居酒屋の中には学生の元気な声が響いた。今日はサークルの飲み会だ。
あたしが加入している児童文学サークルには、OB・OG飲みというイベントがある。卒業したメンバーがわざわざやってきて、ちょっとだけ多めに飲み代を支払ってくれるという飲み会だ。
二年生より上のメンバーは懐かしい先輩に会えることを楽しみにしている。でも、あたしたち一年生にしてみれば、知らない先輩に気を遣わないといけない面倒なイベントだ。
ほぼ幽霊部員と化しているあたしが、この飲み会に参加することにしたのには理由がある。
話は数日前にさかのぼる。
「なあ倉田、たまにはサークルに来いよ」
同期の重野くんはいつもあたしのことを誘う。正直言ってめんどくさい。
「そのうちね」
「OB・OG飲みが今度あるけど」
「考えとく」
「それは絶対に来ないやつだろ……」
重野くんはため息をついた。
でも、今のあたしの生活の中心は家だ。陽向さんが仕事に行っている間に掃除や洗濯を済ませて、夕飯の用意をする。これがあたしの生きがいなのだ。
「OB・OG飲みなんて一番行きたくないよ。あたしには関わりのない人たちだし」
「でもな、OBとかOGにも結構面白い人がいるよ。シャネルさんとか知ってる?」
「知ってるわけない。誰それ?」
「去年卒業した、伝説のレズビアンOG」
重野くんの言葉を聞いて、あたしの体はびくんと跳ねた。
「何それ……?」
「新入生のときの自己紹介でいきなりレズビアンだってカミングアウトした人。それで最初は上級生にいろいろ言われてたらしいんだけど、当時の女団長と付き合い始めたことで誰も何も言えなくなったって噂」
「それは伝説だね……」
その武勇伝もさることながら、あたしはレズビアンという属性が気になった。まさか、うちのサークル出身者にそんな人がいたとは。
レズビアンの陽向さんに心を奪われている身として、あたしはシャネルさんに話を聞いてみたくなった。
こうして、あたしはOB・OG飲みに参加することにしたのだ。
「あの人が例のシャネルさん」
重野くんが指した方を見ると、メガネをかけたパンツスーツの女性がいた。真面目そうな人だ。今は四年生のメンバーと親しそうにしゃべっている。
あの人がレズビアンなのか……。陽向さんもそうだけど、見た目だけでは性的指向はわからない。
飲み会が始まってしばらくした頃に、あたしはシャネルさんの席に赴いた。
「あ、あの、シャネルさん。お疲れ様です」
シャネルさんの眼鏡がキラリと光った。その奥の瞳からは、あたしを上から下まで舐めるような視線が向けられた。
「一年生? 初めまして」
「は、はい! 一年生の倉田です」
「取って食べたりしないから、そんなに緊張しないで」
シャネルさんは愉快そうに言った。
「はい。あの、ちょっと聞きたいことがありまして……」
「そう、私はレズだよ」
いきなりの先制パンチに面食らった。
「まだ何も言ってませんけど……」
「どうせ私に聞きたいことなんてそれでしょ? ちなみに今は彼女がいるからダメなの。ごめんね〜」
シャネルさんはふざけた調子で、指でバッテンを作って顔の前に掲げた。だから何も言ってないのに……。すごく強烈な人だ……。
「違うんです。あの、相談したいことがありまして」
「ほうほう。いいよ、言ってごらん」
「実はあたし……好きな人ができまして。その相手が女の人なんですね。あたし、こういうのが初めてで、どうしたらいいのかわからなくて……」
すると、シャネルさんの顔が少し明るくなり、ハイボールを一口飲んだ。
「いいね。私、恋バナは好きだよ。ていうか倉田ちゃんもレズなんだね」
「え」
その言葉を聞いた途端、ギュンと世界が遠ざかり、一瞬だけ周りの音が聞こえなくなった。
あ、あたしが……⁉
「あたし、レズ、なんですか……?」
「女のことが好きな女なんだからレズでしょ。バイでもいいけど。あれ、倉田ちゃんは女だよね?」
「女です……」
女が好きな女は、レズ。
あたしは、陽向さんと同じ、レズビアンなの……⁉ 状況が飲み込めなくて、あたしの頭はぐるぐる回ってしまった。
「まあ、レズとかなんとかって、ただのラベル付けだからあんまり気にしないで。で、好きな女がいるけど、どうすればいいかわからないと」
「はい……」
「今はどんな関係性なの?」
「同居人なんです。仲は良くて、一緒に出かけたりします」
「なるほど……その人はノンケ?」
聞き慣れない言葉を耳にして、あたしはきょとんとした。
「ノンケ?」
「ストレートってこと。異性愛者」
「ああ。いや……あの、レズビアンです」
「ええ? レズで仲良しの同居人が好きな相手ってこと? めっちゃチャンスあるじゃん」
シャネルさんはそう言ってあたしの肩を叩いた。
「そう……なんですか?」
「そうでしょ。もういろんなハードルを越えてるじゃん。あとは友達以上の関係に一歩踏み込めればイケると思うよ」
「友達以上……」
「あれ、そうなりたいってことだよね?」
「えっと、いや、どうなんでしょう……」
シャネルさんの言いたいことはわかる。好きになったんだから、次は恋人になれということだ。でも、恋人ってなんだろう。あたしにはよくわからない。
「じゃあ倉田ちゃん的にはどうしたいの?」
あたしは、どうしたいか。陽向さんのことを思い浮かべた。水族館で握った袖。触れられなかった、あの手。
「あの、あたしは……触りたいです」
「ふはっ」
シャネルさんは吹き出した。あたしは途端に居心地が悪くなって俯いた。
「ごめんごめん。あまりにも直接的だったから。わかるよ、触りたいよね。私も触るの大好きだよ」
なんだかバカにされている気がして、あたしはさらにしゅんとした。
「そうだなあ……触るためには、合意が必要なんじゃないかな」
「ごうい」
「うん。だって、相手が嫌がっているのに触ったら、それはセクハラでしょ」
確かに……。あたしの気持ちなんかよりも、相手がどう感じるかの方が大切だ。
「じゃあ、シャネルさんが誰かを触ろうと思ったら、毎回合意を取るんですか?」
「状況による」
「え?」
「関係性だよ」
あたしは首を傾げた。
「そういうのが平気な関係性になってれば、何も言わずに受け入れてもらえるようになるよ。まあ、それってほぼ恋人なんだけどね」
うわ、話が元に戻った。やっぱり、次に目指すべきは恋人なんだろうか……。
「ま、倉田ちゃんなりにいろいろ考えてみなよ」
シャネルさんはニカッと笑った。
「あの、参考になりました。ありがとうございます」
「どういたしまして」
シャネルさんと話せてよかった。これから陽向さんとどうすべきか、自分でもよく考えてみよう。
「あの、もしよかったら、また相談したいので、連絡先を交換してもらえませんか?」
「お、いいよ」
あたしはスマホを出して、メッセージアプリのQRコードを見せた。シャネルさんはそれを読み取って登録した。
「よっしゃ現役女子大生の連絡先ゲット〜」
ふざけているシャネルさんの声は、あたしの耳に届かなかった。
あたしはスマホを見つめたままフリーズしていた。
メッセージアプリの友だち登録の画面には、「緑川心」という名前が表示されていた。
「緑川、さん……」
「そう、私の本名。ココ・シャネルにかけて誰かがシャネルって呼び出したんだよね」
緑川さん。レズビアン。去年大学を卒業して、今は社会人一年目……。
あたしは、以前陽向さんのスマホで見たSNSのアカウントの写真を思い出した。
こ、この人だ‼ シャネルさんは、ポンコツ新入社員の緑川さんだ‼
あたしは唖然としてシャネルさんを見た。
「ん、どした? 私のアイコンが可愛すぎて惚れたか? それ盛れてるベストショットなんだよね」
すっかりおふざけOGのモードに入ったシャネルさん。
シャネルさんに相談できた嬉しさと、緑川さんに対するこれまでの感情が混ざり合い、あたしの頭はパンク寸前だった。
あたしが加入している児童文学サークルには、OB・OG飲みというイベントがある。卒業したメンバーがわざわざやってきて、ちょっとだけ多めに飲み代を支払ってくれるという飲み会だ。
二年生より上のメンバーは懐かしい先輩に会えることを楽しみにしている。でも、あたしたち一年生にしてみれば、知らない先輩に気を遣わないといけない面倒なイベントだ。
ほぼ幽霊部員と化しているあたしが、この飲み会に参加することにしたのには理由がある。
話は数日前にさかのぼる。
「なあ倉田、たまにはサークルに来いよ」
同期の重野くんはいつもあたしのことを誘う。正直言ってめんどくさい。
「そのうちね」
「OB・OG飲みが今度あるけど」
「考えとく」
「それは絶対に来ないやつだろ……」
重野くんはため息をついた。
でも、今のあたしの生活の中心は家だ。陽向さんが仕事に行っている間に掃除や洗濯を済ませて、夕飯の用意をする。これがあたしの生きがいなのだ。
「OB・OG飲みなんて一番行きたくないよ。あたしには関わりのない人たちだし」
「でもな、OBとかOGにも結構面白い人がいるよ。シャネルさんとか知ってる?」
「知ってるわけない。誰それ?」
「去年卒業した、伝説のレズビアンOG」
重野くんの言葉を聞いて、あたしの体はびくんと跳ねた。
「何それ……?」
「新入生のときの自己紹介でいきなりレズビアンだってカミングアウトした人。それで最初は上級生にいろいろ言われてたらしいんだけど、当時の女団長と付き合い始めたことで誰も何も言えなくなったって噂」
「それは伝説だね……」
その武勇伝もさることながら、あたしはレズビアンという属性が気になった。まさか、うちのサークル出身者にそんな人がいたとは。
レズビアンの陽向さんに心を奪われている身として、あたしはシャネルさんに話を聞いてみたくなった。
こうして、あたしはOB・OG飲みに参加することにしたのだ。
「あの人が例のシャネルさん」
重野くんが指した方を見ると、メガネをかけたパンツスーツの女性がいた。真面目そうな人だ。今は四年生のメンバーと親しそうにしゃべっている。
あの人がレズビアンなのか……。陽向さんもそうだけど、見た目だけでは性的指向はわからない。
飲み会が始まってしばらくした頃に、あたしはシャネルさんの席に赴いた。
「あ、あの、シャネルさん。お疲れ様です」
シャネルさんの眼鏡がキラリと光った。その奥の瞳からは、あたしを上から下まで舐めるような視線が向けられた。
「一年生? 初めまして」
「は、はい! 一年生の倉田です」
「取って食べたりしないから、そんなに緊張しないで」
シャネルさんは愉快そうに言った。
「はい。あの、ちょっと聞きたいことがありまして……」
「そう、私はレズだよ」
いきなりの先制パンチに面食らった。
「まだ何も言ってませんけど……」
「どうせ私に聞きたいことなんてそれでしょ? ちなみに今は彼女がいるからダメなの。ごめんね〜」
シャネルさんはふざけた調子で、指でバッテンを作って顔の前に掲げた。だから何も言ってないのに……。すごく強烈な人だ……。
「違うんです。あの、相談したいことがありまして」
「ほうほう。いいよ、言ってごらん」
「実はあたし……好きな人ができまして。その相手が女の人なんですね。あたし、こういうのが初めてで、どうしたらいいのかわからなくて……」
すると、シャネルさんの顔が少し明るくなり、ハイボールを一口飲んだ。
「いいね。私、恋バナは好きだよ。ていうか倉田ちゃんもレズなんだね」
「え」
その言葉を聞いた途端、ギュンと世界が遠ざかり、一瞬だけ周りの音が聞こえなくなった。
あ、あたしが……⁉
「あたし、レズ、なんですか……?」
「女のことが好きな女なんだからレズでしょ。バイでもいいけど。あれ、倉田ちゃんは女だよね?」
「女です……」
女が好きな女は、レズ。
あたしは、陽向さんと同じ、レズビアンなの……⁉ 状況が飲み込めなくて、あたしの頭はぐるぐる回ってしまった。
「まあ、レズとかなんとかって、ただのラベル付けだからあんまり気にしないで。で、好きな女がいるけど、どうすればいいかわからないと」
「はい……」
「今はどんな関係性なの?」
「同居人なんです。仲は良くて、一緒に出かけたりします」
「なるほど……その人はノンケ?」
聞き慣れない言葉を耳にして、あたしはきょとんとした。
「ノンケ?」
「ストレートってこと。異性愛者」
「ああ。いや……あの、レズビアンです」
「ええ? レズで仲良しの同居人が好きな相手ってこと? めっちゃチャンスあるじゃん」
シャネルさんはそう言ってあたしの肩を叩いた。
「そう……なんですか?」
「そうでしょ。もういろんなハードルを越えてるじゃん。あとは友達以上の関係に一歩踏み込めればイケると思うよ」
「友達以上……」
「あれ、そうなりたいってことだよね?」
「えっと、いや、どうなんでしょう……」
シャネルさんの言いたいことはわかる。好きになったんだから、次は恋人になれということだ。でも、恋人ってなんだろう。あたしにはよくわからない。
「じゃあ倉田ちゃん的にはどうしたいの?」
あたしは、どうしたいか。陽向さんのことを思い浮かべた。水族館で握った袖。触れられなかった、あの手。
「あの、あたしは……触りたいです」
「ふはっ」
シャネルさんは吹き出した。あたしは途端に居心地が悪くなって俯いた。
「ごめんごめん。あまりにも直接的だったから。わかるよ、触りたいよね。私も触るの大好きだよ」
なんだかバカにされている気がして、あたしはさらにしゅんとした。
「そうだなあ……触るためには、合意が必要なんじゃないかな」
「ごうい」
「うん。だって、相手が嫌がっているのに触ったら、それはセクハラでしょ」
確かに……。あたしの気持ちなんかよりも、相手がどう感じるかの方が大切だ。
「じゃあ、シャネルさんが誰かを触ろうと思ったら、毎回合意を取るんですか?」
「状況による」
「え?」
「関係性だよ」
あたしは首を傾げた。
「そういうのが平気な関係性になってれば、何も言わずに受け入れてもらえるようになるよ。まあ、それってほぼ恋人なんだけどね」
うわ、話が元に戻った。やっぱり、次に目指すべきは恋人なんだろうか……。
「ま、倉田ちゃんなりにいろいろ考えてみなよ」
シャネルさんはニカッと笑った。
「あの、参考になりました。ありがとうございます」
「どういたしまして」
シャネルさんと話せてよかった。これから陽向さんとどうすべきか、自分でもよく考えてみよう。
「あの、もしよかったら、また相談したいので、連絡先を交換してもらえませんか?」
「お、いいよ」
あたしはスマホを出して、メッセージアプリのQRコードを見せた。シャネルさんはそれを読み取って登録した。
「よっしゃ現役女子大生の連絡先ゲット〜」
ふざけているシャネルさんの声は、あたしの耳に届かなかった。
あたしはスマホを見つめたままフリーズしていた。
メッセージアプリの友だち登録の画面には、「緑川心」という名前が表示されていた。
「緑川、さん……」
「そう、私の本名。ココ・シャネルにかけて誰かがシャネルって呼び出したんだよね」
緑川さん。レズビアン。去年大学を卒業して、今は社会人一年目……。
あたしは、以前陽向さんのスマホで見たSNSのアカウントの写真を思い出した。
こ、この人だ‼ シャネルさんは、ポンコツ新入社員の緑川さんだ‼
あたしは唖然としてシャネルさんを見た。
「ん、どした? 私のアイコンが可愛すぎて惚れたか? それ盛れてるベストショットなんだよね」
すっかりおふざけOGのモードに入ったシャネルさん。
シャネルさんに相談できた嬉しさと、緑川さんに対するこれまでの感情が混ざり合い、あたしの頭はパンク寸前だった。



