同居人は女子大生 ~アラフォーだけど恋してもいいですか?~

 深海のエリアは、赤い照明で怪しく照らされていた。深海というだけあってか、かなり暗い。
 深海魚が幽霊のように泳ぐ姿を見ながら、私は葵ちゃんの言葉を反芻していた。
 ――触られるの、平気だし、嫌じゃないです。
 触られるのは嫌じゃない。だからといって好きってわけじゃないだろうけど、とにかく葵ちゃんはそう言った。
 何だろう、これが今どきの子の距離感なんだろうか。だとすれば、私はちょっと遠慮しすぎているのかな……。
 それにしても暗い。はぐれないようにしようね、とか言って、手をつないだりするのはギリギリセーフなのか……?
 ……いやいや、そんなわけない。これは社交辞令に決まってる。私にとって都合のいい解釈をしちゃダメだ。
 そんなことを考えていたら、私の袖が引っ張られた。
「ご、ごめんなさい。ここ、暗いですね……」
 葵ちゃんの声が至近距離から聞こえた。

 *

 このエリアは暗くて、ちょっと怖い。だから、建前を作るにはちょうどいいと思った。
 それにしても、自分で自分が信じられない。こんなに陽向さんに触れたくてしょうがないなんて……。
 明るい部屋で一緒に過ごしているときは、こうはならないのに。水族館には悪魔がいるんじゃなかろうか。
「そ、そうだね、はぐれたら困るから、そのままつかんでていいよ」
 陽向さんは優しくそう言ってくれた。
 次の水槽の中には、巨大なカニがいた。深海にカニなんているのか。
 水槽の前に立って、じっと動かないカニを見つめながら、あたしの右手は陽向さんの袖を捉え続けた。そして、その袖越しに陽向さんの体温を感じた。
 この右手をもうちょっと下にずらせば、そこには陽向さんの手がある。
 ただ、さっき魚に邪魔されてしまったのが尾を引いていて、今はそこまで大胆になれない。
「……おっきいね、カニ」
 陽向さんもカニを見つめている。
「そうですね」
「あのサイズをお店で買ったら、相当いい値段するだろうね」
「ああ……あれはヤバいと思います」
「食べたいね、カニ」
「食べたいです」
「そういえば、こないだ百円ショップでカニスプーンが売ってたよ」
「スプーンだけは安いんですねえ」
「今日の夜はカニにする?」
「え、いいんですか? きっと高いですよ」
「じゃあ、カニカマでもいいよ」
「……逆にそれでいいんですか?」
 このカニの水槽を抜けたら、深海のエリアは終わりだ。袖をつかむ理由がなくなってしまう。
 でも、カニの水槽の前で、陽向さんはどうでもいい話を楽しそうに続けてくれて、あたしたちはいつまでもカニを見つめていた。この話が続く限り、深海の出口はまだ来ない。
 あたしはその話を聞きながら、袖をつかむ右手にそっと力を込めた。

 *
 
 深海のエリアを抜けたら、普通の水族館の薄暗さに戻った。
 そして、葵ちゃんの手はそっと離された。残念だけど、仕方がない。
 私は少しでも長くつかんでもらいたくて、カニカマとかの与太話で時間稼ぎをしてしまった。そんな話に付き合わせてしまって、迷惑じゃなかっただろうか。
 しばらく歩くと屋外に出た。少し歩き疲れたので、二人でベンチに腰掛けながら、ペンギンの展示を遠巻きに見た。ここからではほとんど見えない。
 それにしても、ただ一緒に座っているだけで心地よい。葵ちゃんからはマイナスイオンとかが出てる気がする。
「楽しいですね、水族館って」
 葵ちゃんは優しく微笑んで言った。
「ねえ。来てみてよかった」
 こんなに楽しいのは、葵ちゃんと一緒だからだ。好きな子と、二人でお出かけ。そりゃあ楽しいよね……。
 小休止を終えた私たちは、ペンギンを見に行った。
 ペンギンというとよちよち歩いているイメージだったけど、そこにいたペンギンのほとんどが水にぷかぷかと浮いていて驚いた。
「気持ちよさそうだねえ」
「あ! そうだ陽向さん」
 何かを思い付いた葵ちゃんは、ぱあっと華やいだ笑顔で言った。
「真夏になったら、プールにでも行きません?」
「嫌です」
「ええっ⁉」
 しまった。条件反射的に即答してしまった。
「ごめんごめん! 違うの。その、ほら、この歳で水着なんて着るの、ちょっと恥ずかしいから……」
 はっきり言って、葵ちゃんの水着姿は見たい。写真に撮って額縁に収めて飾りたい。
 でも、葵ちゃんは人魚のように美しいだろうけど、私の水着姿なんてトドみたいなもんだ。公衆の面前に晒していいものじゃない。
 こればっかりは、可愛い葵ちゃんのお願いであっても聞けないな……。
 プールなんて、大学の友達とかと行ってください。そして、後で写真だけ送ってください。
「そんなの平気ですよ。露出が少ない水着もいっぱいありますから」
「ええ……まあ、検討しておきます」
「やったあ!」
 違うんだよ葵ちゃん。この「検討します」は、その場で直接断りづらいときの時間稼ぎなんだよ。
 世の中には、時間が解決してくれることもたくさんある。ああどうか、葵ちゃんがプールのことを忘れてくれますように……。
 
 *
 
 すっかり楽しんだあたしたちは、電車に乗り込んで家路についた。
 やや混んでいておしゃべりする雰囲気ではないので、あたしはスマホでショッピングアプリを開いた。
 うふふ、プールの約束をしちゃった。楽しみだな。陽向さんのために、似合いそうな水着を選んであげようっと。