すごいじゃん」
褒められた葵ちゃんは照れた顔をした。
「えへへ……どうぞ、召し上がれ」
「いただきまーす」
私は味噌汁をすすった。温かさが喉から全身に伝わり、塩味が体に染み渡る。思わずほうっと息が漏れた。
「ああ、おいしい。幸せだあ……」
「そんなに喜んでもらえると、作りがいがありますねえ」
「だって、おいしいんだもん」
誰かにご飯を用意してもらえる。こんなに嬉しいことがあるだろうか。
私のために味噌汁を作ってもらえるなんて、なんだかカップルみたい、なんて思うのは私だけだろうか。いつでもお嫁に来てくれて構わんよ、なんちゃって……。
夕食やお風呂を終えたあと、私たちはゆったりと団欒した。
ソファに並んで座り、テレビのバラエティ番組を見ながら雑談をした。
「今日は大学はどうだった?」
「あたし、児童文学サークルに入ることにしました。子ども向けに、読み聞かせとかするみたいですよ」
「へえ、児童文学が好きなの?」
「子どものころはよく読んでましたね。しばらくご無沙汰ですけど」
児童文学か。おっとりとした葵ちゃんのイメージによく合う気がする。一方の私は、子どもの頃に全然本を読まなかった。空想科学読本は読んだことがあるけど……。
「それで今度、新入生歓迎会があるんです。だから申し訳ないんですけど、その日は夕飯を用意できませんので、お願いします」
「そんなの全然気にしないで! いいなあ大学生活。楽しんでおいで」
「陽向さんは今日どうでした?」
私は新入社員の教育係に任命されたことを愚痴った。
「すごいじゃないですか。きっと期待されてるってことですよ」
「いやあ、そんなのはいいんだけど、今どきの若い子に仕事を教えるのは不安だよ……。スマホネイティブ世代の感覚ってどうなんだろう。『うちの会社のパスワード、◯◯◯とかダサすぎて草』みたいなインシデントをやらかしたら、私も責任を取らされるのかなあ……」
「あの、陽向さん」
見ると、葵ちゃんが不満そうな顔をしていた。
「あたしも今どきの若い子ですけど……そういうことをすると思われてます?」
「ごめん! 違う違う! 葵ちゃんは関係なくて、その、適当なイメージの話で!」
大慌ての私を見て、葵ちゃんはくすくすと笑った。
「ふふ、冗談です。でもきっと平気ですよ。あたしたちの世代なら、ネットリテラシーについてよく言い聞かせられてますから」
「だといいけどねえ」
「そんなに気になるなら、その人のSNSをチェックすればいいんですよ」
「なるほど。でも、どうやってアカウントを調べようか」
「そんなの、本人に聞けばいいんです」
「そ、そうか……」
その発想はなかった。陰の者である私には、検索を駆使してこそこそとアカウントを見つけ出すことしか思いつかなかった。断られるかもしれないけど、聞いてみるのはありだな。
それにしても、同居する前はジェネレーションギャップを心配してたけど、いざ暮らしてみると全然気にすることはなかった。真新しいSNSや音楽のことはよくわからないけど、日常の話はまったく問題ない。
「じゃあ、あたしはそろそろ寝ますね」
「うん、おやすみなさい」
寝室へ引っ込む葵ちゃんの背中を、私は名残惜しそうに見つめた。寝室のドアが静かに閉まると、リビングは急に静かになった。私は鼻からゆっくりと息を吐く。ソファには葵ちゃんの温もりが残っているような気がした。
一緒に暮らせるだけでも幸せなんだ。それ以上を欲しがるなんて、高望みにも程があるよね……。
キーボードがカタカタと鳴る音をかいくぐるようにして、どこかから課長の声が聞こえてきた。パソコンの画面とにらめっこしていた私はモニターから目を離した。すると、いつの間にか私の真横に立っていた課長が、首をわずかに傾けながら静かに私を見下ろしていたことに気が付いた。
「はい、なんでしょう」
「実は、今年の新入社員から一人、うちに配属する予定なんですよ」
「え、そうなんですか。それはよかった」
私の職場である総務部IT担当課は、万年人手不足だった。これまでは派遣社員でまかなっていたけど、ある派遣社員によるデータ持ち出しという重大インシデントが発生してしまったことがきっかけで、久々に正社員を補充する運びになったらしい。
「それで、原口さんに新入社員の教育係をお願いします」
「え」
私は固まってしまった。なんで、私が。
一人暮らしを寂しがるくせに、対人コミュニケーションが決して得意ではない私は、職場でのそれを極力避けている。仕事とプライベートは別だ。
「わ、私よりも適任がいると思いますけど……」
「原口さんも割とベテランだし、人材育成能力を上げるいい機会かなと思ってね。これは原口さんのためでもあるんです」
「……はい、わかりました」
課長はズルい。いかにもそれらしいことを言って私の逃げ道をふさいできた。まあ、そうでなくとも、私が課長に強く抵抗することなんてないけど。
「ちなみに、新入社員は女の子です。うちの正社員で女性は原口さんだけだし、それもちょうどいいかなって」
「はあ……」
「じゃあ、よろしくお願いしますね」
去っていく課長の背中を見送った私はため息をついてから、パソコンの画面に向き直した。
「うえ……」
ちょっと目を離した隙に、話しかけられる前から流れ続けていたパケットキャプチャ結果が膨れあがっていた。スクロールバーが豆粒みたいに小さくなっている。私はキャプチャを止めてから、もう一度ため息をついた。
でも、最近は面倒な仕事もそこまで気にならない。
なんたって、家に帰れば葵ちゃんが米を炊いて待っていてくれるのだ。太陽が料理当番だったときよりもずっと楽しみ、なんて言ったら怒られるだろうけど。
仕事をそこそこで切り上げた私は、ルンルン気分で家路についた。
家のドアを開けると、夜道に慣れた私の目に照明が差し込んできた。動画を見ている音が聞こえてくる。同居人の存在を感じて、胸が温かくなる。
「ただいまー」
「お帰りなさい」
ソファに座った葵ちゃんが、こちらを振り向いて手を振った。ああ、癒される……。
「すぐにご飯にします?」
「うん、お腹ぺこぺこ」
ジャケットを脱いでスウェットに着替えると、一気に肩の力が抜けた。リビングに戻ると、テーブルに夕飯が並んでいた。ワカメの味噌汁や茶碗のお米からは湯気が立ち上る。千切りキャベツが添えられたコロッケはほんのりと油の香りがする。
「おかずは出来合いです。すみませんね」
「ううん、用意してくれるだけでも大助かりだよ。お米は炊いたし、味噌汁は作ったんでしょ? すごいじゃん」
褒められた葵ちゃんは照れた顔をした。
「えへへ……どうぞ、召し上がれ」
「いただきまーす」
私は味噌汁をすすった。温かさが喉から全身に伝わり、塩味が体に染み渡る。思わずほうっと息が漏れた。
「ああ、おいしい。幸せだあ……」
「そんなに喜んでもらえると、作りがいがありますねえ」
「だって、おいしいんだもん」
誰かにご飯を用意してもらえる。こんなに嬉しいことがあるだろうか。
私のために味噌汁を作ってもらえるなんて、なんだかカップルみたい、なんて思うのは私だけだろうか。いつでもお嫁に来てくれて構わんよ、なんちゃって……。
夕食やお風呂を終えたあと、私たちはゆったりと団欒した。
ソファに並んで座り、テレビのバラエティ番組を見ながら雑談をした。
「今日は大学はどうだった?」
「あたし、児童文学サークルに入ることにしました。子ども向けに、読み聞かせとかするみたいですよ」
「へえ、児童文学が好きなの?」
「子どものころはよく読んでましたね。しばらくご無沙汰ですけど」
児童文学か。おっとりとした葵ちゃんのイメージによく合う気がする。一方の私は、子どもの頃に全然本を読まなかった。空想科学読本は読んだことがあるけど……。
「それで今度、新入生歓迎会があるんです。だから申し訳ないんですけど、その日は夕飯を用意できませんので、お願いします」
「そんなの全然気にしないで! いいなあ大学生活。楽しんでおいで」
「陽向さんは今日どうでした?」
私は新入社員の教育係に任命されたことを愚痴った。
「すごいじゃないですか。きっと期待されてるってことですよ」
「いやあ、そんなのはいいんだけど、今どきの若い子に仕事を教えるのは不安だよ……。スマホネイティブ世代の感覚ってどうなんだろう。『うちの会社のパスワード、◯◯◯とかダサすぎて草』みたいなインシデントをやらかしたら、私も責任を取らされるのかなあ……」
「あの、陽向さん」
見ると、葵ちゃんが不満そうな顔をしていた。
「あたしも今どきの若い子ですけど……そういうことをすると思われてます?」
「ごめん! 違う違う! 葵ちゃんは関係なくて、その、適当なイメージの話で!」
大慌ての私を見て、葵ちゃんはくすくすと笑った。
「ふふ、冗談です。でもきっと平気ですよ。あたしたちの世代なら、ネットリテラシーについてよく言い聞かせられてますから」
「だといいけどねえ」
「そんなに気になるなら、その人のSNSをチェックすればいいんですよ」
「なるほど。でも、どうやってアカウントを調べようか」
「そんなの、本人に聞けばいいんです」
「そ、そうか……」
その発想はなかった。陰の者である私には、検索を駆使してこそこそとアカウントを見つけ出すことしか思いつかなかった。断られるかもしれないけど、聞いてみるのはありだな。
それにしても、同居する前はジェネレーションギャップを心配してたけど、いざ暮らしてみると全然気にすることはなかった。真新しいSNSや音楽のことはよくわからないけど、日常の話はまったく問題ない。
「じゃあ、あたしはそろそろ寝ますね」
「うん、おやすみなさい」
寝室へ引っ込む葵ちゃんの背中を、私は名残惜しそうに見つめた。寝室のドアが静かに閉まると、リビングは急に静かになった。私は鼻からゆっくりと息を吐く。ソファには葵ちゃんの温もりが残っているような気がした。
一緒に暮らせるだけでも幸せなんだ。それ以上を欲しがるなんて、高望みにも程があるよね……。



