同居人は女子大生 ~アラフォーだけど恋してもいいですか?~

 目を覚ますと、寝間着が雨に打たれたようにぐしょぐしょに濡れていることに気が付いた。全身がべたべたする。どうやら、ものすごく寝汗をかいたみたいだ。乳の下がかゆい。
 枕元にある空っぽのペットボトルを見て、体調不良で寝込んでいたことを思い出した。でも、大汗が悪いものを流してくれたのか、今は体が軽い。あたしが熱を出したときのいつものパターン。
 ベッドから半身を起こすと、重力に従って額の冷却シートがはがれそうになった。そういえばこれ、陽向さんが貼ってくれたんだ。
 ぼんやりとした記憶が頭に浮かぶ。あのとき、陽向さんはあたしの頭を撫でてくれた。その手は優しくて、柔らかくて、ふにっとあたしの額に触れた。そういえば、陽向さんに触れられるのは初めてだったかもしれない。
 その感触を思い出したら、自分の心臓の音が耳の奥から聞こえてきた。とくん、とくん。あれ、まだ熱があるのかな……。
 汗を拭き取ってから体温を測ると、三十六度六分だった。平熱だ。
 途端に強い空腹を感じたあたしは、ベッド脇に置かれたみかんゼリーに手を伸ばした。みかんといえばビタミンCで、免疫力向上、だよね? きっと陽向さんが気にかけてくれたんだ。
 あっという間にゼリーを食べ終えると、ドアの向こうから陽向さんの声が聞こえた。でも、スマホを見るとまだ午後二時だった。あれ、会社に行かなかったのかな。
 汗びっしょりの服を着替えてから、そうっとドアを開けると、ダイニングテーブルでヘッドセットを付けた陽向さんがノートパソコンに向かってしゃべっていた。わあ、まさかテレワーク? そんなことあるんだ。
「……値上げの金額がまあまあ高いので、ライセンスの更新はいったん今年度で終えて、別の製品に乗り換えるのもありだと思います」
 詳しいことはわからなかったけど、仕事の話をしていることは明らかだった。あたしは邪魔をしないように、静かに洗面所へ向かおうとした。
 すると、陽向さんはあたしに気が付き、目だけでこちらを見て、あ、と声に出さずに口を開けた。あたしは元気になったことをアピールしようと、片手でガッツポーズを作って笑顔を向けた。すると陽向さんも安心したように微笑んだ。
 ところが。
「え? あ、私ですね、はい。えっと、すみません、もう一度いいですか?」
 話を聞き逃してしまったようで、陽向さんは慌てだした。邪魔しちゃってごめんなさい……。
 
 熱いシャワーで汗を流してからリビングに戻ると、陽向さんの打ち合わせは終わっていた。あたしは光の速さで頭を下げた。
「仕事の邪魔しちゃってごめんなさい!」
「そんな! 全然!」
 陽向さんは慌てて手を振った。
「むしろ起こしちゃったでしょ。ごめんね」
「いいえ、ちょうど起きたところでした。汗をいっぱいかいたら、すっかり体調が戻りました。熱もないです」
「そう、それはよかった」
 ほっと息を吐き、すっかり安心した様子の陽向さん。
 今日はすっかりお世話になってしまったから、あたしもやることをやらないとね。
「じゃあ、夕飯の買い出しにでも行ってきますね」
「だめだめ葵ちゃん。何言ってるの。今日は休みなさい」
「でも、もう熱もないんですよ。確かめます?」
 あたしは陽向さんの横に座り、ずいっと顔を近づけた。
「ええ? ええ、じゃあ……どれどれ」
 陽向さんのマシュマロみたいな手が、あたしの額にそっと当てられる。柔らかくて、気持ちがいい。
 すると思いがけず、あたしの心臓が高鳴った。あれ、なんだこれ。嫌じゃないけど、なんだこれ……。恥ずかしさを感じたあたしは目を逸らした。
 熱を確認し終えた陽向さんは、少し心配そうな顔でゆっくり手を外した。
「うーん、確かに熱はないけど、病み上がりだから出かけない方がいいよ。ちょっと顔も赤いし」
 あたしはびっくりして頬に片手を当てた。熱は下がったはずなのに、顔が、赤い?
「ちょっとシャワーが熱かったかもです……」
「食欲はある?」
「はい」
「じゃあ、今日はデリバリーにしよう。六時になったら仕事を終わりにするから、何がいいか考えておいて」
 そう言い切った陽向さんはとても頼もしかった。
 それにしても、六時まではまだまだ時間がある。ふと、あたしは陽向さんのノートパソコンが気になった。
「あのお、もしお邪魔じゃなかったら、横で見ててもいいですか?」
 すると、陽向さんはいたずらそうに笑った。
「社外秘だからダメでーす……なんてのは冗談で、大したものはないから、見ていいよ」
 陽向さんはそう言ってノートパソコンに向き直った。
 カタカタカタカタ……と手元を見もせずに素早くキーボードを叩く。あっという間にメールが書き上がり、宛先と文面を再チェックしてから送信ボタンを押した。
 ……めっちゃかっこいい。
 普段の陽向さんとのギャップがすごい。おいしそうにご飯を食べて、のんびりとテレビを見ている姿しか知らなかったけど、職場ではこんな感じなんだ。
 その後も、チャットで誰かにメッセージを送ったり、エクセルを編集したり、黒いウィンドウを立ち上げて謎のコマンドを打ったり。陽向さんは淡々と仕事をこなしているようだった。
 ポロン、と音が鳴り、右下にチャットメッセージの着信が通知された。
『書類のチェックをお願いします』
 メッセージの差出人は緑川心。例のレズビアンの新入社員だ。その途端に、なぜか胸の奥がざわざわした。ちらりと陽向さんの顔色を窺うと、陽向さんは相変わらず仕事モードの真顔で、それはあたしを安心させた。
 ……安心?
 今、あたしは何に安心したんだ?
 なんだかよくわからなくなり、胸のざわざわは徐々にもやもやに変化していった。
 その後、緑川さんの作った書類には、これでもかというくらいに修正すべき点の指摘が書き連ねられた。そして、タン! と強めにキーボードを叩いて送り返されたのを見て、あたしは苦笑いした。そういえば、ポンコツだって嘆いていたな……。
 陽向さんはお茶を一口飲んでからこちらを見た。
「ずっと見てて飽きない?」
「ちっとも飽きません。陽向さんが仕事をしているところ、初めて見ますもん」
「そっか、すごいね……。でも、ちょっと休憩。アイス食べる?」
「食べます!」

 しばらくして、陽向さんの仕事が終わった。あたしはその間にチェックしたデリバリーアプリの画面を見せた。
「タイ料理とか、食べられます?」
 せっかくデリバリーなんだ。家では作らなそうな料理を食べたい。
「うん平気。でも、病み上がりにタイ料理なんて食べるの?」
「タイの人は病み上がりにタイ料理を食べると思います」
「まあ、それもそうか……? いいよ、そこにしよう」
 注文してしばらくすると、配達員がやって来た。あたしたちは二人ともカオマンガイを頼んだ。机に並べると、ナンプラーの香りが鼻をくすぐった。
「それにしても、仕事をしているときの陽向さんは普段と雰囲気が違いましたね」
 エスニックな味わいに舌鼓を打ちながら、あたしは感想を述べた。
「そう?」
「いつもより真剣そうな雰囲気でしたよ」
「ああ、それはあるかも。職場は私にとって戦場で、鎧が必要なのよ」
 あたしの顔は少し引きつった。
「戦場……? 生死にかかわる……?」
 すると陽向さんはおかしそうに笑った。
「いやいやそんなんじゃなくて。気を引き締めてやってるってこと。その分、家では鎧を脱いでリラックスしてるの」
「なるほど、陽向さんは戦士なんですね。緑川さんの書類とも戦ってましたもんね」
「ああ……」
 陽向さんは空中を見つめ、そこを箸で指すようにしながら言った。
「あの子は本当にね……妙な自信に満ちてて、面倒だと思ったことはすぐに先延ばしにして、ミスしても『チームみんなでカバーすれば大丈夫ですよね?』みたいな態度でいまいち反省の色もなくて、ねえ」
「大変ですね……」
「ふふっ、でもね」
 陽向さんは少し楽しそうに笑った。
「まだ社会人一年目だし、多少出来が悪いくらいが可愛げがあるとも思うよ」
「はあ……」
 あれだけ文句を言いつつも、陽向さんは緑川さんのことを気に入っているようだ。二人ともレズビアンだし、何か惹かれるものがあるんだろうか。
 ていうか……あれ? レズビアン同士ってことは、二人が付き合ったりとか、そういう可能性もあるのか。そうだよね、レズビアンなんだから。
 顔も知らない緑川さんのことを考えたら、カオマンガイが喉を通らなくなった。どうもあたしは、緑川さんのことを気に入っていないみたいだ。
 そんなあたしの気持ちに関係なく、陽向さんはご機嫌そうにカオマンガイを食べ続けた。
「あれ、食べないの? なら私が食べちゃうよー」
 陽向さんは、あたし以外の誰かが作ったカオマンガイをえらく気に入ったらしく、とうとうあたしの分まで狙いはじめた。
「……食べすぎると太りますよ」
「うっ……気を付けます……」
 陽向さんはバツの悪そうな顔でしゅんとした。
 ……しまった。陽向さんに八つ当たりしてしまった。
 病み上がりだからかな、今日のあたしは調子が悪いな……。