同居人は女子大生 ~アラフォーだけど恋してもいいですか?~

「お、おかえりなさい……」
 葵ちゃんは相変わらずよそよそしかった。
「あの、ご飯とお風呂、どっちが先ですか?」
「えー、あー、そうね、先にお風呂に入りたいかな」
「あ、じゃあ、追い炊きしますね……」
 そう言って葵ちゃんは給湯器のボタンを押した。
 しまった。話し合おうって思ってたのに。私は気まずさに耐えられなくて、先にお風呂に逃げてしまった。
 ……まあいい。葵ちゃんは逃げない。ほんのちょっと先延ばしになっただけで、お風呂に入ってからでも遅くはない。
 服を脱いで洗濯機に放り込み、お風呂場に入る。今日はなんとなく、いつもよりも念入りに体を洗った。
 そして熱いお湯に浸かると、全身から汗が流れ出るのを感じた。充満する湯気を見つめながら、お湯に口元まで浸かってぶくぶくと呪文を唱え直した。
 話を聞く。そして謝る。
 話を聞く。そして謝る。
 よし、もう大丈夫だ。待っててね、葵ちゃん……。
 私は勢いよく湯船から立ち上がった。
 その瞬間、目の前が真っ白になった。

「――さん」
 遠くから声が聞こえる。
「――ひなたさん!」
 それは葵ちゃんの声だった。
 気が付くと、私の目の前にはお風呂場の床があった。
 私は下半身が湯船に浸かったまま、上半身を外に投げ出す姿勢で倒れていた。
「陽向さん!」
 私はぼんやりとしながらゆっくりと体を起こした。立てかけてあった浴槽の蓋がひっくり返っていて、シャンプーなどの容器が散乱している。どうやら私は派手に倒れたらしい。
「陽向さん! 大丈夫ですか!」
 私の目の前で、青ざめた葵ちゃんが浴室の床に膝をついてこちらを見ていた。
 涙を流しながら。
「……ああ、平気……ちょっと立ちくらみしたみたい……」
 私がそう言うと、葵ちゃんはずぶ濡れで素っ裸の私に構わずに抱きついてきた。
「ああああ! しん、死んだかと、思った!」
 そしてわんわんと泣き始めた。
 その泣き声はお風呂場によく響いた。
 徐々に脳に血液が戻ってくると、自分がとんでもない状況になっていることに気が付いた。
 葵ちゃんに、抱きつかれてる! しかも私は裸で!
「あ、葵ちゃん、私は平気、平気だよ、濡れちゃうよ」
 葵ちゃんはひっくひっくと泣きながら体を離した。私はさっと胸を隠した。
「ごめんね。私は本当に大丈夫。もうお風呂から上がるから、葵ちゃんも着替えておいで」
「はい……」
 葵ちゃんは目を拭いながらお風呂場から出て行った。
 その後、私は慎重に湯船から上がり、脱衣所に葵ちゃんがいないことを確認してからお風呂場を出た。
 リビングに戻ると、トマトソースの香りが鼻をくすぐった。私はいつも通りドライヤーで髪を乾かし始めた。葵ちゃんは夕食をお皿によそっていた。
 ドライヤーの風の音だけが部屋に響く。私はちらりと葵ちゃんの様子を見た。目を赤く腫らしてしまっている。そんなに心配をかけてしまって、本当に申し訳ない……。
 髪の毛を乾かし終えると、既に夕飯が並べられたテーブルに着いた。今日は鶏肉のトマト煮だ。
「よく水分を摂ってくださいね。あとこれ、あたしがいつも飲んでるやつです。飲んだ方がいいと思います」
 葵ちゃんは真顔でそう言って、鉄分のサプリメントのパウチを置いた。
「ありがとう。いつも何から何まで……。じゃあいただきます」
 私はトマト煮をもそもそと食べた。
「おいしい……」
 本当においしかったけど、いろいろあって気まずく、声が少しだけ小さくなった。
 私は黙々と夕飯を食べた。葵ちゃんはスマホを見ている。話しかけるのは食べ終わってからにしよう……。
「ごちそうさまでした。おいしかったよ」
「それはよかったです」
 葵ちゃんはそう言って静かに食器を下げ、すぐに洗ってくれた。
 一仕事終えたタイミングを見計らって、私はようやく切り出した。
「あの……ちょっと話したいことがあるんだけど、いいかな」
「へ? は、はい……」
 かしこまった雰囲気だったせいか、葵ちゃんは戸惑っているようだった。私はソファに座って葵ちゃんが来るのを待っていたけど、なぜかいつまでもキッチンでおろおろしている。
 ……そんなに嫌なのか? 私のこと……。
 仕方がない。腹をくくった私は立ち上がり、頭を深々と下げた。
「本当にごめんなさい!」
 私は床を見つめたまま続けた。
「私は自分のことばっかり考えてる最低な女です。嫌われても……しょうがないと思ってます」
 やるせない気持ちで、私は唇を噛んだ。
「だから、その、ごめんなさい……」
 ただ謝ることしかできない。涙がこぼれてしまいそうで、私はぎゅっと目を閉じた。
「陽向さん」
 私の頭の上から、葵ちゃんの優しい声が聞こえた。
「あの……顔を上げてください」
 その言葉に従い、私はゆっくりと顔を上げた。
 すると、困惑したような表情の葵ちゃんが見えた。
 葵ちゃんは口を開いた。
「あのう……」
 それはきっと、死刑宣告。
 ああ、私はどんな言葉でも甘んじて受けよう……。
「……どういうことですか?」
 葵ちゃんは困惑した様子のままでそう言った。
 …………え?
 事態が飲み込めず、私もおろおろした。
「いや、だから、私のせいで、葵ちゃんが私のことを嫌って……」
「ええ! そんな、陽向さんを嫌いになったことなんて、ありません」
「ええ?」
「ええ?」
 私たちはぽかんとして見つめ合った。
 沈黙が部屋を包む。
「えっと……状況を整理させて」
「はい……」
「葵ちゃんは、私のことを嫌ってない」
「はい」
「じゃあ、どうして避けてたの?」
「え」
 葵ちゃんはまたおろおろした。
「避けて……ない、と思いますけど……」
「ええ? でも、目は合わないし、朝はいつもより早く出るし、避けてるように見えたよ」
「それは……」
 葵ちゃんは両手を頬に添えて俯きながら言った。
「まあ、その、大学生なんで、そういうこともあります……」
「……どういうこと?」
「細かいことはいいんです! とにかく、私は陽向さんのことが……」
 葵ちゃんはそこまで言ったところで「が……」の口の形のままフリーズしてしまった。私が不信な顔で覗き込むと、また動き出した。
「……嫌いだったことはないです。あの、態度が変だったことはすみませんでした。もう大丈夫です」
「そう……なら、よかった」
 うーむ。ちょっとよくわからないけど、本人が大丈夫だって言ってるし、まあ、いいか。
「そうだ、それより!」
 突然、葵ちゃんはぱちんと弾けるように言った。
「さっき倒れたじゃないですか、ケガはありませんか?」
「ああ、うん、平気」
 ちょっと腕にあざができた程度で、ケガらしいケガは全然ない。
「もお……本当に心配したんですから。頭を打ったり、湯船に沈んだりしてたら、一巻の終わりでしたよ?」
 その状況を想像したらゾッとした。
「不幸中の幸いだったね」
「こんなところで運を使い果たしたらダメですよ。今日は水分をたっぷりと飲んでから寝てくださいね。鉄分サプリはちゃんと飲みましたか?」
「なんか、お母さんみたいだね……」
「そうですよ。いつもご飯を用意してますから」
 そう言って葵ちゃんは腰に手を当てて笑った。
 私も一緒に笑った。
 なんだかいろいろあったけど、仲直りできたみたいでよかった。
「一緒にテレビでも見ようよ」
 私はソファに座り、横の座面をぽんぽんと優しく叩いた。
「は、はい!」
 葵ちゃんは少しだけ固い顔で答えた。
 あれ、やっぱりちょっと、態度が変だよ……?